第26話 泣いてしまいそう
『カナちゃんのことは僕が守るよ』
宏海が言った言葉に、私は固まってしまった。恥ずかしそうに視線を逸らした彼は、きっと気付いていないだろうけれど。顔が赤くなって、とても熱かった。例え社交辞令だったとしても、とても嬉しい言葉だった。あぁ、やっぱり。私って単純だ。
「あれ、カナコ。カップ変えたの?」
「あ、うん。一昨日、宏海が買ってくれてたの。可愛いでしょ」
「ふふ。本当だ。こうTHE土産みたいなゴテっとした物だけじゃないのね。饅頭しか見てなかったわ」
「ね、私も思った。今はこういう可愛らしいのが売ってるのね。昭和の感覚だと、東京とか筆文字で書かれてるイメージでしかなかったもん」
「あぁ、分かる」
初めてこれに入れるのが、煮詰まった美味くもないコーヒー。やっぱり家でカフェオレとか飲む時に使えば良かったかな。そうだよな、せっかくお揃いだったのに。
「さてさて、カナコさん。一昨日はお世話になりました」
「いえいえ。お役に立てたなら良かったです」
「はい、とても感謝しています。渉くんが、今度は二人で飲みに行きませんかって言うのよ」
「うん。それは昨日聞いてきた。というか、聞かされた」
「なにそれ」
昨日は会社に行く日で、案の定昼休みに五十嵐くんがやって来た。お礼だという羊羹を持って。きっと彼の中で、だいぶ暁子と近づけたと思ったのだろう。無駄にキリッとした顔をして、今度は二人で飲みに行きましょうって言いました、と報告を受けた。鼻息荒く、意気揚々としていたので、多少気圧された感は否めない。
「暁子はさ、どうなの? 正直なところ」
「んー、どうかな。渉くんは悪い子じゃないし。一緒にいて楽しい。でもまだ、その先に進めるかと問われると、ちょっと即答できない。慎重になり過ぎかな」
「いや、いいんじゃない? 五十嵐くんも本気で向き合ってるみたいだし。まぁいっかって返事するよりは、良いと思うよ。もう愛だの恋だのってはしゃぐ年でもないし。相手を確認しながら、一歩進めれば良いと思うな」
五十を過ぎた私たちにとって、大事なことは体の相性ではなく心の相性である。いつまでも女でありたいと考える人もあろうが、私と暁子にとっては『老後を共に出来る相手なのかどうか』が大事だ。その点、恋愛感情で繋がっていなくとも、宏海は満点の相手である。
「そうかな。なんかカナコが言うと、そんな気がするから不思議よね」
「もう。絶対に間違ったこと言えないじゃない」
「だってさ? 一応、結婚の経験もあるし」
「失敗したけどね」
「それに宏海くんのこともさ、少しずつ関係性を温めてるわけじゃん。この先変化がないとしても」
「まぁ、そうだけど……」
この先変化がない。その言葉が、なんか今日は面白くなかった。このカップを持っているからだろうか。一週間前とは違う変化がここにあるというのに、この先がゼロだと断言するような言い方が気に入らなかった。
「あ、そうだ。明日、定時ですぐ帰るね」
「ん、何かあった?」
「会社の親睦会に顔を出さなきゃいけなくって。弁当箱持ったまま家通り過ぎるのも、だるいし。それに暁子ほどフランクな付き合いの場ではないから、一応シャワー浴びて行きたいんだ」
「おぉ、それは確かに。じゃあ、少し早く上がっていいよ」
「本当? 助かる。イレギュラーがなかったら、そうさせてもらうね」
一度家に帰ってしまうと、出るのが面倒にはなるけれど仕方ない。動物の匂いに敏感な人もあろうし、オペもする。着飾るわけではないが、一応マナーのようなものだ。一人飲みだったり、宏海や暁子と飲むだけならば気にしないんだけれど。
「あ、そうだ。毎年のことだけど、十六日も有難うね」
「ううん。それは、カナコにとってマストでしょう?」
口元にだけ笑みを乗せて、小さく頷いた。九月十六日は、無理言って毎年休ませてもらっている。私の中で、忘れるはずのない大切な日。暁子が静かに私を見つめ、いくつになる? と問うた。嬉しいけれど、苦しくて悔しい。でも必死に笑って答えた。
「もう二十五よ」
きっと私は今、泣いてしまいそうな顔をしている。
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