第4話 遠吠え

 イーストエンドは倫敦ロンドンの中心部を流れるテムズ川の北岸に位置する。産業革命で成長した大英帝国の、影の部分を負わされた地域だ。

  

 川べりには工場や港湾施設が並び、低所得な労働者らが住む。ストリートチルドレンも多いし、国外からの移民や難民も入り込んでいる。


 混沌とした街は、ふだつきの魔物が潜むにはうってつけだ。管理局や倫敦警視庁スコットランドヤードも目を光らせているが、魔物が絡んだ事件が頻繁に起きていた。

  

 体力が回復したラウルはアデラに言った。

「アデラ、外出するときは言ってくれ。おれもついていく」

「え。わざわざついてこなくていいよ」

「物騒だからな。警戒した方がいい」

「心配しなくていいよ。子供は遊んでなよ」

「子供じゃないって言ってるだろ!」


 渋るアデラに、ラウルがなおも言う。

「アデラ。相手が人間なら怖くない。でも管理局には監視者ウォーデンと呼ばれる子飼いの魔物がいる。見つかったら厄介だぞ」


 アデラは口をとがらせた。

「ラウルも追われているんでしょ。そっちこそ出歩いたら危険じゃないの?」

「おれは気配を遮断できる。追っ手も追い払える。でもアデラには無理だろう?」

「わたしだって、気配は消しているつもりだよ」

  

 アデラもこう見えて注意している。


 男物の服装も、余計なトラブルを避けるためだ。着飾ることはあきらめている。もっともこの界隈で着飾っている娘は大半が娼婦だが。アデラは努めて目立たないようにしていた。


 アデラは、母親が亡くなった二年ほど前から、どんどん美しくなってきたことを自覚していた。


 うぬぼれではない。艶やかな黒髪はこの国では目立つ。肌は透き通るように白く、しみひとつない。黒い瞳には星屑のような光が宿っている。


 人間離れした美しさと言ってもいい。

 明らかに吸血鬼の特質が現れていた。


 ラウルが言うこともわかる。それに、気にかけてくれるのは、嬉しい。母親が亡くなって以来、アデラのことを本気で気にかけてくれる人はいなかった。

  

「アデラの気配は異質なんだ。見るものが見たら、ごまかせない」

「ラウルは心配性だなぁ」

 そんな風に言いながらも、アデラはラウルに同行してもらうことにした。


 ラウルの心配は、杞憂ではなかった。

  

 数日後、食料品店で買い物をしていたアデラは、三匹の猟犬に察知された。

 ラウルは店のそばで気配を消して周囲を警戒していた。アデラが店を出たところで、猟犬が風のように走り込んできた。


「わわっ」

 アデラは驚いて身をすくめる。

 ラウルがアデラをかばい、猟犬を蹴り飛ばす。ラウルはアデラの手をひき、馬車が行き交う通りを強引に渡って裏通りに入った。


「ラウル、何あれ?」

「犬を操る監視者がいる。たぶんそいつだ」

 ラウルを探していたのだろうが、アデラの魔力に反応したようだ。


「ラウル、どうするの?」

「もともと標的はおれだ。アデラは隠れろ」

「ラウルを置いていけないよ」

「おれひとりなら何とかなる」

「ううん、ラウルも一緒に逃げよう」

「ちっ。言い合ってるひまはない。川の方に走るぞ」


 アデラとラウルはこうして監視者と遭遇したのだ。

  

  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 いまのラウルは、狼と人の中間のような姿だ。


 大人の体躯に、銀髪から突き出た耳、手足は筋肉が隆々と盛り上がり、尻尾も生えている。


 この形態を「獣人」と呼ぶ。

 人狼は戦闘時には獣人になることが多い。両手を使えるし、魔物の力も発揮しやすい。これが本来の姿でもある。


 ラウルがアデラにささやく。

「俺が吠えたら走れ。この先の桟橋まで逃げるんだ。必ず追いかける」


 監視者の女は、予想通り、犬を操る魔犬ムアサドの魔物だった。


 女は犬の顔で言う。

「管理局のマチルダ・ハントだ。観念しろ」

「魔犬ふぜいが人並みに名乗るとは。聞いてあきれる」

「何とでも言え。ラウル・リー。ごたくは後で聞く」


 マチルダも獣人の形態になった。細身のしなやかな身体で身構える。


 ラウルが天を仰いで吠えた。

「おおおおお」

 周囲の空気がびりびりと震える。

 まるで狼の遠吠えだ。


 アデラが間髪を入れず動き、通りの先に向かって走った。


 三匹の猟犬はラウルの気迫に圧倒されてとっさに動けない。


 マチルダがラウルに鞭を放つ。ラウルはそれを右手で難なくつかんで引っ張り、マチルダの体勢を崩した。


 人狼の最大の能力は、その膂力りょりょくにある。爆発的な力の強さは、魔犬の比ではない。


 アデラが走りながら振り返ると、ラウルがマチルダをつかんで投げたのが見えた。


 アデラはテムズ川の桟橋にたどり着く。近隣の工場が物資を船で受け渡すための施設だ。


「はぁ、はぁ」

 全力疾走したアデラは息があがっている。後ろを振り返ると、三匹の猟犬が再び迫ってきていた。


(追いつかれちゃう。どうしよう)


 アデラは何も思いつかない。ダンピールは吸血鬼に匹敵する最強クラスの魔物のはずだが、アデラにはただの犬を追い払うこともできない。


 三匹の猟犬がアデラに飛びかかる。

 そのときだ。


 横合いから何かが飛び出してきて、猟犬を跳ね飛ばした。


 二頭の狼だった。


 いずれも銀色をした見事な毛並みの狼だ。低く唸り声をあげ、猟犬を威嚇する。


 アデラはラウルが狼に変化へんげしたのかと思ったが、違った。まもなくラウルが獣人の姿で追いついた。


「アデラ、大丈夫か?」

「うん!」


 ラウルはアデラを抱えあげる。驚いてもがくアデラに有無を言わさず、そのまま二匹の狼を従え、テムズ川を飛び越えた。



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