第2章 異端 ~いたん~
異端.1
『――セレグ…。…――レグレーシュ。来なさい。こっちよ……』
ふわっと背中にまわされて、彼の肩をとらえた母の手。
駄目だ……いけない。
――行っちゃいけない……
思う自分がいるのに幼い彼は、言われるままに、たほたほと
父を亡くしてから髪を
……そう。こんなことがあったのは十歳の誕生日の三日前。
母は、あの日たしか……。
少し早いけれど、おまえがこの世に生をうけた十度目の記念日をこの里のみんなで迎え、祝うのだと。
そう言った。
いまも、はっきりおぼえている——
生きた
白い腕に
ひとめぐり……ふためぐり…
おなかにまわされたのは、
それは、ぐいっと。彼の
『いたい……。いたいよ、母さん』
『がまんするの。すぐ……、終るから……』
じゃらじゃら、じゃらっ……
おなか、胸、
そうしている
彼は、自身の細い首を
『かぁさん、いたいっ! …いたいよ……。どうして? ……どうして…こんなの、嫌だ……』
懸命にうったえても母は答えない。
ハァ…ハァ……じゃりっ………ゴキッ……
聞こえるのは慣れないものをあつかうことで乱れたその人の息づかいと、その人が踏みしめる
そして……鎖どうしが、ぶつかったり、あわさったり、こすれたりする
かちゃかちゃ…ちゃ……かちっ。
わずかに
恐い目だった。
彼がよく知っている
『…かぁさ……?』
『平気よ……すぐにすむ。終わるのよ』
震える声で告げた母が、さっと駆けだして小屋を出ていく。
ひとり、のこされた彼は、鎖をひきはがそうとする手を止め、母が出ていった場所をまじっと見つめた。
合わせ板のすきまから外界の光が侵入してくる粗末な扉。
不安でも困惑でもない。
いま見た母の表情を、この現実を信じたくなくて……、
彼は、それを確かめることを求めた。
そうではなかったことを目に
行ってしまった母が、もどってくることを期待したのだ。
身動きがとれないという現実……
おいていかれたかも知れない予感…――それが意識のはしっこに色濃く
そうしているうちに、
どこからともなく白い煙がむくむくとあふれだし、たなびいた。
ぱちぱち、ぺちぺち……
耳と肌が
右にオレンジ色のゆらぎを見て、そのあたりの壁をなめている炎に気づいた彼は、幼い瞳をいっぱいに見ひらいた。
いつ燃えだしたのか……、
ぐるりと同心円状にめぐらされている木製の壁全体が火の気をおびていた。
母の姿が消えた入口も燃えている。
彼は本能的に、その鎖から……。炎から逃れようと、もがきはじめた。
ゆるいところもきついところもある。
げほっと咳き込みながら見まわした周囲には、灰色っぽい煙がゆらめいていた。
それがしずんでくる。
涙があふれて
息がつまって、うまく呼吸もできない。
充満する熱気の中にひとり、とり残された彼は、けほけほっと
彼を束縛している鎖が熱をもちはじめていた。
――知っていた…。
彼をつかまえているこの
どんなに嫌でも、もがいても、がんばっても、かたく組みあっていて
でも、だいじょうぶ。
扉や壁をなめている、あの炎が自分を襲うまえに彼が来てくれるはずだから……
前は来たのだ。
煙がしみてか、喉が痛いのか、悲しいのか。
思考や感覚がごちゃまぜで、原因なんて、
ちゃんと目をひらいてなどいられなかった。
でも。そうしていたら、とつぜん自分を木に縛りつけていた鎖がたわみ、ずり落ち、ほどけて、 自分は彼に、かかえられたのだから……。
伸ばした両手で、必死にしがみついた。
その後のことは覚えていない。
けれど、たすかった。
だから、だいじょうぶだと思っていた。
それなのに、いま、その人は来なくて……
……痛い……熱い…! 焼かれる………。
露出している肌が、じりじり。ばちばちと無数の鞭で激しく連打されているように痛む。
いつか……それより、はるか
ずっと前にも、こんなことがあったような――…
もっと成長した大人に近い自分が、燃えるように熱い誰かに抱きつかれて身動きを封じられているような…――そんな、それまでなかったはずの不可思議な記憶も
自分の肉が焼ける生々しい臭気。
喉や肩の皮膚が
気づいてみると、朱色の炎のなかで燃えはじめた自分は、九つの時の彼ではなくて、二つ……三つと、成長をとげていた。
『…ヴェルダ……っ』
炎にさらされながら彼は叫んだ。
そこに人影などなかったけれど、声のかぎりに。
『ヴェルダッ! どうして……』
——オレは、ここに来た! 来たんだ……。
それなのに…——
『どうして、いないっ……』
熱気と煙に巻かれ、呼吸もままならない。
まともに話すことなんて不可能で、声なんて出ないはずなのに彼は叫んでいた。
🌐🌐🌐
寝台の上で目が覚めたとき……
ひんやりと。
外気をさそう湿気が身体にまとわりついて――シーツ、上掛け、
うつぶせのまま、一度、ひらいて閉じた視界の右の方…――闇がおりているそのあたりに動くものを見たその彼が、赤ワイン色の瞳を、かっと見ひらく。
〔……暗い。けれど、この闇は……違う……〕
そのあたりから聞こえたのは、若い異性の声。
つむがれたのは、
東には、
霊的な
その
そんな現実は、特別視されるなかにも時には人に
その種の言語がこの地域で、どうあつかわれるものなのか――彼はまだ、明確に理解してはいない。
だからずっと、
しかし彼は、いまこの場面にあって。その言葉をあつかえる事実を隠そうとは思わなかった。
そこにいるのは、《
〔行けよ。……そのへんに仲間がいるはずだ〕
〔……誰のこと? 兄さまたち……
はじめに聞こえたものとは違う。
そこに成されたのは、高音域でありながら、少し冷めて感じられる大人びた声だった。
ひとりではない。ふたりいる。
暗いので、
〔出口はそこだ。オレのことは忘れて。オレ、おまえらと関わるつもり、ないから……〕
おかしな夢や悪い夢を見た時などは、特に。
これという予兆もなく自分のまわりで起こる現象。
どくどくと心臓が
それが不完全なものにならなかったこと。
血が流れなかったことを理解し、ほっと胸を
誰にも知られたくない――知られるわけにはいかない彼の異質な特性。
実態だったから、セレグレーシュは寝台につっぷして、その現実から目を
そして実際に見た悪い夢より、いま起きたかもしれない
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