第36話 あの頃のように

 どちらが先に泣き止んだろう。二人とも落ち着いた時には、もうすっかり夜になっていた。聞きたいことや話したいことが山ほどある。きっと、カナタにも。けれど、何も言えないまま。私たちは、ただ静かに波音に耳を傾けていた。


「……大きく、なったね」


 その沈黙を破ったのは私。握ったままの息子の手をまじまじ見ている。丸々していて可愛らしかったそれも、すっかり大人のものになった。宏海とはまた違う、スラッとした細い指。あぁそれは、父親に似たのだな。久しぶりに思い出した元夫の顔も、あの記事の中で笑っていたものではなくて、昔三人でここに来た時の優しい顔だった。


「うん。もう二十五だよ」

「そうだね。おめでとう」


 こうして直接、祝える日が来るなんて思いもしなかった。また泣いてしまう。ズズッと鼻を啜りながら、目元を拭った。


「カナタ。お祝い、しよっか。美味しいもの食べよう」

「……うん」


 そう誘ってはみたものの、私は愛息の好物すら知らない。この子が美味しいと言っていたものなど、あの不細工な玉子焼きくらいだ。流石にそれは、祝い膳にふさわしくない。


「カナタ。何食べたい?」

「……焼肉?」

「お、うんうん。食べよう。いっぱい食べよう。あぁお酒も飲めるのか……そうか」

「そうだね。もう二十五だから」

「そうだよね」


 大きくなっちゃって、と呟いて、また泣いた。子供が成人したら、盃を交わしたい。そういう話は聞くけれど、自分に当てはめたことはなかった。いつだって私の中のカナタは、子供のままだったから。眼の前の現実に、触れることの叶わなかった時間の長さを感じる。


「ね。大きくなったでしょ」

「うん。だって私は、幼稚園生までのあなたしか知らない。そこから、この形に飛ぶんだから。母親なんて胸を張れないわね」

「だから? だから……また捨てる?」


 今にも泣きそうな顔をして、カナタがそう言った。そんなことするわけない、と叱ったが、そう思われても仕方ないのだとも思う。彼にしてみたら、母親は自分を捨てる存在だったのだろうから。あの家で育てられたのならば、きっと。


「そんなことはしない。絶対に。カナタがママのことを許せないだろうことくらい、分かっているつもりよ。どう聞いて育ったのかは想像が付くから。でも、あなたが望んでくれるのなら……もう手を離したりしない。絶対に」

「……うん」

「でもね。急に再会したからって、全てを無理に受け入れることはないの。あなたには選ぶ権利がある。聞きたいことには何でも答えるから。でもね、多分カナタがこれまで聞いてきたこととは違うと思う。それを受け入れられるなら」


 私の初婚は、彼――カナタが宿ったことによる出来ちゃった結婚。今ほど寛容でない社会。更には閉鎖的な地域。私は、あの家には望まれない嫁だった。だから、離婚の理由を悪く言われているだろうことくらい分かっている。全てが悪いと言われていただろうことくらい。


「うん……聞きたいことは、沢山ある。それに、俺のことも知って欲しい。あれから、どうやって育ったのか」

「そう、ね」


 私は知っていた。元夫は、離婚してすぐに再婚をしたことを。そうして、あっという間に子供が産まれたことも。彼が、その家族の中で幸せそうに笑っていたことも。心が萎んでしまって、何も考えられなくなったあの時。カナタが心から幸せだったかは分からない。ただ今は、自分をと呼ぶようになった息子から聞く事実だけを、知りたいと思った。


「じゃあ、何から話そうか」


 急く必要などないのだろうが、またカナタが会ってくれるとは限らない。今はこう言ってくれるけれど、一人で冷静になったら、考えが変わるかも知れない。私はそれに異論など唱えられないし、受け入れるしかない。


「あ、うぅん……えぇと。そういう話は今じゃなくていいよ。その……少しずつ聞ければ。一度に聞いて、耐えられるか分からないし」


 唇を尖らせて、カナタがそう言う。その方が次の約束できるから、と消えそうな呟きが聞こえる。嬉しくて、見開いた目からは簡単に涙が溢れる。この子がまだ会いたいと思ってくれている。すっかり忘れてしまった幸福感を得たような気がした。


「あぁ、また泣いて。もう」

「仕方ないじゃない。今日は許してよ」

「あぁ……そうだね。今日だけは」


 二人で海を見た。幼い頃、ここの海辺が好きだったカナタ。確か二度くらいしか来ていないが、彼は『あそこに行きたい』と何度もねだった。秋田との境の山間部に住み、海がそこまで身近ではなかった生活。私の実家へ帰省した時、足を伸ばして来た場所だった。カナタは泳ぐでもなく、飽きもせずに海を眺めた。時々足元で見つけた海洋生物を絵に描いたりして、余暇を過ごしたのだ。彼にとっては、日常とは違う特別な時間だったに違いない。


「じゃあ……帰ろうか。カナタはどこに住んでるの? ママ、戸越なんだけど」

「あぁ同じようなものかな。去年ようやく引っ越して、上野毛に住んでる」

「そうなの? 結構近くにいたんだね……そうか」

「本当はまだ節約したかったし、引っ越す予定はなかったんだけどね。仕事が、段々と忙しくなっちゃって。ちょっとでも会社に近いところに」

「……節約?」


 彼からは、一番縁遠い言葉だと思った。

 元夫は、地元では有名な企業の息子。ただ私は、それを知らなかったけれど。一人暮らしの普通の男と出会い、恋をし、子供が出来た。私には身寄りがないと言っていたし、両親もそんな元夫を可愛がった。全てを知ったのは、離婚の話が出てからだ。

 話を聞けば、結婚前に子供が出来たと一度話をしに帰ったという。だが、義両親はそれを許さなかった。自分たちが選んだ相手と結婚するように、と言ったとか。当時は実家を捨て、私との慎ましい生活を選んだ。あの男は、それを美談のように語り呆れたが、私はそれを聞いて、怒り狂ったのは言うまでもない。新しい命がもう宿っているのに、何言ってやんだ。私が義実家とは相容れないなと理解した瞬間でもある。結局あの男は、カナタを連れ実家に戻った。そうして、再婚したのである。

 そんな裕福なはずの家庭で育ったカナタが、金銭面で苦労していたなんて想像出来なかった。何があったのか。


「あぁ……実はさ。まぁ後でちゃんと話すけど。勘当されたんだよね」

「え? パパ……あの人はそれを許したの? おばあちゃんが言い出したことではなくて?」

「そう。あそこから通えるところはないから、家を出ることは許しが出てたんだけどね。ただ、学部は経営じゃなきゃいけないって。でも俺、農学部に行きたくて」

「うんうん。カナタは土とか生物とか好きだったものね」

「でも、許してもらえなくて。一度、経営学部に入ったんだ。けど、身が入らなくて勝手に辞めて、喧嘩になってさ。で、完全に離れてから、農学部受け直したんだ」

「そうだったの……」


 元夫に怒りが湧いた。カナタが幼い時から土を弄り、虫に興味を持っていたのを知っていたはずだ。牧場へ行く時、邪魔にならなそうであれば連れて行ったりしたもの。それを全て知っていたのに、義母の言いなりになったということ? 

 私が一緒にいられなくなって、彼の環境は随分変わったのだろう。それもきっと、カナタにとっては良くない方に。ズキリと胸が痛んだ。新しい家族の中で笑っていた息子は、幸せなんだと思っていた。やはり、何があってもこの手は離してはいけなかったのに。

 もう丸くない、大きくなった手に触れる。もうママより大きいのね、と誤魔化して笑ったけれど、自分が許せなかった。


「そう言えば……カナタ。どうしてここに?」

「あぁ……うん。そのことも話さないとね」


 ジャケットの胸元に手を差し込み、カナタは名刺入れを出す。少し角の丸まった、若い子が使いそうなデザインのものだった。本当に大人になったんだな、と思うと同時に差し出された名刺。どこか見覚えのあるデザインだった。


「え? カメオカ?」

「うん。これはもう、本当に偶然なんだけど。俺の担当してる作家さんが、中川さんで……流石に分かるよね?」

「ん……宏海?」

「そう。そうなんだよ。驚くよね」

「うん、ちょっと付いていけてないかも。あれ……ということは、うちの会社にも来てる?」

「そう。行ってるの。ママに会ったらどんな顔するだろうって、ずっと思ってた。でも、なかなかタイミングが合わなくて」

「そっかぁ……若い女の子に囲まれてたのは、カナタだったのかぁ。何だろう、複雑な気分」


 そう? と微笑んだ息子は、もうすっかり大人の顔をしていた。恋だってしただろう。彼女だっていただろう。過去に寂しさはあるが、触れられると思ってもみなかった今、満たされるものもあった。


「俺、ママのこと探してたんだ。聞きたいこと、沢山あったから。だから、カメオカに入ったのは偶然じゃなくてね。ママ、小林さんって覚えてる?」

「牧場の?」

「そう。あそこを出る前に小林牧場へ行ってさ。色々聞いたんだよ。母さんの居場所を知らないかって。そうしたら、同じこと言うのねって笑われた。心配してくれたんでしょ? 震災の時」

「あぁ……うん。あの人に何度も連絡したけどね。出てもらえなくて。小林さんにお願いしたの。あの場所の被害は分かってたけど、確認をしないと不安で」

「そうしたら、電話番号しか分からないけれどって教えてくれたんだ。でもずっと掛けられなくて……。急に知らない番号から掛かってきて、ママ? って呼び掛けられたら怖いじゃん。普通。呼び出すことも考えたんだけど……怖くて出来なかった」


 カナタが、寂しげに眉を落とした。怖かった。つまりは、母が自分のことを忘れていたら、ということだろう。そんなことは有り得ないが、彼にしてみたらそういう不安が起こるのは必然だ。自分だけが辛いわけではないと思ってはいたけれど、それを目の当たりにすると胸を抉るものがあった。



「あと、おばちゃんが一つ思い出してくれて。ママが社食でここのヨーグルトをよく食べてるって言ってたって。そんなに多くないからって、取引してる会社教えてくれたの。それを片っ端から調べてさ。そうしたら、何かの記事にママの名前を見つけたんだ。同じ会社に入ることも考えたけど、もし望まれてなかったら最悪じゃん。だから……せめても関われる会社にって」


 何年も練ったんだから営業のプレゼンは完璧だったはずだよ、とカナタが笑った。幼かったあの頃のように。

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