第33話 海とか見てるんじゃないですかね
「じゃあ、また来ますね」
「はぁい。ありがとうね。カナコにも、たまには来なさいって言っておいて」
「分かりました。では」
顔が強張っていないだろうか。義母が戸を閉め終えるまでは、なんとか笑顔を維持しておきたい。パタンと音がするまで手を振って、ガチャリと鍵のかかる音を確認する。ようやく、フゥと大きく息を吐き出した。
朝から考え事をしていた。それは、あの写真のこと。昨日カナちゃんに問うてみようと思ったけれど、出来なかった。触れてはいけないことのような気がしたからだ。けれど、もう一度確認がしたかった僕は、義実家に来たわけである。混ぜご飯の素作りすぎちゃったからお裾分けにと、それらしい言い訳を作って。
僕に話せないことがあるのは当然だ。だって、僕らは本当の夫婦じゃない。それでも、知りたかった。いつか彼女が立ち止まった時に、寄り添えるように。いや、それは詭弁か。野次馬みたいなものと変わらない。ただ、知りたかっただけだ。純粋に、カナちゃんのことを。
「やっぱり男の子だったな。僕らの時代ではないことは確かで……」
場所は、ここ。今と変わりなく写っていた表札には、ちゃんと『中野』と書かれていた。きっと親戚の子か何かだ。そう思おうとしているが、納得しきれないものが、いつまでも心に引っ掛かっている。
「あれ、佐々木くん?」
隣家の生け垣の前を抜けて、階段を上ったところで、佐々木くんと出くわした。打ち合わせの時間まで、まだあると思ったが。
「ごめん、今戻るところだけれど遅かった? それとも別件?」
「いえ。早く来過ぎちゃったので……ご飯食べようかな、とウロウロしてました。あ、中川さんってお昼食べました? もしまだなら、一緒にどうですか」
「お、いいね。じゃあ、お行儀悪いけど打ち合わせもしちゃおうか」
いいですね、と佐々木くんはフニャリと笑った。
彼とはまだ、二人きりで話したことがない。いつも池内くんが一緒にいる。だが今日は、急遽別件対応が必要になったと連絡が来た。初めて佐々木くんと二人の打ち合わせ。折角だから、色んなことを話してみようかな。
「この後は戻るの?」
「あ、いえ。十五時に木工作家さんのところで打ち合わせで。小田原に向かう予定ですね」
「そっか。小田原……二時間はかからないかな。でも移動で結構掛かるね。大変だ」
「そうですね。何度か伺ってますけど、まだこっちの地理感覚に慣れてなくて。乗り換えとかもたついちゃうんですよね。だから、ちょっと余裕を持って動かないといけなくて」
「僕も今じゃ、携帯がないと不安だよ」
ですよね、と同意する佐々木くんは、東北の方から来たのだと言っていた。大学こそ都内だったらしいが、ちょっと離れると分からなくてと笑っていたな。距離感なんかが、上手く掴めないらしい。まだ可愛らしい面影のある若者だ。もはや、親戚のおじさんのように、頑張れと応援してあげたくなる。彼は、そんな子だった。
二人で、小さなトラットリアに入る。僕はいつものパスタランチ。佐々木くんは迷うことなくステーキランチにした。ハキハキと注文する彼は、モテそうだなと思う。躊躇いなく肉をチョイスできる若さ。適度な筋肉。それから愛想の良い受け答え。時折物憂い顔を見せるが、まぁそれも若者だからだろう。
「ここはよくいらっしゃるんですか」
「うぅん、そうだなぁ。時々だね。今日はたまたま義理の実家に行く用事があったし、弁当を持って来なかったからね」
「弁当ですか」
「そう。でも今日は、妻が仕事休んで出掛けてて。弁当作らなかったんだ」
「あ、中川さんが作るんですか」
「あぁ、うちの妻はお料理は得意じゃなくてね。我が家は僕がお料理担当なの」
カナちゃんの料理というものを僕は知らない。義母曰く、どうしたらあんなことになるのか。まぁくん曰く、壊滅的。レシピ通りに作っているはずが、何かが違ってしまう。ただただ手際が悪く、更には不器用。多分おにぎりも握れないんじゃないか。二人共、それぞれにそう言っていたから、多分正解に近いのだと思う。
「彼女は専ら、掃除担当でね。細かい場所とか、無心にやるのが好きみたいで。僕はそういうのは苦手だから。まぁ、得意な者が得意な物をってやつだね」
「へぇ、いいですね。そういう押しつけのない生活って憧れます。ご結婚されて結構経つんですか」
「ううん。僕らはまだ二年目。籍は入れてないけどね」
「あぁそうでした」
以前の話を思い出したのだろう。顎を揉みながら、中野さんでしたよね? と問うてきた。カナちゃんは、彼に未だ会えていないと言っていたし。直接顔を合わせていなければ、名前などあやふやになるのだろう。
ランチのサラダが届く。食べながらやろう、と手を伸ばし、話を続けた。今日はさっぱりしたレモンドレッシング。家でも作れるかな。そんなことを考えながら、ふと見た彼。何でだろう。とても美しいと思った。
「そう。中野さん。この間も会えなかったんだってねぇ。女の子に囲まれてたわって笑ってたよ」
「……あぁ。そうだったかも知れません。今度こそ、お話できれば良いんですけど。研究の方ですもんね」
「うん、そう聞いてる。でも何してるのか、僕はよく分かんないんだよなぁ。病院の方は、簡単に想像つくんだけどね」
水に手を伸ばした佐々木くんの細い指が目に付いた。ああ、彼が美しく見えるのは、所作が綺麗だからだ。指の先まで、隙がない。
「そう言えば、佐々木くんって新卒だっけ」
「そうですね」
「そっかぁ。じゃあ、僕なんて親御さんくらいなのかな」
「あぁ……そうかも知れないですね」
親の年など、きちんと知らないか。僕だって、急に親の年を聞かれたら即答できない。あれ。顎を揉む佐々木くんの顔が、一瞬翳った気がした。気のせいだろうか。まじまじ見てはいけないな、とちょうど運ばれてきたパスタに気を逸らす。今日は小エビとジャガイモのジェノベーゼ。向かいでステーキを切り分ける佐々木くんは、やっぱりきちんとした綺麗な所作だった。
暫し、世間話に徹する。学生生活のこととか、最近の流行りとか。若い子から得られる機会は少ないから、あれこれ聞いてしまった。そしてやっぱり、彼の所作は美しいと思った。きっと愛されて育ったのだろう。スムーズに動かされるカトラリーが、そんなことを思わせた。
「さてと、ちょっとこれ見てもらっていいかな」
食事がある程度終えたところで、彼にスケッチブックを提示した。、彼にスケッチブックを提示した。この話を貰ってから描き溜めたデッサンである。
「今回は木工作家さんとってことだから、どこまで出来るか分からないんだけどね。木枠に革をつけたトレイとか、大物もいけるならスツールとか? そういうところかなぁと思ってるの。それと僕は帆布も縫うから、バッグに木工タグとか……えっと、こういうのもね。面白いかなって考えてて」
顎を揉みながら、それを覗き込む佐々木くん。初めて自分の案を提示する時は、相手が誰であろうと緊張する。彼がどんな反応を示すのか、ドキドキと胸を鳴らした。
「この帆布を使うって考え、良いなと思います。中川さんって革作家さんのイメージが強いですから、こういうのもありますよってアピールにもなりますし」
「なるほど。確かに、鞄とかアクセサリーなんかも革が多いか」
「是非、帆布をメインにしてみませんか。と言っても、僕だけの意見でどうこうできないですけど……この後行くのが、ちょうど相手方なので。彼の意見も聞いてみますね。これ、写真撮っても大丈夫ですか」
「うん。いいよ。よろしくお願いします」
スマホを操作して、佐々木くんが写真を撮っていく。食べ終わっちゃったけど、と小さく舌を出してから、ステーキの乗っていたプレートも撮り収めた。こうしてすぐに手軽に撮ることが出来るようになったのも、携帯が進化した結果だ。僕は残りのパスタをクルクルとフォークに巻きつけながら、いい時代になったな、などと考え耽る。カナちゃんは今頃、向こうで美味しいランチでも食べているだろうか。
「僕、あまり小田原って詳しく知らないんだけれど、名物って何だろう。佐々木くん知ってる?」
「名物ですか……何だろうな。あぁ、かまぼことかじゃないですかね。海産物のイメージがありますね」
漁港の方だったら、土産に魚とか頼めるだろうか。電車で帰って来るのに嫌がるかな。妻の帰路と魚介を天秤に掛けた。
「海産物かぁ。今日ね、妻がそっちの方に出掛けてて。小田原に用事があるとかで。だから、帰りにお魚とか買ってきて貰おうかなって」
「小田原に……今日、ですか」
「そう。毎年この日に行ってるんだって。誰かお友達と行ってるのかなぁ。あまり聞いてないけどね。何かイベントとかあるのかなぁ」
表情を消した彼が、少し沈黙する。そして、小さく零した。海とか見てるんじゃないですかね、と。
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