第38話 塩辛い味がした
「二十五歳、おめでとう」
手元に来ていたビールを片手に、ぎこちなく母がそう言った。何も可笑しいことはないし、楽しいわけでもない。でも、俺は笑っていた。有難う、と誤魔化して、自分は嬉しいのだなと気付く。母が祝ってくれたのは五つまで。六つからは、別の女が母親になった。嫌なことはされなかったが、彼女のことは『母』だとは思えなかった。思おうとしたけれど、受け入れられなかったのが正しいかも知れない。
俺を産んだ、本当の母が目の前にいる。二十年ぶりだ。思ったよりも白髪だらけだし、目尻のシワも増えたのだと思う。風貌は老けたとて、求め続けた母がいる。それだけで胸がじんわりするのが分かる。あぁやっぱり嬉しいのだ。
「さぁ今日は、何でも食べなさい。マ、母さん、お金は持ってるから」
「おぉ……その台詞初めて聞いた」
「そう? まぁ初めて言ったわ」
箸が転がっても可笑しいような、今はそんな状態なのかも知れない。声を上げて笑いながら、彼女はメニューを差し出した。友人と来るような値段ではない肉が並んでいる。それが、母の申し訳無さの表れようだった。
「本当に良いの?」
「子供は遠慮しないの。あ、でもカルビばっかりは止めてね」
子供は、か。もう二十五だ。でも母の中では、まだまだ五つの子供なのかも知れない。そう気付いても腹立たない。タッチパネルを操作しながら、ニヤニヤしているくらいだ。ゆっくりでいい。そう言ったのは俺だ。慌てず、もう一度親子をやり直すために。聞きたいことは沢山ある。それが綺麗事ばかりじゃないだろう。でもそれを消化出来るくらい、俺も大人にはなったはずだ。
母さんはロースが良い、と向かいから普通に話しかけてくる。まだそれに慣れないし、気恥ずかしい。きっと母もまだ恐る恐るなのだろうが、ちゃんと親に戻ろうとしてくれる。俺たちは、ちゃんと親子に見えているだろうか。そんな不安を持って今日ここに来たが、きっと大丈夫だと思えた。母が、カナタ野菜も頼んでね、とメニューを覗き込む。まるで普通の親子みたいだ。分かってるよ、とタタタッと注文する。それからニヤつく頬を誤魔化して、ビールを流し込んだ。
「今日は病院だよね」
「そうよ。基本は病院。火曜が休みで、水曜は会社ね」
「そんなに働き詰めで大丈夫なの?」
「え? あぁ……考えたことなかったな。でもさぁ、病院で触れないような話題を知るのも楽しいのよ」
「そっか。でもお願いだから、無理はしないでね」
母は目を見開いて、何も言わずに頷いた。そう息子に心配される日が、また来るとは思っていなかったのだろう。今日はいっぱい食べるぞ、とすごく久しぶりに元気よく言った。少しでも、母が涙を零さないように。
肉が運ばれて来ると、任せなさい、と母はやる気を出す。あぁそうだ。肉を焼くのは、母の担当だった。料理は上手くできないから、肉を焼くことを極める。確かそんな宣言をしていた気がする。曖昧だけれども、そんな温かな記憶を思い出した。
「裏返したら、頃合見て食べなさいね」
「うん」
昔と同じだった。あぁ母はきっと変わっていない。薄っすらと希望が宿る。いつも思ってくれていたかなんて、まだ確信はない。それでも、変わらず息子として受け入れた母が愛しかった。
「あぁ美味い……」
「カナタ?」
泣くほど美味かったわけではない。ただ、母と飯を食っていることを実感したら、ぼんやりと視界が歪んだ。白米を掻っ込み、肉にまた手を伸ばす。それからビールを流し込んで、口元を拭く振りをして眼尻の水分を拭った。向かいから、母が手を伸ばす。俺の頭に。幼い頃のように、ポンポンと優しく置かれた手。そのまま、俺の頭を撫でる。また泣いてしまいそうだった。
「もうさ……二人で泣いちゃおうか」
そう言われて顔を上げたら、母も泣いていた。自然にわんわん泣いた二人は、傍から見れば可笑しかろう。それでも、心は満たされている。久しぶりの母との食事は、少し塩辛い味がした。
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