第40話 まだ拭えない
青天の霹靂とは、このことか。そう思ったのを二十年経った今も、鮮明に覚えている。夫――いや、義母が私に言い放った言葉。あちらは不倫を認めましたよ、と。
正直、何を言っているのだろうと思った。当時の私にとって、義母はほぼ会ったことのない人。どういう性格なのかまるで知らない。そんな姑が得意げな顔で言うのだ。認めていない嫁だったとしても、確かにあなたの息子の子供を生んだ私に。何を言っているんですか? そう問い返すのが精一杯だった。状況を飲み込めずにいた私に、義母からは幾つかの写真が提示される。写っていたのは、私と職場の先輩だった。二人で軽トラに乗っているのは、一緒に診察へ行くため。二人で飲み屋街を歩いているのは、学会か何かの出張に出た時。私にとってみれば、何てことない日常だ。だから疑問符を浮かべるしかなかったが、勿体ぶるように、一枚ずつ、ゆっくりと写真を並べた義母。私たちが話をしながら歩いているところから、徐々に画像が引いていく。背景に写るのは、ラブホテルのネオン。それがわざわざ入るように数枚。そして最後に出されたのが、あたかもラブホテルへ吸い込まれていくような写真だった。あ、嵌められた。私は、ようやくそう悟った。
「有利って……母さんは、仕事してただけじゃないか」
カナタが静かに憤る。彼なりに、当時のことを思い出しているのだろう。あの時の小さなアパートでの生活を。だからこそ、この子に全てを知って欲しくないのだ。
あの写真の日のことは、よく覚えていた。今のように簡単に携帯で道案内が出来ない時代。会場からホテルまでの道を、先輩が間違えたのだ。こんなところじゃないんだよ、とか焦りながら頭を掻いていた。本当に、それだけだ。仕事の面での尊敬はあったが、私は先輩を軽蔑していた。私生活がだらしなくて、ギャンブル好き。競馬とパチンコが趣味だという男だった。よく若手の獣医師たちで、仕事に支障がなければいいか、なんて溜息が吐くくらいに。
だから、私は今も疑念を持っている。義母に金を掴まされ、不倫をしたと認めたのではないか。拭いきれない思いが、しこりになって残っているのだ。裕福である夫の実家。そして、いつも金がねぇと言っていた先輩。点と点が繋がるような気がした。あんな変なところで道に迷ったと言ったのは、初めからあの写真を撮るため。計算しつくされた角度に私は誘導されたのだろう。カネと後輩を天秤に掛け、きっと私は負けたのだ。
「仕事をしてただけ、なのよ。パパに頼っている分、必死に働いて家族を支えていたつもりだったんだけどね。でも改めて、息子の面倒をちゃんと見ていましたかって聞かれたら、それは否。保育園の送り迎えも、ほとんどがあの人だった。熱が出た時も、何もかも」
息子の生育環境を確認され、私は何も出来ていない母親だと気付いた。他の家のようには、カナタにしてあげられていなかった。一緒にお風呂に入ることも、絵本を読んだことも僅か。料理や洗濯も夫で、私のしていたことなど些末なものだ。寝静まった夜中に、隙間掃除とか排水口を磨くとか、音の出ないような細かなことをするくらいだけだったから。それが胸を張って子育てに参加していますと言えるか、と問われればそうではないだろう。寝る時間を惜しんで出来ることをやって、勉強もした。頭も体も疲れていたけれど、何とか踏ん張れたのは、息子、いや家族を愛していたからだ。それをどうして急に奪われねばならないのか分からなかった。写真を提示されたその日から、息子と夫は帰って来なかった。三人で暮らした小さなアパートが、とても広くて、毎晩泣いたんだ。先輩に会うたびに、何度も問い詰めた。何度も、何度も。そうしているうちに職場や地域に居場所がなくなり、私の離婚は成立してしまったのだ。
何も手に付かなくなったけれど、すぐに夫が息子と帰って来た。今夜が最後だ、と。それがカナタの五歳の誕生日だったのだ。三人の本当に最後の誕生日パーティー。笑って、色んな話をして、たくさん息子を抱きしめた。カナタが寝た後で、夫を責めることも出来たかも知れない。でも、もう成立してしまったことは覆らない。泣きながら旅行バッグに必要なものだけ詰め、目も合わせない夫の前に揃いで買った腕時計を置いて、玄関ドアの前に立った。最後にぎゅっと抱いた小さな靴。お気に入りの恐竜の靴。それを撫でて、夫に鍵を返し、嫌だったけれど頭を下げた。カナタをよろしくお願いします、と。震える小さな声で。後ろ髪引かれる思いだった。そんな私を見たからなのか。ちょっと待って、と言った夫が部屋に戻り、押し付けるように渡してくれたのがくまのぬいぐるみ。きっとそれは、夫の最後の愛だったのだと思っている。
「俺の意見は……?」
「子供が小さいうちは、本人の意志はそこまで大きく捉えられないんだって。そうね、小学生の高学年、中学生にもなれば意見は通ったでしょうけど」
「そんな……」
「でもね。カナタは選べなかったはずよ。あなたは、ママだけじゃない。パパの事も大好きだったでしょう。だから、カナタが悔やむことじゃないの」
彼にはそれしか言えなかった。あんなことを大好きな父や祖父母がしたなんて。私が彼らを憎くとも、カナタには知られたくなかった。
一人ホテルに泊まった息子の誕生日の夜。きっとここにはもう来ないだろう。そう思っていた。職場に退職届を出しに行ったのは翌日。こっそり挨拶をしてくれた人もいたし、冷たい顔をする人もいた。ここでの私の最終評価はこんなものか。溜息を吐きながら見慣れない高級車を横目に駐車場を出て、愛車の軽で小林牧場に行った。迎えてくれたご夫婦と牛と猫。温かいお茶を淹れてもらって、泣きながら事情を説明する私に、彼らは深くは何も言わなかった。きっと、薄暗い何かが耳に届いていたのだろう。とても悔しかった。カナタに私の居場所を示す物を何も残してこられなかった私に、渡しには行けないけれど預かってあげるよ、と小林さんが言う。そして託したのが、あのくまのぬいぐるみ。いつも手帳に挟んでいた、実家の前で撮ったカナタの写真と共に。新しいリュックサックを背負って、それを見せびらかすような息子を目に焼き付けて、裏に実家の住所を書き留めた。愛しているよカナタ、と添えて。
「カナタがどう言われて育ってきたのか、私は何も知らない。言いたくなったら、どんな話でも聞くつもりだけれど……それは、無理にこじ開けるものでもないから。カナタのペースで、今後は話をしましょう」
小さく頷いた息子。別れた夫が許せなかった。
実家に帰り、今の病院に再就職して、少し経った頃。時間とともに冷静になった私は、あれこれと思い出し始めた。最後に職場に行った時、感じた違和感。駐車場にあった高級車。軽トラックや軽自動車ばかりの中で、浮いていたのを思い出す。先輩のボロボロの軽自動車はあった? あの車はいくら位で買えるもの? そうして疑念を強くした私は、誰にも知らせず、東北新幹線に飛び乗り、たった一人であの地へ行ったのだ。盛岡でレンタカーを借りて、真っ直ぐに義実家に向かって。元夫にこの憤りをぶつけ、正当に裁判をやり直したいと話すつもりだった。けれど、それは叶わなかったのだ。
義実家の庭にいた元夫と私の息子と見知らぬ腹のでかい女。目を丸め見つめる私に、その女は気付いたように見えた。若々しい桜色の口紅。私と目を合わせたまま、その唇が片方だけ釣り上がった。カナタ、と呼びかけた女に、我が子が笑顔で抱きついた。あの女はきっと、夫と以前から繋がっていたのだろう。それに、私を『元妻』だと分かっていた。分かっていて、見せつけた気がしたのだ。爪が食い込むほど手を握り込んだけれど、私はその場を動くことが出来なかった。だって、それがまるで絵に描いたような幸せな家庭のようだったから。その中で笑っているあの子は、もう幸せなんだと思った。
「何かママに出来ることない? ご飯はちゃんと食べてる? お金は大丈夫?」
「母さん……学生ならまだしも、働いてるからね。知ってるでしょうよ」
「そうだけど……」
彼に何もしてやれなかったという負い目がある。だからつい、何かしてやれることを必死に探してしまうのだ。母としての役割を追い求め、私はそれに縋っている気がした。
「学費とかはどうしたの?」
「あぁ……うん。おじいちゃんとおばあちゃんは、経営じゃないから認めてくれなくて。でもパパが、こっそり出してくれたんだ。家業がスーパーやってるし、農学部でも役立つだろうって理由つけてさ。けど継がないなら返せって。だから絶賛返済中」
「じゃあ、それは全部母さんが出します。全額すぐに返したいけど、それじゃ怪しまれるからね。まずは月の返済額増やして、早めに終わらせよう」
「……ママ、いいの?」
「当然よ。細かいことは気にしないの。大丈夫、ちゃんとお金貯めてるから」
「うん……有難う」
茉莉花で擬似育児をしながらも、想像くらいはしていた。部活や習い事。それから大学進学にしたら、どれくらいの金がかかるのか。雑誌やインターネットで調べ、架空のカナタを育てる金を貯めてきたのだ。それは、すぐにでも彼に渡せる。けれどそうしてしまったら、カナタともう会えないんじゃないか。そんな不安がまだ拭えなかった。
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