第44話 私は深く息を吸った

 おかえり、の声色で分かった。今日は、宏海の機嫌が良い。多分、匡のところへ行ったんだ。想像して答えが出ても、特に触れるつもりはない。嬉しそうに匡の話をされても、きっと聞いていられないだろうし。カナタが少しずつ自分のことを話し、私のことに興味を示してくれている。だから余計に、浮ついた感情に振り回されたくなかった。


「カナちゃんってさ、お仕事のときには指輪外すんだよね」


 夕食を食べ始めて少しして、宏海がそう問うてきた。急にどうしたのだろう。指輪の話は、買う時にも説明をしたのに。別に苛つくようなことでもないし、そうだね、と普通に返した。なるほど、と言う割に、何だかピンときていない様子。まぁ彼はそんな生活を送っていないのだ。想像もつかないよな。


「病院に着いたら着替えるでしょう? その時に外すの。でも、失くしそうじゃない? だからね、こんなネックレスにぶら下げてるんだ」


 そう説明をして、Tシャツの中からネックレスを出した。特に思い入れのない、シンプルなもの。ちょっとしたペンダントトップが付いた、数千円のものである。


「そうなんだ。どうしてるんだろうなって思ってたの。バッグとかポーチとかに入れてるのかなぁとかさ。想像はしたんだけど」

「うんうん。そういうのも、一応色々やったの。けど、忘れちゃうのよね」


 事実、どこに入れたか忘れて探し回ったことがある。バッグのポケット。デスクの引き出し。ありとあらゆるところを開けて、結局財布の中に入っていた。呆れた暁子に、ネックレスに通しなさい、と怒られた結果がこれである。


「急にどうしたの」

「いや、今日ね。手を洗う時に外してさ。僕は自分のアトリエだからそこにおいて置けるけど、カナちゃんはどうしてるんだろうなって思ったの」

「そうねぇ。各自管理が基本で、みんなあまり付けて来ないかな。病院は預かっている子もいるからね。もし何か間違いがあったらいけないし」

「あぁなるほど。そういう制限もあるんだ」

「そうなのよ。だからといって、傷つけたらいけないから、身に付けてるわけにもいかないしね」

「ふぅん。言われてみれば、そうかぁ。自分が飼っている動物を連れて行ったら、そういうので傷付かないかなとか心配になるか。確かになぁ」


 宏海は、納得したのだろう。何度かウンウン頷いて、ご飯を口に放った。

 何となくそれを見つめた。宏海もそうだが、普通の会社勤めの人からしても、あまり気付かないことなんだな。私はそれが普通だったから、特に違和感を覚えたこともなかった。ただ、自分がそれを体験しているのはここ数年のこと。指輪を付ける生活は、これが初めてだから。今になっても、どうにも戸惑うことはある。このネックレスに通しているのだって、最善なのかはまだ分かっていない。


「あまり聞かない話で、目新しかった?」

「あ、うん。そうだね。姉とかも普通に指輪やアクセサリーを付けて仕事に行ってたし。職場で外す時間があるって想像してなかったなぁって」

「それはそうよねぇ。でも、意外とそういう制限ってあるのかも。介護の人とか、保育士とか。ほら、そういう人もダメそうじゃない?」

「あぁ確かに。そうなると付けていかないんだろうけど……こういうみたいなのは、どうしてるんだろうなぁ」


 新しい商品のリサーチだろうか。珍しく宏海が、私の話で何かを想像している。出来るだけ答えたつもりだけれど、これが彼の役に立ったのかは、よく分からない。ポケットの中で携帯が震える。あぁ、きっとカナタだ。今日はどんなことがあったのだろう。最近の楽しみだ。小学校から帰ってきた子のように、『今日の出来事』を教えてくれるカナタ。きっとそうしたかった時期に出来なかったことを、少しずつ辿っているのだろうと思っている。


「カナちゃん、最近機嫌良いね」

「え? そう?」

「うん。機嫌良いなぁって。何かあったのかなって思ってた」

「特別には何もないけど……ここのところ、長期治療の子が良くなってきたりしたからかなぁ」

「そうなんだ。それは良かったね」

「うん。支える飼い主さんも大変だからね。ホント良かったよ」


 微笑んで、何とか誤魔化した。暁子に言われて、を考えていて良かった。友に今、心の底から感謝している。まだカナタのことは知られたくない。今少しずつ、彼の欠けていた部分を補っていて、急かしたくないのだ。私は嘘が上手じゃない。だからどうか、これ以上は触れてこないで。そう祈った。

 ポケットの中を気にしながら、食事を終えて、片付けをして。宏海の隙を見て、チラリと確認したメッセージ。


『母さんと中川さんって、どういう関係なの? 夫婦、でいいの』


 そう並んだ文字に、ピリリと緊張が走った。どう説明したら、分かってもらえるか。母の不誠実な生活の始まりを。この説明に戸惑いがあるから、何となく触れずに、避けていた。けれど、あの子が聞きたくなったのなら、説明をした方がいいだろう。仕事のこともあろうし、彼の心のタイミングもある。母として誠実に。それだけを心に決め、私は深く息を吸った。

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