8. 通り過ぎてしまったから
「文化祭のステージは、諦めよう。怪我を治す方が大切だし」
諦めたように薄く笑う優樹に、私は心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになる。
――嫌だ。私は、諦めたくない。優樹に、諦めてもらいたくない。
「ねえ……優樹」
私は、手を伸ばして、優樹の袖を軽く引く。
優樹は、驚いたようにぴくり、と反応した。
「――私、やめたくない」
「……え?」
「昨日の演奏、私、すごく楽しかった。演奏してる間だけは、海の中を自由に泳いで、自由に息をして、どこへでも行けるみたいな感覚になったの」
だから、足の怪我なんかで、ステージを諦めたくない。
練習の時とは違う、何かが見えるかもしれないから。
「私、もっともっと知りたい。もっと深く潜ってみたい」
決意を込めて、優樹を見つめる。
「一度じゃ、足りない。もっと、優樹の歌を聴きたい。一緒に、演奏したい」
奇跡みたいな時間だった。
もっともっと、あの感覚を感じたい。味わいたい。
「――もっと深いところで、溶けて混ざりたいの。音の海と、ピアノの色と。優樹の歌声と」
「……愛梨……」
だからお願い。
優樹も、諦めないで。
私から、あの時間を、あの感覚を取り上げないで。
「優樹」
優樹の瞳は、困ったように揺れている。
きっと、彼も、もっと演奏したい気持ちと、もうやめた方がいいという気持ちの狭間で揺れているんだ。
「――優樹も、私と一緒でしょう? 本当は、満足してないんだよね?」
「……俺……、でも」
「足なら、大丈夫。挫いたのは左足だけだから――ね?」
「……なら、病院で足の状態を見てもらってから決めよう。取り下げるか続行するか決めるのも、それからだ」
「――うん! っ、いたた」
「っ、大丈夫か? ほら、じっとしてないと」
嬉しくて、笑って大きく頷くと、身体が揺れて足首が痛んだ。
優樹が急におろおろし始めて、「先生、まだかよ」なんて言いながら立ち上がり、廊下に顔を出してキョロキョロする。
離れていく温度を、少しだけ寂しく思っている自分に気がついて、ちょっぴり驚いた。
『文化祭が終わったら、愛梨に伝えたいことがあるんだ。だから……、その時は、俺の気持ちを、聞いてくれる?』
以前、夕焼け色の中で聞いた優樹の言葉を思い出す。
あの時は、考えないようにしていたけれど、鈍感な私でも、さすがに優樹の気持ちには薄々気がついている。
『まだわからない?』
――わからないふりを続けることは、もう、できそうにない。
本当は、ずっとこのまま……、できたら修二と朋子と四人で、一緒に普通の日々を過ごしたかったという思いもある。
けれど、朋子がいなくなって、修二が想像よりもずっとずっと朋子のことを大切に想っていたことがわかって。
今まで通りの日常なんて、もう戻ってこないことがはっきりした。
どうやっても。いくら願っても。
もう、通り過ぎてしまったんだ。
だったら。
もう戻れないのなら――私と優樹の関係だって、先に進んでもいいんじゃないか。
私は、もう、気がついている。
優樹の想いに。
ずっと心に押し込めていた、私自身の想いに。
昨日の奇跡は、音楽の力を借りて、私たちの想いが昇華したものに違いないのだ。
友情。信頼。
それから、その先にある――
「あっ、ケンちゃん、やっと来た! 遅い!」
その思考は、優樹の声に遮られた。
どうやら保健の先生がやっと現れたようだ。
「あらぁ、誰か具合悪い子来てるのぉ? ごめんねぇ、職員会議が長引いて」
「嘘だろ、煙草臭いぞ」
「あらぁん、バレたぁ?」
保健室の扉を屈んでぬうっと入ってきたのは、縦にも横にも大きい、スキンヘッドの男性だった。
この大柄な先生――ケンちゃんが、この学校の養護教諭である。
「どうしたのぉ? あらぁん、足首腫れてるわねぇ?」
ケンちゃんは、早速足首の触診を始めた。
「じゃあ、俺は戻るよ。愛梨、お大事にな」
「うん。優樹、ありがとうね」
「いいっていいって。ケンちゃん、よろしくな」
「はいはぁーい」
優樹は、ぱたぱたと手を振って、教室へと戻っていったのだった。
その日は、結局早退して、病院へ行くことになった。
先生からは私に怪我をさせた女子が誰だったのか聞かれたが、知らない女子だったし、正直どうでもよかった。
わざとではなく事故だったのだから、裁かれる必要はない。
ただ、優樹も迷惑そうにしていたし、「無闇に特定の生徒の周りに集まるのは、事故のもとだからやめてほしい」と注意喚起してもらえるよう、お願いした。
捻挫した足首は、最低でも数日間は固定する必要があるそうだ。
夕方には、学校帰りの優樹が、お見舞いに来てくれた。
大袈裟に固定されてベッドに寝かされている私を見て、優樹はすごく心配した。
けれど、靭帯や骨に異常がないことを伝えると、ひとまず落ち着いたようだった。
「文化祭までには治るといいんだけど」
「ああ……でも本当に無理すんなよ。学校はどうすんの?」
「明日は普通に登校できると思うよ。松葉杖になっちゃうけどね」
「そっか……。そうだ、俺、明日からしばらく迎えにくるよ。松葉杖じゃあ、カバン持つのも電車乗るのも大変だろ?」
「えっ、でも悪いよ。優樹の家、駅の反対側じゃん」
私の家に寄るとなったら、二、三十分早く家を出なくてはならなくなる。
毎日ともなると、かなり負担になってしまうだろう。
「気にすんな。元はと言えば――」
「あーっ、それ、ナシ。――お母さんには、自分で転んで怪我したんだって言ってあるの」
余計な心配をかけたくなかったし、怪我をした原因を話すのも、何となく嫌だったのだ。
母は半信半疑のようだったが、それでも、深く聞こうとはしなかった。
「……そっか。でも、とにかく、俺が責任持って迎えにくるから」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがと、優樹」
「……こんな時に不謹慎だけど……愛梨と一緒に登校できるの、嬉しいな。あ、じゃあさ、忘れないうちに、おばさんに許可もらってくる」
「うん」
そう言って優樹は、私の部屋から出て行った。
すぐに、優樹と母が話をする声が、リビングの方から聞こえてくる。
「優樹……私も、嬉しいよ」
ぽつりと呟いた私の声は、誰に聞かれることもなく、窓から差し込む午後のひかりに、静かに溶けて消えていった。
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