かたつむり

鳥尾巻

恋矢

 ドアが閉じた。軋みの音すら立てず滑らかに。こうあるべきと決まっているような子供部屋。ペールブルーの扉。無垢な白い壁。

 パステルカラーとお菓子の悪夢に閉じ込められた、甘やかなマヤカシの楽園。


 僕らはそこで本能の壊れたケモノになる。

 

 遠くから聞こえる祭囃子。彼女が僕の耳を塞いだら、それが合図。

 余計な雑音は何も聞かなくていい。細い指が耳殻を掴み、暗い孔に潜り込む。貪るように唇を食む白い歯、気分の悪くなるような水音と、荒い呼吸音しか聞こえない。生理的な涙が浮かび、頭の奥がぼんやりと霞む。

 互いに脱ぎ散らかした色鮮やかな浴衣の色が水色のシーツの上でもつれ合う。ほどけた藍染めの兵児帯へこおびを僕の手首に巻き付けて、スイは妖艶に笑ってみせた。


「ユウちゃん。今日は何して遊ぶ?なんでもいいよ?」


 ほんのり上気した頬にかかる長い黒髪。白い肌、切れ長の黒い瞳。つつましやかな赤い唇。細い首、ふっくらと盛り上がった豊かな胸、くびれた腰。細く長い脚から続く、桜色の爪先。

 彼女が与えてくれるもの。僕が欲しくてたまらないもの。僕は忌々しい喉仏を上下させて、懇願の涙を流す。


「でも……」


「言えないの?」


 スイは笑いながら僕を見下ろし、僕の身体に自分の浴衣をかける。鮮やかな紅緋べにひに白い花。彼女にこそ似合うその色を、僕は藍色の枷に戒められた手で握り締める。

 僕の首筋を辿り、はだけた平らな胸を滑る小さな手の平。寒くもないのに尖った胸の頂を、熱く柔い指の腹が掠めるたび、情けないうめき声が漏れた。


「かわいい」


「スイ……スイ、おねがい」


「いいよ」

 

 もう一度僕の上にゆっくりと覆い被さったスイは、軽く耳朶を噛んで、脳を蕩かすような蠱惑的な声で、僕の耳に甘い毒をひっそりと注ぎ込んだ。



◇◇◇ 

 


 僕の母は、幼い頃に僕を置いて出て行った。異性に依存しないと生きて行けない母は、ある日この町を訪れた外国人と恋に落ちた。そして若くして身籠り僕を産んだ。国に帰る男に捨てられ生活が立ち行かなくなった彼女は、僕を祖父母に預けてそのままいなくなった。

 記憶にはないが、写真で見る限りどこか儚げな美しい女だった。透けるような白い肌に長い茶色の髪。長い睫毛、細い鼻すじ、薄い唇。

 

 それら全てと、恐らく父から受け継いだ淡い色彩を持つ僕を、祖父は慈しみながらも厳しく育てた。清く正しく。ことさら子供らしく。男らしく。祖父母は嫌いではないけど面影を重ねられても疎ましいだけ。僕は僕だ。母ではない。

 

 幼馴染のスイは神社の一人娘。祖父同士仲が良くて、子供の頃からずっと一緒に遊んでいた。出会った頃から美しさの片鱗を見せていたスイは、活発と言うより乱雑で、どこか投げ遣りにも見えた。容姿を賛美されるたび、蔑むような色を目に浮かべることに誰も気づいていないのが不思議だった。

 僕にはわかる。たぶん僕らは同じ。何一つ自分では選べないことを褒められても嬉しくはない。僕は勝手に親近感を覚え、いつも彼女の後をついて回った。その関係性は今も変わらない。

 

 僕とスイは毎年、祭りで白拍子の舞を披露する。年に数回開放される神楽殿。杉板を碁盤状に連ねた天井画の下で、拍子を数え厳かに歩を進める。描かれるのは花咲き乱れる地上から、八雲流れる星星と瑞獣の世界。

 静かな横笛のに乗せた七五調の歌謡。白拍子は文字通りならリズムのことで、舞う、ではなく、拍子を数えるのだ。

 古くは雨乞いの儀式とされ、男女のかみなぎが舞うことによって神を憑依させ、一時的な変身の作用があると信じられていた。


 因習の残る田舎町の、形骸化した古い儀式と言う人もいるかもしれない。けれど一歩数えるごとに僕たちの性は曖昧に神憑かみがかり、スイは男に、僕は女になっていく。夢見がちな僕らの妄想はとどまらず。

 白い直垂ひたたれ水干すいかん烏帽子えぼし、白鞘巻の刀をさして、袖繰りの赤い緒がひらりとひるがえるたび、静かな陶酔と歓喜が押し寄せる。

 神から一番遠いところにいる僕たちが、神事の舞を舞うなんて皮肉だ。


 品行方正な僕たちは、表向きは可愛らしい幼馴染みの恋人同士だ。舞の後、祭りの喧騒に紛れ、自由な時を謳歌する。誰も彼もが浮かれ騒ぎ、僕たちの秘密には気付かない。

 浴衣を着て、何事もないような顔で屋台を冷やかし、偶然会った友達とふざけながら、僕は早くスイと2人きりになりたくてたまらなかった。

 町内会の寄合は夜遅くまで続く。普段は羽目を外さない祖父もこの時ばかりは付き合いを断れない。祖母も婦人会に駆り出されて遅くなる。


 幼い頃、お祭で着る桃色の法被が着たいと陰で泣いていた僕に、スイは秘密を打ち明けるように言った。


『いいよ。わたしの前では好きにしていい。わたしも青色が着たい』


 そして、僕の身体に、自分の着ていた桃色の法被を着せかけてくれた。互いの色を交換して、それからの僕たちは秘密の遊びに興じた。

 

 神社の裏手には豊かな里山が広がり、スイは息詰まる子供部屋から僕を連れ出す。青の露草で爪を染め、赤く熟した茱萸ぐみの実で唇を染める。白い花冠で僕の金茶色の髪を飾り、お姫さまみたいだと笑って王子のキスをくれた。

 厳しい祖父は僕が男の子であること以外ゆるしてくれなかったけれど、スイはどこまでも僕を赦してくれる。

 

 そうだ。あの祭囃子の夜。スイと一緒に神社の裏で見た男女の交わり。

 醜悪で滑稽なあの行為を「愛し合う」と言うのなら、愛なんて打ち捨てられた使用済みコンドームと同じくらい価値がない。他の生き物のように子孫を残す訳でもなく、ただ快楽の為だけの行為。

 それでも醜く歪む女の顔の中に見える喜悦が僕の目に焼き付いて、僕は彼女になりたいと思った。強く握りしめたスイの手からも興奮が伝わってくるのが分かった。

 

 僕らには愛なんて理解できないし、恋も尚更だ。僕は彼女の性になりたくて、彼女は僕の性になりたい。毒を注ぎ込む僕をゆるす彼女の蟲毒にはまり込み、出口のないマヤカシの楽園の中で目翳まぐわう。


 ただ可愛いモノが好きだ。甘くて柔らかくて美しいモノになりたい。スイの背をはるかに追い越して、硬くいびつになる身体に僕は泣いた。グロテスクな怪物に成り果てた僕を、スイはどろどろに溶かして別の存在に変えてくれる。


 僕たちは反転する。多くは雌雄同体のカタツムリのように。僕らは互いにないものを求めて絡み合う。

 鋭い恋矢れんしと特殊な粘液を持つカタツムリが、相手を傷つけても利己的な本能に従ってしまうように。浮ついた字面じづらとは裏腹に、交尾の際にその矢は酷く相手を傷つけて弱らせる。


 焦がれるほどに欲しい存在でありながら同時に妬んでしまう醜い心。それでもこの感覚を「共依存」なんて馬鹿みたいな言葉で片付けて欲しくない。


 哀しいことなど何もないはずなのに、涙があふれ、荒い息の合間に嗚咽が漏れる。スイは揺れながら、上から僕の耳を塞いだ。自分の声が蝸牛管を巡り毒の回りを早くする。

 息が続かない。激しくなる心臓の音を数えて、僕らはまた性を交換する。


「終わりたくないな……ずっとこのままでいたい」


「……そうだね」


「ごめんね」


「ん。いいよ」


 いいよ。と繰り返し囁くスイの息も荒い。涙の雫が僕の胸に落ちる。僕の一部を取り込んで揺れ動く頼りない体。聞きようによっては熱烈に甘い言葉は、ただエゴに染まった自分のためのもの。


 彼女は僕で、僕は彼女。互いの恋矢と毒で傷つけ合い、ゆるし合うだけ。


〈終〉

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かたつむり 鳥尾巻 @toriokan

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