第35話 その人は、子どものように泣いていた
ここに来たのは、何年ぶりだったか。俺が浜に着いた時、その人は泣いていた。思っていたよりも小さな肩が揺れ、治まったかと思えば、また大きく振れる。それを暫く眺めていた。声を掛けるつもりなどない。ただ、自分が繋ぎ合わせた点と点の答えだけが知りたかった。
「大丈夫、ですか」
声を掛けるつもりはなかったのに。でも、確かめたい思いもある。言ってやりたいことだってある。近づこうとする足が震えた。目の前で泣いている彼女が、求め続けたその人だとは限らない。もしそうだとしても、憎しみや苛立ち、ぶつけたい苦しみがある。だからこそ、俺はその人が探していた人――母であるかを確認せずにはいられなかったのだ。
――すみません。大丈夫です。ありがとうございます。
返ってきた弱々しいその声に、僕は目を見開いた。忘れていた記憶が駆け巡るようだった。あぁ、この人は母だ。そう実感する。何かあったか問えば、何もないと言う。今、彼女が確認できているのは、見知らぬ若い男程度だろうか。まさか、息子だとは思っていないだろう。だからこそ……彼女の本音を問おうと思った。
ポツポツと会話をして、隣に腰掛ける。少し間を空けて。この距離が、今の俺と彼女の心の溝だと思った。
「日が、暮れましたね」
バクバク言う心臓を誤魔化せず、そんなことを口走る。ここで、この人が自分のことを微塵にも思っていないのならば、もう諦めよう。そう決意はしたくせに、強い言葉を突きつけてやれない。また、何かあったのかと問てみるが、彼女は何もないとしか言わなかった。そうして歯を食いしばり、グッとそれを堪えようとするのだ。
「何も無いのに……どうして?」
どうして、ここで泣いているのか。どうして、今日なのか。
苦しそうにするくせに、それを見せまいと必死に堪える彼女。「泣きたいなら泣いたら良いと思います。気が済むまで」そう言ったのは本心だ。心が何かとせめぎ合う。憎しみ、苛立ち。それから、ほんの少しの期待。
あの時、本当は何があったのか。俺は、何も知らない。誕生日の次の朝、大事にしていたくまのぬいぐるみと一緒に母は消えた。父に聞いても、出て行ったとしか教えてくれない。急に現れた祖母には、お前は捨てられたんだ、と抱きしめられた。覚えているのはそれくらいだ。後のことは、ほとんど記憶に残っていなかった。呆然と生き、必死に笑っていた気がする。
遠い記憶を引っ張り出している俺の隣で、その人は静かに首を振った。
「気が済む……ですか。これまで泣いてもいいのは今日だけ。一年で一度だけ。そう決めて生きてきました。でも……今日が一番、私が泣いてはいけない日でした」
今日は泣いて良いと決めて生きてきたけれど、一番泣いてはいけない日。それが、今日? 淡い期待が僅かに膨らむ。この人の中に俺という存在があった。それだけで、自分が教えられていた母と違うと悟る。もう既に、父と祖父母には不信感しか持っていない。だからだろうか。
でも、それは偶然かも知れない。この人は母だと思うけれど、俺の誕生日だからとは思っていないかも知れない。それを確認しようと問うた言葉。声が、ひどく震えた。
「えぇ……大事な、大事な息子の誕生日なんです。あ……ごめんなさい。聞かなかったことにしてください」
その人はまた項垂れる。誰にも言っていないのだろうか。それでも彼女の中で、息子がいる事実をなかったことにしてはいない。俺の誕生日をずっとこうして覚えていてくれた。それだけで少しだけ何かに期待してしまう。けれど。心の中で、俺を捨てたこの女に期待するな、と悪魔が囁く。分かってる。分かっている。でもきっと、これは最初で最後のチャンスなのだ。
「会いに行ったり、お祝いをしたりしないんですか」
「そうです、ね……私はもう、会えないんです」
「……会いたくは、ないんですか」
この人の本音を知りたかった。今、誰でもない人間に零す本音。それを知りたかった。会いたいですよ、と即座に彼女が言う力強い声。両手を固く握って、下唇を噛んで。
「そりゃ……会いたいです。大事な大事な、本当に大事な息子です。会えるのならば、今すぐに会って抱きしめたい」
「それなら、会いに行ったらいいじゃないですか」
「そういうわけには、いかないんです。法律やら色々なことがあって、私は会うことが叶わない。こうして一人で祝うくらいしか出来ないんです。あの子の誕生日をこうして、あの子が好きだった海で」
俺は今日、二十五になった。上京してからはもう、誰からも祝われないこの日。何も特別なことなどないこの日。きっと俺の誕生日など、皆忘れただろうと思っていたのに。この人はここにいる。ここは小さい時に両親と来た海。多分、数回のことだけれど、彼女は忘れたりしていなかった。それならば……どうして。
「それで……いいんですか。彼だって、会いに来て欲しいって……思ってるかも知れないじゃないですか」
「いや、どうでしょうね……そうだと、いいですけれど。息子にはもう、新しい母親がいます。新しい家族があって、きっと……もう私のことなどすっかり忘れたでしょう」
その言葉に腹が立った。忘れるわけがない。ずっと、密かに追い続けていたのだ。そんなわけないでしょう、と立ち上がる。苛立ちで満たされていた。どうせ、俺を捨てたくせに。その気持ちがボロボロ溢れてくる。忘れたかったのは、そっちじゃないか。新しい夫を得て、産み落としただけの息子など忘れたかったのではないのか。
いつの間にか俺の頬にも、涙が溢れた。
「……会いたかったよ」
色んな感情がごちゃごちゃになって、結局言葉になったのはそれだけだった。ぶつけてやりたい思いや聞きたいことは沢山あった。それなのに、弱々しい声は、それしか言えない。涙を堪えるように、俺も強く唇を噛み締めた。
「会いたかったよ……ママ」
久しぶりに呼んだ。この人を、ママ、と。幼かったあの時のように。自然と溢れた涙。ヨロヨロと立ち上がったその人の手が、俺の頬に触れる。カナタなの? と確認する顔は、忘れもしない母の顔だった。この年で恥ずかしいが、ママ、と何度も呼んでは泣いた。彼女もまた何度も何度も俺の名を呼ぶ。そしてその人は、子どものように泣いていた。
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