第41話 母さんは忘れたかな

「帆布のデッサンってどうなりましたか」

「あ、出来たよ。見て見て」


 少しだけ声高に話す中川さんを、俺は不思議な気持ちで見ている。

 この間までは、『ママの夫かも知れない人』だった。どこか様子を探っていた気もする。でも今、彼は『母さんの夫』と確定した。つまりは身内になるのだろうか。父さん、とか呼ぶの? いや、それはないか。ただ変な感じがするな。だって彼は、それについては何も知らないのだ。何だか勝手に気恥ずかしさが募り、心の中が落ち着かない。


「あ、凄く良いですね。写真撮っても良いですか」

「うん、いいよ。佐々木くんはそうやってよく撮るねぇ。SNSとかやってるの?」

「はい。フォロワーとかは少ないですけどね。面白いことを発信してるわけじゃないし。日々出会ったものを切り取って載せてるだけです」

「へぇ。日記みたいだねぇ」

「あぁ、そうですね」


 確かに日記だった。今日あったことを載せて、誰に向けるわけでないハッシュタグを付ける。この間、彼と食べたランチも載せたっけ。SNSは、母がいつか気付かないだろうかという微かに願いで始めたものだ。息子はこんな今日を過ごしましたよ。そうやって母に宛てる手紙のような感覚でいる。再会できた今も。あぁでも、あの様子ではきっと気付いていないんだろうなぁ。


「そうだ。木のダグはどうかって話をしたら、こういう鉋削りみたいな……透けるような薄いので作ったらどうかって。えぇと、これだ。どうでしょう。これを割れないように加工をして、チェーンとか革紐で付ける」

「おぉ、なるほど。こう薄いのも出来るんだ」

「そうですね。それから、あちらからの提案で、木底のポーチ若しくはバッグなんかは出来ないだろうか、と。こういった形で軽量化も出来るだろうと言う事でした」

「わぁ、面白そうだね。革にしても帆布にしても、このくらいの高さがあれば打ち付けられるはずだから……」


 俺の携帯の中の画像を確認すると、すぐに中川さんはデッサンを始める。材質が硬いから、柔らかいフォルムが良いな。そんなことをブツブツ言っている。面白いことを見つけると、真っ直ぐにそれに向かってしまうタイプなのだろう。本当に楽しそうにデッサンをする彼は、アーティスト向きの性格だ。母さんとは、相容れなそうだけれど。

 二人は、どうやって出会ったんだろう。昔からの友人だと言っていたよな。母さんが彼に俺のことを話していないのは、二人の関係性の問題だって言ってた。関係性の問題ってなんだ。籍は入っていないが、二人は夫婦を名乗ってはいる。事実婚というやつだろうか。うぅん、考えても分からない。でも、きっと大丈夫だ。母さんは、いつかちゃんと話してくれるだろうから。


「鞄なら、カチッとしたのも面白いけど……こう柔らかいのも異素材感が強くていいかなって思うんだけど。どうかな」


 見せてくれるスケッチブック。彼の描くものは、いつでも優しい。自分の手を離れた後のことが、きちんと考えられている。優しさの塊のようなデッサンなのだ。この人ならば、母を傷つけない。俺は、そんな気がしている。


「さっきのタグ、もう少し厚くしてもらって、ポーチとかファスナーのところに使っても面白いよね。それから、こういうインテリアにも。籠っていうか、バケツっていうか……何ていうんだろうね。へへへ」

「バスケット、が近いですかね」

「おぉ、バスケット」


 中川さんは、パアッと顔を明るくした。彼は絶対に悪い人ではない。そう思うと、今日は息子としての感情が強く出すぎているなと反省する。池内さんがいないし、母さんと会ったばかりだし、仕方ないかも知れないが。

 つい考えてしまうのだ。彼は母を幸せにしてくれるだろうか、と。特に今日は、そればかりを見ている気がした。中川さんが淹れてくれたコーヒーを啜る。最近ホットに代わったが、これも美味いなと思った。


「あ、僕も休憩。そうだ。甘いの大丈夫だったら、チョコレート食べる? 土曜日にね、奥さんが買って来てくれたの。珍しいんだよ」

「……変わったチョコなんですか」

「あ、そっちじゃなくて。奥さんが甘いものを買って来たのが珍しいの。あの人、あまりそういうの食べないから。ふふ、自分を甘やかすの嫌いなんだよね」

「それは……ストイックですね」

「ストイック。そう、その言葉。カナちゃんに合うなぁ」


 そんなことを言いながら彼が、鞄から出した硬質な箱。それと全く同じ箱が、俺の部屋にもあった。あれは土曜の食事の時、母がくれたのだ。カナタはチョコレートが好きだったでしょう、と。そうだったのは昔のことだけど、覚えていてくれて嬉しかったんだ。ただ母なりに、俺が大人になったことは配慮したのだろうと思う。ビターな物が多く入った、綺麗なチョコレートだった。


「このままでお行儀悪いけど、摘んでね」


 ヘラっと表情を柔らかくして、中川さんがチョコレートの箱を開ける。俺は何気なく蓋裏の説明書きに目をやった。あぁきっと、彼はミルクチョコレートが好きなのだ。俺にくれたものとは違って、甘めのものが多い詰め合わせのようだった。


「こういう綺麗なチョコレートってさ……食べるまで何味だか分かんないよね。これなんだろう」

「それは、フランボワーズですね」

「そうなの? 佐々木くん、ここのチョコ好き?」

「いや、あの中川さん。これですよ。ほら、その形はフランボワーズって」


蓋裏を指さして彼に見せる。すると中川さんは、あっ、と可愛らしく赤面した。


「恥ずかしいけど、ふふ、美味しいからいいや。どれどれ……おぉ、ピスタチオも美味しそうだね」


 こういう指摘をすると嫌がる人もいると思うが、彼はとても素直に恥ずかしがった。若造の指摘に苛立ちも感じられない。あぁ純粋なんだ、と微笑ましく思うと同時に、僅かに頬の内側が強張るのが分かった。彼はきっと、幸せに包まれた家族の中で生きてきたのだ。そんな妬ましい感情が密やかに蠢いた。


「奥さんは、お忙しい方なんですよね」

「そうなの。あれこれ頑張っちゃうからさぁ。食事くらいはね、サポートしてるけど。年も取ってきたし、色々心配なんだよねぇ。自分のこともちゃんと考えて欲しいんだけどさぁ」


 そう言って、彼はチョコレートを口に放る。短く綺麗な放物線だった。ボォっとそれを眺め、本当に奥さんのこと好きですよね、と零した。何かを確認しようとしたわけじゃない。純粋に、彼の言葉から愛を感じたのだ。 


「うぅん……それはちょっと違うかもな。好きとか、そういう恋愛感情みたいなものじゃなくって。僕は、彼女を人として大切にしたいって思ってる。だから、二人で支え合って行ければいいなって。例えば、彼女は料理が苦手なことをやたら気にするけどね。互いに得意な物を率先してやって、どちらも苦手なものは一緒にやればいい。そういう風に生きていけたらいいなって思ってるんだけどね。彼女は……どうだろうな」


 そこまで吐露し苦笑する中川さんが不思議だった。仕事の関係でしかない俺に、恥ずかしがることなく、茶化して誤魔化すこともなく、本当に真っ直ぐに答える。それがむず痒くて、ムカムカした。

 俺の周りには、碌な大人がいなかった。本当の両親と暮らした幼い頃は、狭い部屋でくっついて寝るような生活でも、あんなに幸せだったのに。それが崩壊し、祖父母の家へ越したのが、最悪な人生のスタートだった。

 厳格と言えば聞こえが良いが、ただのワンマンな男でしかない祖父。淑女には程遠い、女の嫌な部分を煮詰めたような祖母。そんな両親に育てられた一人息子である父は、そんな祖父母の前では言いたいことも言えない。優しかった影もなくなって、俺には厳しく当たるようになった。ママに会いたい、と俺が泣けば、大抵は祖父母の手が飛んでくることなど日常茶飯。あんな女のことは忘れなさい、と何度言われたことだろう。そんな生活を送る中で、俺の心は次第に壊れていった。

 全てを諦めたのだ。そこで生きるしかなかったから。極め付きは、急に現れた新しい母親という女。そもそもの相性も悪かったと思う。こちらのことなど一切知ろうともせず、初めから。それを『ママ』と呼ばなければならない生活。やたらと甘い卵焼きが入った弁当を、食べなくてはいけなかった学生時代。本心から笑うこと無く、ありがとう、と受け取っていた幼き自分を褒めてやりたい。今でもそう思っている。 


「玉子焼き……」

「ん? 玉子焼き?」

「あっ、すいません。そ、そうだ。中川さんお弁当作るって言ってましたよね」

「うんうん。言ったね」

「玉子焼きってどんな味付けにしてますか」

「うぅん、そうだなぁ。別のおかずとの相性で決めるかなぁ。メインのおかずとのね、バランス。僕はそうしてるけど、佐々木くんのお宅はどうだった?」

「え……あぁ、えぇと。長らくものは、やたら甘かったですね。母が作っていたのは……何味だったんだろう?」


 あの、いつも焦げた不格好な玉子焼き。料理が得意でない母さんが、台所で懸命に作ってくれたあの玉子焼き。美味しくもないし、殻も入っていたりした。けれどそれは、確かに心を満たしてくれたのだ。今も一番食べたいと思うけれど、母さんは忘れたかな。

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