第39話 最悪の方法
「ねぇ、母さん……僕を捨てたわけじゃないって言ったよね」
カナタがそう言ったのは、ある程度腹が満たされてからだった。直ぐに返事が出来ないほど、体が強張るのが分かる。だが、話す時が来た。覚悟はしてきたつもりだ。
彼が事実を受け入れられなくとも、真実を知って欲しい。ママはカナタを捨てたわけじゃないと、信じてもらいたい。だから、出来るだけ隠し事はしない。息子に誠実でありたいと思っている。
「もちろんよ。マ、母さんは、あなたと離れるつもりはなかった。だから出来る限りのことはした。ただ……力が足りなくてね。まだ世間知らずで、何もかも後手に回ってしまったの。結果、上手に抗えず、あなたを手放さなくちゃいけなくなってしまった。抵抗はしたんだけどね」
真実を全て口にしたところで、許されるとは思っていない。気付けば、自然と目を逸らしている。寂しい思いをさせてしまったという後ろめたさが、私の中で何よりも大きかったのだろう。
「うん。母さんは……それで、う……浮気してたの?」
「いいえ。それだけは断言します」
食い気味に答えていた。それだけは絶対に違う、と。
「本当に? 僕とパパのことが嫌になって、浮気してたって……」
「おばあちゃんが言ってた?」
スルッと言ってしまった言葉に、カナタが頷く。やはりそう刷り込まれていたか。覚悟はしていたが、腹立たしくて両手を強く握り込んだ。食い込む爪が痛い。
「本当は違うの? ねぇ、何が正しいの?」
カナタは全てを聞きたいのだろう。グイッと身を乗り出した。
話し始めてしまえば、言葉は簡単に続くだろう。だけれども、それが彼のためになるとは思えない。カナタは、もうぬるくなった三杯目のビールに手を伸ばした。ごくんと喉を鳴らして、ふぅぅ、と長い息を吐く。きっとすごく緊張している。この子は二十五になった大人だけれど、アレの全ての顛末を聞かない方がいい。彼の様子を窺って、大事なことだけを伝えることに決めた。
「じゃあ……どうして?」
「そうね。きっと母さんが、ちゃんと母親を出来なかったのが原因なんだと思ってる。ママ、夜にお仕事に行くこともあったよね? 牛の出産とかね。そういう呼び出しだったんだけど。あの頃の母さんは、まだ駆け出しだったから。経験を積みたくて、出来るだけ行くようにしてた。でもきっと、それがいけなかったんだと思うの」
あの頃の私は、母としても、獣医師としてもどっち就かずだったと思う。新人の獣医たちに比べて、どうしても経験や勉強の時間が足りない。そんなことは分かった上で、私はカナタを産んだ。それに後悔はない。だが当然、意地もあったのだと思う。寝る時間を惜しんで、イレギュラーな診察にも対応し、子育てだって必死にやった。それは、私なりにだけれど。定時に帰れる仕事だった夫が、積極的に子育てをしてくれたことは幸いだった。夫婦二人で力を出し合って、家族というものを守っていられたから。いや……守られていたのは私の尊厳だけだったのかも知れない。
「小林さんは言ってたよ。母さんは悪くなかったって。カナコちゃんは一生懸命に働いて、一生懸命に母親になろうとしてたって」
「そんなことを……」
胸が熱くなる。いつも私の勝手ばかりを押し付けて、申し訳ない気持ちでいた。それに、あの地に今も私を良く言ってくれる人がいる。あそこで生きた証拠のようだった。
有力な地元企業の一人息子である夫。彼らを敵に回したくない人が多いこと、多いこと。私一人を無視してしまえば、丸く収まる。そう考えていた人ばかりだったから。
「小林さんは、母さんのことを悪く言わなかった。おじさんも、おばさんも。俺があそこを出るって決めて、その前に訪ねたんだ。その時、泣きながら迎えてくれた。それで、あれ……えぇと、これを出してくれた。覚えてる?」
カナタが差し出したのはSNSの画面。アイコンには、くまのぬいぐるみ。私が密かに見ていた『カナタ』という人のページだった。あぁやっぱり、この子だったのだ。どこにでもある名前。どこにでもあったくまのぬいぐるみ。その掛け合わせに昔を重ねて見ていたこのアカウント。私の視界は、また歪んでいる。
「覚えてる。忘れるわけないじゃない。最後……にあげた誕生日プレゼントだもの」
「うん。そうだったよね。俺も大切にしてたけど、ある日突然なくなった。母さんと一緒に。探したけど見つからなくて、パパは知らないとしか言わなかった。引っ越しをして、大きくなって、そのうちに俺は忘れてたんだ」
あんなに大事にしてたのに。俯くカナタが呟いた。
「色、変わっちゃったのね」
「あぁ、ポシェット?」
帽子を被った可愛らしいくまは、ポシェットを斜めに掛けている。薄いピンク色。 あの時は赤色だったよね、と懐かしい日々を思った。
「うん。日に焼けちゃってたみたいで。おばちゃん、大事に取っておいてくれたんだけどね。俺がこっそり来ても分かるようにって、窓際に置いててくれたの。だから、中の写真も色褪せててさ。母さん、神奈川の住所書いてくれてたでしょう? あれも掠れててね。何とか解読しながら、探してさ。溝の口までは辿り着けたんだ」
「そっか。今度……一緒に行こう。おじいちゃん達も喜ぶと思う」
そう言った時、私はまた泣いていた。
両親は、今も何も言わない。カナタがどうしているだろう。そう心配していても、彼らは一切口にはしなかった。リビングにこっそり置かれたカナタの写真。私の幼少期の写真に混じって置かれているそれは、行く度に角度が少し変わっている。きっと二人で、もう二度と会えない孫の話をしているのだろう。気付いていても、聞いたことはない。それが、互いを傷つけてしまうと分かっているからだ。
「宏海のアトリエには行ってるんだよね?」
「うん。行ってるよ」
「じゃあ、それのすぐ近くよ」
「え? そうなの? ウロウロ歩いてはみたんだけど、思い出せなくて」
「そりゃそうよ。何度かしか行ったことないもんね」
今すぐにでも会わせてあげたい。娘としては、そう思った。だが、ここで大事なのはカナタの気持ちだ。焦らずに、まずは母子間の関係を温めねばならない。
「昨日から考えてて」
「ん? 何を」
「その、おじいちゃん達のことと、中川さんのこと」
「あぁ……そっか。宏海にも会って欲しい……って、もう会ってるのか」
「そうなんだよね。で、これから仕事の関係もあるし。どうしたらいいのかなって」
むむむ、と顎を揉む。すると、腕を組んでいたカナタも、同じように顎を揉んだ。それが可笑しくて、嬉しくて。笑って、また泣いた。あぁそういえばこの子は、私のこの癖を真似していたことがあったっけ。
「宏海には、私からきちんと説明するよ」
「うん。中川さんは、そもそも息子がいるって知ってるの?」
「いや……何も知らない。岩手にいたことも、知らない。宏海は本当に何も知らないの」
「そうなんだ……」
「あ、息子がいることを隠したかったわけじゃないの。その……私と宏海との関係性の問題で。でも、言い方が悪かったわ。ごめんなさい」
私は被害者ではない。いや、一部被害者ではあるけれど。最大の被害者はカナタだ。息子に寂しい思いをさせ、一人で節約暮らしをさせてしまった。むしろ私は、償わなければならない。
「それも、いつか教えてくれる?」
「宏海とのことね。そうね、順を追って話をしようね」
「うん。それまではちゃんと、担当者として仕事に徹します。でもなんかさ、難しいミッション与えられてるみたい」
やり遂げますけどね、とカナタがニヤリと笑った。宏海との関係は、これから変わるか……自信はない。でも、ちゃんと紹介出来ればいいなと思っている。夫とまでいかなくとも、ママの大切な人です、と。
「ねぇ、母さん。浮気はしてないんだよね? でも結果、離婚をした。で、俺を置いていかざるを得なかった。それは確かに、中川さんに話しにくいよね。母さんもきっと……思い出したくないことがあったんでしょう?」
「思い出したくないこと……」
もはや、それしかなかった。あの地で過ごした時間は、カナタと小林さん以外は思い出したくない。勉強しながら働いた時間も全て、壊されてしまったから。あの人たちに。
「か……ママは……パパのこと好きだった?」
「好きだったよ。まさか離婚することになるなんて、考えもしなかったもの」
「そっか。そうなんだ」
カナタが少し下を向く。違う言い方をすれば良かった。今更そう思っても、遅い。今の言葉で、この子は恐らく何かを察してしまった。
「出来る限りのことをして、何とかあの生活を守ろうとした。それでも離婚せざるを得なくなってしまって、親権を取って、二人でこっちで暮らせるようにって考えたの。やれることは全部やった。でも、母さんには力が及ばなくて……本当に申し訳なかったと思ってる」
悔しかった。あの時のことを思い出すだけで、唇を噛む力が強くなる。
育児の中心が夫であったことは事実だ。ただでさえ、彼の方が有利だった。それなのに……あの男はひどく姑息なことをしたのだ。自分側の有利を確実にするためだったのだろう。彼は私の浮気を偽装したのだ。本当に最悪の方法で。
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