第32話 違和感
昨夜、宏海は嬉々として匡の話をした。別にそれを聞こうと心していたのだから、不満があるわけではない。あぁやっぱり、と思っただけである。決して口に出さない気持ちが疼いたが、それは見て見ぬふりをしてやり過ごした。ただ、さっき思い出して、気になっていることがある。宏海が何かを言いかけてやめたことだ。あれは何だったのだろう。タコライスに意識を取られ、聞くのを忘れてしまった。今夜聞いてみようかな。話してくれるだろうか。
「カナコ、何してる?」
今日は会社へ出勤日。一人で昼食を摂っているところに、かかってき内線。己を名乗らずにそう言ったのは百合だ。ヨーグルト食べてる、と素直に答えたら、なんだか呆れられた。何だか腑に落ちない。いつも食べるヨーグルト。岩手の牧場のものだ。もう何年も行っていないけれど、元気にしているだろうか。いつかは会いに行きたいと思っている。けれど、私はあの地を踏むことが許されていない。
「いいじゃない。美味しいんだから」
「まぁねぇ。って、違う。大事な話なんだけど」
「ん、仕事だった?」
「そう。池内さんが確認したいことがあるみたいで」
「分かった。これ食べたら行くよ」
「うん、そうして」
今日は打ち合わせが微妙な時間だと百合が言ってはいたが、カメオカ相手だったのか。そういえば、関根さんもいなかった。池内さんが待っているのではすぐに行かなければな。あぁ、先日会えなかったササキさんもいらっしゃるだろうか。
「さてと」
ふぅッと一呼吸して席を立った。弁当箱を片付け、急いで歯を磨く。時間はそうないから、簡単にだけれど。シャコシャコ磨きながら、鏡で化粧をチェックする。元々表立った仕事ではないから、身だしなみはそこそこ。美容には疎い。相手に不快感さえ与えなければ、許されるだろうと甘えている。そうして身を整え、開発部門からは少し離れている営業部へ急ぐ。足が縺れぬように、ちょっとだけ気に掛けながら。
「すみません、中野です。遅くなりました」
「あぁ、カナコ。大丈夫だった?」
「大丈夫、大丈夫。お待たせしてすみません」
百合と話していた筋肉質の男性が振り返る。池内さんだ。ニカッと爽やかに微笑む体育会系が、こちらに居直った。
「ご休憩中でしたよね。すみません。トリーツの成分の確認と、今後のお話を少し伺いたくて」
「あぁそうでしたか。えぇと、どんなことでしょう」
池内さんが見せる資料は、無骨な文字が書き加えられていた。きっと彼は真面目なのだ。聞き流して良いことまで全て書き留めている。確かに見た目は暑苦しいかも知れぬが、こういう人こそ相手をきちんと見て愛してくれるタイプだと思う。見目だけに囚われては見えない。相手をじっくり知っていかなければ、気付けないところかも知れない。
少し離れたところで盛り上がっている若い子たちに、チラリと目をやる。池内さんよりも少し背の低い、細身の男性の背中が見えた。
「若い子は楽しそうで、いいですよね」
「え? 池内さんだって、お若いですよ?」
「あぁ、本当ですか。もう三十五になるので、彼らの中に入ると浮くんですよね。若いつもりではいるんですけど」
新卒と三十五じゃ差がありますよね、と笑う顔が寂しそうだった。
「いやぁ、でも関根が突っ込み過ぎですね。あれ、仕事忘れてるでしょう。後で注意しておきます」
申し訳ありません、と百合は頭を下げた、ひどく呆れた眼差しを部下に向けた。それから、大きく溜息を吐く。きっと私たちが思っていることは同じだ。確かに話が盛り上がっているようではある。だが、我々が気にしているのは、関根さんが女を出し過ぎているということだ。先日の宣言通り、ササキという彼を狙っているのだろう。『私は可愛い』を体中に貼り付けているのである。まだ仕事中で、ここは職場。呆れを通り越して、尊敬すらしてしまうバイタリティだな。
サラサラの少し長めの髪。顔は見えないが、モテそうな雰囲気を纏っているササキさん。困っていないだろうか。
「中野さん、すみません。あいつがもう一人の担当なんですけど」
「あぁ、いいんですよ」
あの盛り上がりを見せられては、何も言えない。池内さんは気を遣ったのか、ニコニコとよく喋った。どちらかというと、私ではなく百合に。恐らく苛立っていると思っているのだろう。だが、これは多分違う。腹が減っているのだ。彼女は昔から、空腹になると機嫌が悪くなる。チラリと視線をやれば、気不味そうに視線を泳がせた。
「僕らもいつか、中川さんたち御夫婦のような相手を見つけられたらいいんですけどね。なかなか難しいです」
「そうなんですかね……うちは何と言うか。まぁ大人だけの夫婦ですので」
「仕事相手の僕らにも、中川さんは普通に惚気けますからね。自然と話に出ちゃうなんて、幸せって証拠ですもんね」
「は? あ、すみません。ちょっと……意外というか。えぇと」
「何言ってんの。宏海なら想像つくじゃない。毎日妻に綺麗な弁当を作って送り出してくれるのよ? 愛されてる以外何だと言うの」
何故か百合は得意げだ。そんな顔をされても、私愛されてるのよ、なんて思えない。
「へぇ。そうなんですか。中川さん、弁当を。凄いなぁ」
「私が料理下手なので、お恥ずかしい限りです」
「いやぁ、そんなの得意な人がやったらいいんですよ。まぁ私には残念ながら、相手もいないんですけどねぇ」
池内がケラケラ笑った。営業の人って、こういう世間話が上手いのだろうか。私には出来そうもない。一人、むむむと顎を揉んだ。少し離れたところから、何やら楽しげな声が聞こえてくる。いつもよりも高い関根さんの声に、モゾモゾと不快な気持ちになった。
「カナコさん、いたぁ。お話中、すみません。ちょっとイレギュラーが発生してしまって」
「え? あ、ホント? ごめん、電話持ってなかった」
ランチバッグの中に、電話を入れたままかも知れない。慌ててポケットを探ったが、飴玉が一つ出てきただけだった。
「池内さん、すみません。えぇと、ササキさんには、またいずれご挨拶させてください」
「はい、お忙しいところすみませんでした。ありがとうございました」
「こちらこそ。失礼いたします」
呼びに来た研究室の子に連れられて、そこを離れようとしたと時だった。どこからか、鋭い視線を感じた。
――ん?
何とも言葉にし難いような感情が、ブワッと私の中を駆け巡る。もう一度振り返ったが、誰もこちらを見てはいない。私の視線に気付いた関根さんと目が合ったくらいだ。気の所為だっただろうか。またすぐに彼を見つめる関根さんに、逞しいねぇ、と呟きを零して研究室に急いだ。今のは何なのか。心に違和感を引っ掛けたままで。
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