第2章 異端 ~いたん~

異端.1


『――セレグ…。…――レグレーシュ。来なさい。こっちよ……』


 ふわっと背中にまわされて、彼の肩をとらえた母の手。


 駄目だ……いけない。


 ――行っちゃいけない……


 思う自分がいるのに幼い彼は、言われるままに、たほたほとを踏みだした。


 父を亡くしてから髪をり、まゆくようになっていた…――


 ……そう。こんなことがあったのは十歳の誕生日の三日前。


 母は、あの日たしか……。


 少し早いけれど、おまえがこの世に生をうけた十度目の記念日をこの里のみんなで迎え、祝うのだと。


 そう言った。


 いまも、はっきりおぼえている——


 方々ほうぼうに干し草がうずたかまれた納屋。

 生きた巨木きょぼくを中心に組まれた小屋の天井には、ぽっかりと穴がいていて、そこからしこむ真昼の光線が、おごそかな広がりを見せていた。


 白い腕にみちびかれ、中央の大木の幹に背中をむけて腰をおろした彼の横で、じゃらっと重そうなくさりが鳴る。


 ひとめぐり……ふためぐり…


 おなかにまわされたのは、かたくてふとい合金製の組み合い。


 それは、ぐいっと。彼の肋骨ろっこつの下に容赦ようしゃなくくいこんで、その肉のうすい小さな体を背後の木肌にひき寄せた。


『いたい……。いたいよ、母さん』


『がまんするの。すぐ……、終るから……』


 二重三重にじゅうさんじゅうにめぐらされた鎖は、彼を硬質こうしつな木の幹におしつけて身動きとれなくする。


 じゃらじゃら、じゃらっ……


 おなか、胸、のどを押さえてつぶす金属のいましめ。


 そうしているあいだ、投げだされていた両足と、始終、動かしていた右腕のひじから先だけが自由で……。


 彼は、自身の細い首を圧迫あっぱくする鎖をつかまえて、もがいた。


『かぁさん、いたいっ! …いたいよ……。どうして? ……どうして…こんなの、嫌だ……』


 懸命にうったえても母は答えない。


 ハァ…ハァ……じゃりっ………ゴキッ……


 聞こえるのは慣れないものをあつかうことで乱れたその人の息づかいと、その人が踏みしめる土壌どじょうのこすれる音。


 そして……鎖どうしが、ぶつかったり、あわさったり、こすれたりする濁音だくおん


 かちゃかちゃ…ちゃ……かちっ。


 わずかにがあって……。立ちあがった母が、左下方かほうに彼を見おろした。


 恐い目だった。


 彼がよく知っているまわしい存在を見るまなざし。恐怖ととなりあわせの嫌悪……


 その人物陰ものかげで、ほの見せても――直接には注がれることがなかったもの。


 その時それまでは……。


『…かぁさ……?』


『平気よ……すぐにすむ。


 震える声で告げた母が、さっと駆けだして小屋を出ていく。


 け放たれていた扉がガタガタ動いて、そこから入ってくる光が細くなり、ぴたっとあわさった。


 ひとり、のこされた彼は、鎖をひきはがそうとする手を止め、母が出ていった場所をまじっと見つめた。


 合わせ板のすきまから外界の光が侵入してくる粗末な扉。


 不安でも困惑でもない。

 いま見た母の表情を、この現実を信じたくなくて……、


 彼は、それを確かめることを求めた。


 そうではなかったことを目にしかと見て安心したかった。

 行ってしまった母が、もどってくることを期待したのだ。


 身動きがとれないという現実……


 おいていかれたかも知れない予感…――それが意識のはしっこに色濃くくすぶっているのに、ほかのことは考えられなかった。


 そうしているうちに、わらかなにか……。燃えやすいものが火にさらされているような、甘く、こげっぽいにおいがただよいはじめ——…


 どこからともなく白い煙がむくむくとあふれだし、たなびいた。


 ぱちぱち、ぺちぺち……


 耳と肌がおぼえている嫌な音。


 右にオレンジ色のゆらぎを見て、そのあたりの壁をなめている炎に気づいた彼は、幼い瞳をいっぱいに見ひらいた。


 いつ燃えだしたのか……、


 ぐるりと同心円状にめぐらされている木製の壁全体が火の気をおびていた。


 母の姿が消えた入口も燃えている。


 彼は本能的に、その鎖から……。炎から逃れようと、もがきはじめた。


 ゆるいところもきついところもある。


 幾重いくえにもまかれた金属の束縛そくばくは、固く、ぎしぎし、しがらみ合っていてほどけない。


 げほっと咳き込みながら見まわした周囲には、灰色っぽい煙がゆらめいていた。

 それがしずんでくる。


 のどがいたい……目がいたい…。鼻が、つんとする……。

 

 涙があふれて視界世界がゆがみをおびている。


 息がつまって、うまく呼吸もできない。


 充満する熱気の中にひとり、とり残された彼は、けほけほっとむせび、あえいだ。


 彼を束縛している鎖が熱をもちはじめていた。


 ――知っていた…。


 彼をつかまえているこのいましめは、自分の力ではほどけない。


 どんなに嫌でも、もがいても、がんばっても、かたく組みあっていてゆるまない。


 でも、だいじょうぶ。


 扉や壁をなめている、あの炎が自分を襲うまえにが来てくれるはずだから……


 前は来たのだ。


 煙がしみてか、喉が痛いのか、悲しいのか。

 思考や感覚がごちゃまぜで、原因なんて、判別つかわからないなかに涙があふれて……、

 ちゃんと目をひらいてなどいられなかった。


 でも。そうしていたら、とつぜん自分を木に縛りつけていた鎖がたわみ、ずり落ち、ほどけて、 自分は彼に、かかえられたのだから……。


 伸ばした両手で、必死にしがみついた。

 その後のことは覚えていない。

 けれど、たすかった。


 だから、だいじょうぶだと思っていた。


 それなのに、いま、その人は来なくて……


 うずを巻いてせまるオレンジ色の火炎かえんが、彼のほおを……肩をがしはじめた。


 ……痛い……熱い…! 焼かれる………。


 露出している肌が、じりじり。ばちばちと無数の鞭で激しく連打されているように痛む。


 いつか……より、はるか過去むかし……


 ずっと前にも、こんなことがあったような――…


 もっと成長した大人に近い自分が、燃えるように熱い誰かに抱きつかれて身動きを封じられているような…――そんな、それまでなかったはずの不可思議な記憶もよぎってゆく。


 自分の肉が焼ける生々しい臭気。

 喉や肩の皮膚がただれれてゆく、激痛にさいなまれる中に。

 気づいてみると、朱色の炎のなかで燃えはじめた自分は、九つの時の彼ではなくて、二つ……三つと、成長をとげていた。


『…ヴェルダ……っ』


 炎にさらされながら彼は叫んだ。


 そこに人影などなかったけれど、声のかぎりに。


『ヴェルダッ! どうして……』



 ——オレは、ここに来た! 来たんだ……。

 それなのに…——



『どうして、いないっ……』


 熱気と煙に巻かれ、呼吸もままならない。

 まともに話すことなんて不可能で、声なんて出ないはずなのに彼は叫んでいた。


🌐🌐🌐

 寝台の上で目が覚めたとき……

 ひんやりと。

 外気をさそう湿気が身体にまとわりついて――シーツ、上掛け、繊維着衣がべたついて、気持ちが悪かった。


 うつぶせのまま、一度、ひらいて閉じた視界の右の方…――闇がおりているそのあたりに動くものを見たその彼が、赤ワイン色の瞳を、かっと見ひらく。


〔……暗い。けれど、この闇は……違う……〕


 そのあたりから聞こえたのは、若い異性の声。

 つむがれたのは、闇人やみひともちいる言語だ。


 東には、その言葉それを第二の公用語としてたたえ、めそやす里がある。


 霊的な抑揚よくようびて、使うにも、聴きとって把握はあくするのにも適性てきせいを必要とするそれは、身を守るために有益ゆうえきとされていた知識だ。


 その語彙ごい、響きを正確に聴きとり理解して話せること……


 そんな現実は、特別視されるなかにも時には人に忌諱きいされうとまれ、一線を引かれる理由にもなる異質な生得せいとく、才能で…――


 その種の言語がこの地域で、どうあつかわれるものなのか――彼はまだ、明確に理解してはいない。


 だからずっと、おもてに出さないようにしていた。

 しかし彼は、いまこの場面にあって。その言葉をあつかえる事実を隠そうとは思わなかった。


 そこにいるのは、《闇人やみひと》なのだ。


〔行けよ。……そのへんに仲間がいるはずだ〕


〔……誰のこと? 兄さまたち……兄姉きょうだいがいるの?〕


 はじめに聞こえたものとは違う。

 そこに成されたのは、高音域でありながら、少し冷めて感じられる大人びた声だった。


 ひとりではない。ふたりいる。


 暗いので、しかと視角のうちに見定めて確認したわけではなくても、それを呼びこんだ張本人である彼。セレグレーシュは、感覚的にそういった事実――情報を把握はあくしていた。


〔出口はそこだ。オレのことは忘れて。オレ、おまえらと関わるつもり、ないから……〕


 いままわしい自分自身の資質。


 まれにいること……出てくることがあるのだ。

 おかしな夢や悪い夢を見た時などは、特に。


 まねこうと思って、まねくわけではない。


 これという予兆もなく自分のまわりで起こる現象。


 どくどくと心臓が小躍こおどりしていた。


 それが不完全なものにならなかったこと。

 血が流れなかったことを理解し、ほっと胸をでおろしはしても起きて欲しくはないことで……。


 誰にも知られたくない――知られるわけにはいかない彼の異質な特性。

 実態だったから、セレグレーシュは寝台につっぷして、その現実から目をそむけた。


 そして実際に見た悪い夢より、いま起きたかもしれない事態これまぼろしであることをせつに願いながら、ふたたびうとうとと、底の見えない眠りに落ちていったのだ。

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