第34話 私はまた泣いた
毎年ここに来ると、いつも以上に弱気になる。それは一年に一度だけ、自分に泣くことを許した日だからだろうか。ザァザァと押しては返す波だけを眺めて、私は幾度目かのため息を付いた。二十年以上昔の記憶を辿って、ただ海だけを見ている。張り詰めた感情を涙として吐き出しながら。唯一気持ちが和らいだのは、昼くらいに宏海からのメッセージが送られてきた時くらいだ。お土産にお魚買ってきて、というのんびりした依頼。宏海ののほほんとした言い草が思い出されて、すぐに売店に出掛けた。気が紛れたのはその時だけ。そうしてまたここへ戻り、陽もくれてきた今、まだ堂々巡りをしている。
「元気、かな」
微かな声が、波音に攫われた。
毎年、同じホテルに泊まり、同じ海を眺める。そんなことを何度繰り返したろうか。あの子を思って、叶わぬ今を想像しては涙を流した。砂浜で遊ぶよりも、テトラポットに登って海を見ているのが好きな子。海に入って遊ぶよりも、絵を描いているのが好きな子。それが、私の息子だった。
変わってしまったろうか。あの家ではきっと、遊びになど連れて行ってもらえない。あぁでも、あの後出来た新しい家族は、そうすることも許されたのだろうか。静かな波音に心を委ね、頬を伝う涙を拭うこともしなかった。我が子には、もう会うことも叶わない。私は母として、心の中だけで歯を食いしばるしかない。
時刻は十七時五十八分。大きく息を吐いて、SNSを開く。真っ直ぐに見つめる、『カナタ』のページ。息子と同じ名前のこの人は、いつも写真を一枚上げている。添えられる文は短い。初めはデッサンのような絵だった。今はそれに混じって、民芸品だったり道端の花だったり、温かな写真がアップされる。それも毎日、決まって十八時に。
日の入りを迎え、暗くなり始めた海。ぼんやりと光る携帯の画面。潮の匂い。海風。その全てが、あの頃を思い出させた。そうして、いつもの時刻にあげられたモノクロの写真。写された食べかけのステーキ。『打ち合わせとランチ』と添えられている。端にペンが見えるから、ランチミーティングのようなものだろうか。光の差し込みが温かい。誰だか知らぬ人の一瞬に、色んなことを思う。あの子はきっと、あの家を継いだのだろう。カチカチに固められた生活の中で、僅かな幸せをこの人のように見つけていて欲しい。許されぬ母としての願いだった。
「カナタ……」
零した名に釣られて、涙が溢れる。何度も何度も、彼の名を呼んだ。もう触れられない息子。きっと背も大きくなっただろう。どうか元気でいて。どうか……
「大丈夫、ですか」
涙を流したままで、どれくらいいたろうか。急に声をかけられ、身を強張らせる。サクッサクッと近づく足音。声は、宏海のように優しい。どのくらいの間見られていたのだろう。私は何時間も、同じ場所で海を見て泣いていた。もしかすると、今に死んでしまうとでも思われただろうか。
「すみません。大丈夫です。ありがとうございます」
何とかそう振り絞った。その人の顔までは見られない。ボロボロに泣いているおばさんの顔。もう化粧だって取れている。全く知らぬ人に、そんな顔を晒すのは少し気が引けた。
「何か、ありましたか」
危険な香りでもしたのか。その人は躊躇うように、少しずつ近づいて、私の脇で止まる。いえ何も、と否定はした。本当は「大丈夫です」とでも言って、立ち上がれば良かったのだろう。けれどまだ、私は立ち上がれなかった。もう少しだけ、ここにいたかったから。
「僕も一緒に、海見ていいですか」
「え……あぁ、どうぞ」
流石に断るべきだっただろうか。物取りだとかを、疑った方が良かっただろうか。そのくらい考えついたものの、何故かこの人は大丈夫だと思ってしまった。宏海のような声色だからか。彼は何も言わないまま、間を空けて、私の隣に腰掛ける。全く知らない若い男。不思議と、嫌ではなかった。
「日が、暮れましたね」
「あぁ……そうです、ね」
ポツポツと言葉を紡ぐ。変にぎこちない会話。きっと彼は、何とかここから私を離そうとしている。海に一人、沈んでいかないように。「何か、ありましたか」とまた問う彼。私が死なないように、必死に食い止めてくれれいるようだった。
「何も……何もないんですよ」
消え入るような声が、そう繋いだ。そして、また泣きそうになってハッとする。あぁそうだ。私には泣く権利などないんだ。あの子が寂しいと泣いたとしても、同じように私が泣くのは許されない。一年で一度だけだと決めて生きてきた。けれど寧ろ、私は今日こそ泣いてはいけなかった。それなのに。拳を強く握りしめた。
「何も無いのに……どうして?」
「……まぁ、おかしいですよね」
「いえ、きっと生きていればそういう日もあるでしょう。だから、泣きたいなら泣いたら良いと思います。気が済むまで」
「気が済む……ですか。これまで泣いてもいいのは今日だけ。一年で一度だけ。そう決めて生きてきました。でも……今日が一番、私が泣いてはいけない日でした」
またググッと深く下を向いた。幸せなはずの誕生日。寂しくて、泣いても良いのはあの子だけだ。私は……彼を捨ててしまった私には、その権利はない。
「今日、ですか」
「えぇ……大事な、大事な息子の誕生日なんです」
こんなこと言うつもりはなかった。見ず知らずのこの人に吐露するような話じゃない。ごめんなさい、と小さく謝った。聞かなかったことにしてください、と。
「会いに行ったり、お祝いをしたりしないんですか」
「そうです、ね……私はもう、会えないんです」
口元だけに冷めた笑みを乗せて、自然に答えていた。理由は分からない。今まで毎年一人で迎えていたこの日のことを、誰にもちゃんと話したことはない。暁子にだって。それでも、誰かに吐露したかったのは事実だ。過去の懺悔を聞いて欲しかった。いつも、誰かに。
「……会いたくは、ないんですか」
彼はそう言った。会いたくないわけがないじゃないか。我慢して、飲み込んで、何とか何とか生きてきた思いが、プチっと溢れ出る。
「会いたいですよ。そりゃ……会いたいです。大事な大事な、本当に大事な息子です。会えるのならば、今すぐに会って抱きしめたい」
苛立ちだった。どこにもやり場のない怒りを、沸々と抱えているような、自分勝手な怒りだった。彼に対してではない。ただただ自分に向けての怒りだ。
「それなら、会いに行ったらいいじゃないですか」
何故だか、その知らない男の声に怒りが乗った気がした。
「そういうわけには、いかないんです。法律やら色々なことがあって、私は会うことが叶わない。こうして一人で祝うくらいしか出来ないんです。あの子の誕生日をこうして、あの子が好きだった海で」
あの子は今日で二十五になる。小さかった手も大きくなっただろう。サラサラの髪は、何色かに染まったろうか。見ることも叶わない息子。モザイクがかかったような顔に、あの頃のような優しい口元が思い浮かぶ。顔は上げられず、また強く拳を握り込む。そして視線の片隅に、彼の拳が同じように握り締められているのが見えた。
「それで……いいんですか。彼だって、会いに来て欲しいって……思ってるかも知れないじゃないですか」
「いや、どうでしょうね……そうだと、いいですけれど。息子にはもう、新しい母親がいます。新しい家族があって、きっと……もう私のことなどすっかり忘れたでしょう」
そうやって言葉にして発することで、気持ちが少しずつ冷静になった。あの子はもう、私のことなど忘れてしまった。胸は痛いが、そろそろ受け止めねばならないことかも知れない。小さく零した溜息は、波音にかき消された。
「そんな……そんなわけ、ないでしょう」
大きな声だった。それまでとは違う、強い声。勢いよく立ち上がった彼を、私は驚いて見上げる。顔はよく見えないが、まだ固く握られている拳。気付けば辺りは暗くなっていた。
「……会いたかったよ」
ヒュッと血の気が引くのが分かった。え、と微かな声が溢れる。力の上手く入らない足でフラフラと立ち上がり、私は彼の顔を見た。それは、二十五の男の顔。五つのあの子の面影と重なっていく。あの頃と変わらない右頬の薄い黒子の上を、綺麗な涙が伝っていた。
「会いたかったよ……ママ」
久しぶりに、私を呼ぶ。眼の前にいるのは……
現実が理解できないまま、私はそっと手を伸ばした。ペタペタと彼に触れる。カナタなの? そう、私はまた泣いた。
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