第45話 胸を張って

 可愛らしいタワー柄のカップで、コーヒーを飲む中川さん。目の前にいる彼を、俺はまた不思議な感情で見ていた。その理由は、全て昨夜にある。母さんに聞いたのだ。彼との関係について。

 親のそんな話を聞くなんて、今までは考えたことがなかった。仮に父親が再婚していなかったとしても、考えなかっただろう。彼は、『妻に浮気をされて逃げられた可哀想な男』だった。更に新しい母親と名乗った女は、『血の繋がりのない息子を分け隔てなく育てる優しい女』だった。それが、あの地にいた頃のだったのだ。

 母さんと再会して、俺はきちんと向き合ってくれる求めていた親と出会った。何を聞いても、ちゃんと真摯に答えてくれる。それが俺を生んだ母だった。だからこそ、聞いてみたくなったのだ。二人の関係を。おいおいね、と言うばかりで、いつも話してくれないから。


『母さんと中川さんって、どういう関係なの? 夫婦、でいいの』


 いきなり聞くことにした。母さんが身構えないように。

 再会してから、俺たちはたくさん話をした。 聞いたことに、母さんはゆっくりでも言葉を選びながら答えてくれる。離婚のことも聞きたいけれど、それはあっちの親を見れば察しはついた。だからそれに関しては、本当にそのうちでいい。でも、この疑問だけは早めに聞いておきたかった。中川さんと仕事をしているから、という表向きの理由がある。だが実際は、単純な疑問と興味。言ってしまえば、それだけだった。 

 すぐに既読にはなったけれど、答えが返ってきのは一時間くらい経ってから。恐らく、どう答えるか考えたのだろう。 それでも、きっとまだ濁されるだろうと思っていた俺にとっては、とても真っ直ぐな答えだった。


『籍は入れていないし、恋人関係でもないの』

『同居人という表現が一番合ってるかな』

『色々と事情があってね』


 出来るだけ、隠さずに言ってくれたのだと思う。シェアハウスみたいなものなのかな。一瞬、そう納得しかけたが、俺はすぐに引き換えした。当然だ。中川さんからは、母さんに対する愛を感じるんだから。一緒に住み始めて、そういう感情が彼に生まれただけなのか。『そうなんだ』と打った後で、母さんの本音を聞いてみたいと思った。面と向かっていないことを良いことに、俺は文字を追加して核心を突いたのである。


『そうなんだ。何となく分かった』

『母さんにとって、中川さんはただの同居人ってこと?』


 本当は、好きなの? と問うてみたかった。でも、聞けない。ただの好奇心で、母との溝を深めたくないから。

 だって普通なら、問われたところで、息子にそんなことを真面目に答えない。この件は、どう聞いたって返ってこないだろう。実際に、返ってこなかった。でも今朝のことだ。俺は、母の素直な気持ちでシャキッと目が冷めたのである。


『今は確かに同居人だね。でもね、母さんは彼のことが好きだよ』


 この返信までの時間。それが余計に彼女の決意表明に感じられた。こっちは、好きかどうか問うたわけじゃないのだ。きっとこれは、嘘じゃない本心なんだろうと思った。

 でも、互いに思い合っているのに、それを伝えてはいない。勇気が出ないということなのだろうか。それとも、まだ知らない何かがハードルになっているのだろうか。朝から悶々と考えている。それで二人は幸せなのだろうか、と。


「どうした?」

「あ、いえいえ。すみません。あ……と、そうだ。池内から頼まれたものです」


 鞄から出したA4の紙。彫金師のリストだ。今のところコラボの予定もなかった思ったが、彼の方から依頼があって渡して欲しいとのことだった。何か新しい作品を作ろうとしているのだろうか。

 

「わぁ、ありがとう。助かる。あ、ねぇ。佐々木くんは、お会いしたことがある人いる? 優しく教えてくれる人いないかな」

「教えて、ですか」

「そう。僕がね、ちょっと教えてもらいたくて。隠すような話でもないから言うけれどね。妻にその……指輪をプレゼントしたいなって思ってて」

「奥さんに指輪を……誕生日とかですか」


 確か母さんの誕生日は冬だ。クリスマスよりも、正月よりも後。セーターを着ていた記憶があるから、冬なのには違いがない。まだ暑いし、半年くらいはあるだろう。今から始めれば、少しは様になるものが出来るだろうか。


「あぁ……いや。ちゃんとプロポーズをしようと思ってるんだ」

「え?」

「ん? 高級ブランドみたいなのが普通なんだろうけれど、幼馴染がね、言うんだ。自分で作ったらどうだ。その方が僕らしいって」

「プロポーズ、ですか」

「あ、おかしい? もう結婚してるのにとか思うよねぇ」

「いえ、違うんです。そんな大切な話……私にもしてくれると思わなくて」

「何で? 相談してるんだもの。ちゃんと話すよ。池内くんが来たら、どのみち話すつもりだったし」


 ケロッとした顔で、中川さんは言った。これが彼らしさだな、と思う。包み隠さずに、こういう話をする。あぁ俺にはきっと出来ないな。多分、母さんも苦手だ。

 そんなことより、この話は俺が聞いても大丈夫か。今の今まで担当者として話を聞いたが、プロポーズなどと言われると、息子としての感情がニョキニョキと顔を出してきた。母さんの気持ちを知った今、俺は中川さんを全力で応援したい。


「腕……」

「ん?」

「腕時計が良い気がします」

「腕時計?」

「あ、はい。獣医さんですよね。医療関係の友人とかは、指輪は休みの日にしかつけないと聞きますし。腕時計なら、仕事の時もつけていられます。まぁその……奥さんの好みが分からないですけど」


 最後少しモジモジしてしまったが、自信はある。俺の両親は、結婚指輪でなくて揃いの腕時計をしていたからだ。

 保育園の頃、パパとママは揃いの指輪をしているものだと友達から聞かされた。けれど、うちはしていなかった。だから、大泣きしたのだ。二人は結婚していなくて、自分は他の人の子供なんじゃないかって。その時、母さんが教えてくれた。お仕事で動物を傷つけたくないから腕時計なのよ、と。


「なるほど。そっか。それは考えなかったな。それなら確かに、つけ外ししなくていいもんね。ベルトなら僕が作れるし。時計の部分だけなんとかすればいいんだ」


 中川さんの顔が、パァァッと晴れる。この計画、上手くいくといいな。母さんの本心を、彼にも知って欲しい。だから、担当者というよりも息子として、彼の背を押そう。出来る限り力になろう。だって母さんからは、きっと伝えないから。


「佐々木くん、ありがとう。僕じゃ気付けなかったよ。指輪、上手に作れるかなぁってドキドキしてたの」

「他ジャンルですもんね。その、プロポーズをというのであれば、きちんとした自信のあるものを渡したいでしょうし」

「そうなの、そうなの」


 本当にこの人は、憎めない人だ。こうやって誰からも愛されてきたんだろうな。聞かずとも、そう納得出来るような人。羨ましいと思ってしまうくらいは、許されるだろうか。彼はメモパッドを開けて、腕時計、と書き留めた。革製カバーのポケットには、仕事関係の人の名刺が入っている。その時に必要なものを選別しながら、数枚残している感じか。ふと彼は俺の名刺を手に取り、首を傾げる。


「佐々木くんって、カタカナでカナタなんだね」

「そうですね。父がカタカナでエイタなので、きっとそこから」

「へぇ、なるほどねぇ。ご兄弟は?」

「あぁ……弟が一人。優秀の秀でシュウですけどね」

「あ、そこはカタカナじゃないんだ」

「そうなんですよねぇ。思いつかなかったんじゃないですか」


 これを心から笑って話せて、安堵している。俺は自分の名前が嫌いだった。それを知ったら、母さんは絶対に泣くだろう。良かったことなど、人より自分の名を書けるようになったのが早かったくらいだ。両親が離婚してからは、名前は呪いのようだった。

 エイタとカナコを合わせてカナタ。三人で幸せだった時、手を繋いで、よくそう言って笑っていた。母さんがいなくなって、たくさん泣いて。もう迎えに来ないことを悟って。捨てられたんだ、と思った。その母の名が入っている名前。幸せだった記憶を呼び戻す、呪いだったのだ。祖父母は、あまり名を呼んではくれなかった。何ならば、ユウと勝手に呼んだこともある。本当は改名したかったらしいが、それだけは父親が止めたという。カナタの五年間を消さないで欲しい。そう懇願したというのだ。俺が少しグレた時、そう父親がこっそり教えてくれた。きちんと愛し合っていたパパとママから生まれたんだ、と。当時はな、というオチは付けやがったが。ママが自分を捨てても、ちゃんと望まれて生まれたんだと知れた。大人になって、色んなことに気付く前は、それだけで良かったんだ。

 俺には、ちゃんと愛されていた事実が大事だった。この名前のままで育ててくれたこと。それだけは、父親に感謝している。俺の名前は、佐々木エイタ。両親の名前を半分ずつ貰った。今は、そう胸を張って生きている。

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