第30話 強がり

「ねぇ、匡。やっぱり五十過ぎるとさ、恋は上手くいかなくなったりする?」

「はぁ? 何の脈絡もなく何なんだよ。俺に聞くなよ」


 帰宅途中で寄り道をして、宏海に土産のコーヒーを買いに来たところだ。カウンターの中で匡は、そう聞いた私を完全に白い目で見ていた。風貌だけで言えば、立派な喫茶店のマスターだな。最近は、コーヒーを淹れる腕も上がったらしい。おばちゃんの書いた金額訂正の文字。『新マスター研修中につき−100円』そう書かれたものが、メニューに貼られている。始めは確か200円だったと思ったから、随分と上達したのだろう。きっとおばちゃんは、匡が上手く淹れられるようになったとしても、こうして気にかけていくのだと思う。


「だって。匡、恋してるんでしょ」

「……宏海か。あいつ、おしゃべりなんだよ」

「宏海はきっと、嬉しかったんだと思うよ。匡が恋をしたかもしれないっていう事実が」

「嬉しいってなんだよ」


匡が怪訝な顔をする。


「あの子にとって、匡はさ……ずっと見てきた人生の手本みたいなもんだからね。実際に恋なのか知らないけどさ、宏海なりに心配してたんだと思うよ」

「あいつは何だ。俺の保護者か」

「そんなもんじゃない? お互いに」


んなわけあるか、と言いながら、私の前にコーヒーを置く。毎晩両親にコーヒーを淹れ、審査される生活。私なら耐えられないけれど、匡はそれだけ真剣に向き合ってるんだなと思う。一口飲んで、上手くなったじゃん、と茶化した。


「宏海から聞いてさ、私は仕方ないなって思ったよ。ブンタがそんな行動したんじゃ、浮かれもするわ」

「そうなんだよ、そうなんだよ。カナコなら分かるよな。ブンタがさ、自分から他人のところに行ったんだよ。もう感動しちゃって」

「感動するわよねぇ。あのブンタが」


 ブンタは、前の飼い主の問題で保護センターが引き取っていた犬だった。けれどその中でも馴染めず、常に怯えて、診察する我々もだいぶ手こずった子である。せめても幸せにしてくれる人を探してあげたかった。誰か優しい人、と思って真っ先に浮かんだのが匡だった。四十を過ぎて、生活に大きな変化が生まれる様子もない。一人暮らしであることはネックだったが、それを上回る安心感をこの男は持っていた。その頃のブンタを思えば、自ら誰かに寄って行くなんて、と思ってしまうのも仕方ないことだった。


「宏海がなんて言ったか知らねぇけど。そのブンタの行動が一番でさ」

「まぁね。あのブンタだもんね。私、今でも想像付いてない。ただ宏海はその頃のブンタのことを知らないし、私たちと同じ熱量で感激したり、理解するのは無理でしょう」

「まぁな。ただこの間、偶然にあの子がカレー屋に来た時は大変……というか面倒だったんだよ。宏海だけじゃなくって、千夏まで盛り上がっちゃってさ」

「匡が恋をしたって思ったら、はしゃいじゃう彼らの気持ちも分かるけど。あんたの言うことも分かった。ブンタが人間に対して心開いたんだもんね。感動するわよ。それは分かる。まぁとりあえず、今のところはね。そういうことよね」


 今のところはってなんだよ、と匡がギロリと睨んできたが、べぇッと小さく舌を出してやった。本当に、感動する気持ちは分かるのだ。保護されたケージの隅で丸まっていたあの子の姿が、今にも思い出される。臆病で、いつも何かの影に隠れているような子だったブンタ。匡と一緒に住み始め、予防接種などで病院に顔を見せる度、徐々にだけれど表情が豊かになったなと感じている。匡の言うことは聞いているようだし、診察室で見る限りでは、とてもいい関係なのだ。そういう点で、彼を選んだことは正解だったなと思っている。


「ブンタはさておきさぁ。それで、どう思う? 五十の恋」

「だから、俺に聞くなよ。宏海にでも聞け」

「聞いて、妙案でも出ると思う?」

「いや、思わねぇけど。まぁでも……五十だからどうっていうのは、言い訳なんじゃねぇの」

「ほぉ。まぁ分かるけれど、そう上手くはいかないじゃない。綺麗事とまでは言わないけど、失うものとか傷つくことを考えたら、諦めが勝つというか」

「まぁなぁ。多分、気付いたらそうやって言い訳してるんだよな。俺だって。きっと無意識に傷付きたくねぇって思ってるんだろうな。もう、二度と」


 匡が力なく笑った。あぁ、百合のことが引っ掛かっているんだ。そう思った。でも、もう三十年も昔の話。匡だって、未だ囚われているわけではないと思っていた。私がこんな話をしてしまったから、思い出してしまったのだろうか。応じるように眉尻を落とした。彼だけじゃない。私にも、後悔は残っているのだ。

 あの時、それまで通りに他の友人たちと皆で仲良く出来ていたら。もっと友人として出来ることがあったのではないか。そんな後悔を幾度としてきた。戻らない時間。どちらが悪いとも言い切れず、忙しさを言い訳にして逃げた。私の中でも、若かりし時の苦い苦い思い出だった。


「百合……元気にしてるか」

「え?」

「深い意味はないよ。ただな、毎日ここに立つようになって、思い出すんだよな。昔のこと。カナコも百合も、よくここに来ただろう。他の奴らも元気にしてるかなとかさ。みんな、幸せにしてると良いなって思うんだよな」


 清々しい、前を向いたおじさんの顔だった。でも、驚きで上手く返せないでいる。あれから今まで、百合の話は避けてきた。互いに、だ。わざわざ傷に触れることもない。そう思って数十年。その話題が初めて上り、確実に私は動揺している。静かに息を吐き切ってから、普段通りに笑ってみせた。


「百合ね。うん、元気だよ。私、病院ともう一つ働いてる場所あるじゃない? その会社に誘ってくれたのは百合なんだ」

「あ、そうなんだ。言ってくれりゃいいのに。って言いにくいか」

「うん、まぁ。ずっと私もね、百合と連絡取ってなくて。本当に久しぶりに再会したの。もう五年位経つかな。でも、すぐにあの時に戻れた」

「そっか。百合らしいか」

「でしょう。あれから出産して、すぐに別れたんだって。その子供も、もう三十。立派なおじさんだって笑ってる。元気だし、幸せそうよ」

「うわあ……そりゃ俺たちも年取るわけだよな。三十の子供がいても可笑しくねぇのか。俺たち。子供がいないとさ、そういう感覚ないよな」

「あぁ、うん。そ……うだよね」


 共感出来るようで、出来なかった。卑怯だな、と思い奥歯を軋ませる私をよそに、三十年かぁ、と匡は繰り返す。その表情は、すごく穏やかである。


「カナコ。この前も言ったけど、宏海のことどうするんだよ」

「どうって、何。いつ聞いても同じよ? 私たちは、契約婚。愛があるわけじゃない。でもだからって、縛り付ける気もサラサラないんだから。彼が好きな人が出来れば、即座に終わりにするつもりでいる。私だって、宏海に幸せになって欲しいもの」

「この先のことが気になったから、五十の恋がどうの言い出したんだろ。宏海の幸せって言うけどさ……それって、カナコじゃ出来ねぇの?」


 急に何を言い出すのか、この男は。宏海は今も、匡を思っている。それを間近で見ていて気付いているのに、一体どうしろというのだ。


「ダメというか、宏海が望んでないわよ」


そう返すのが、精一杯の強がりだった。

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