第27話 不可侵領域

「百合、ごめん。遅くなって」

「いやいや、お疲れ様。向こう大丈夫だった?」

「うん。今日は暁子が少し早く帰してくれたの。分かりの良い院長で助かってます」

「本当。暁子ちゃんっていい上司よねぇ」


 親睦会に遅刻して合流し、百合の脇に滑り込む。そしてすぐさま、ビールでいい?  と問う彼女に私は心底ホッとしている。三十年以上前から変わらない友人に。そう言えば、百合と暁子は似ている気がする。しっかりしているようでしていない私を叱ってくれる。時折三人で飲む時なんか、いつも二方向から同じような指摘を受けるのだ。それは大体が宏海のことだけれど。あぁ、こうしてササッと飲み物を頼んで、私が好きそうなつまみを皿に盛るところは百合だ。暁子には見られない。


「カナコさん、遅いですよぉ」


 まだ箸も持たず、おしぼりで手を拭いている私に、急に背後から声が掛かる。振り向けば、剥れる関根さん。今日も可愛らしい格好をしていて、感心してしまう。あのくるくる巻かれた髪は、毎朝セットするのだろうか。あれ、いつもはどうだったか。気になって思い出そうとしていると、百合が彼女を制する。何か納得できていない彼女は、だってぇ、と口を尖らせた。よく分からないが、結構飲んだようだ。


「これでも早く上がってきたんだけれどね。関根さんは結構飲んだのかな」

「飲みましたとも」

「それは……良かったです」


 絡み酒か。まだシラフの私は、面倒くさいな、と心の中に愚痴をこぼした。百合が呆れているところを見ると、既に彼女は絡まれた後なのだろう。


「良くないですよ。何言ってるんですか」

「え? あ、そ……うよね? ごめんね?」


 よく分からないままに叱られてしまった。何かの地雷を踏んだらしい。ごめん、と口を動かした百合は、とりあえず関根さんを私たちの間に座らせる。少し話を聞いてあげなければ、埒が明かないのか。


「関根さん。お酒飲みすぎよ。今日はそういう会じゃないでしょう」

「そうですけど。でも百合さん、今日にかけてきたんですよぉ、私」

「今日に……かけてきた?」

「そうなんです。カナコさん知ってます? カメオカのササキさんって、すごくシュッとしててかっこいいんです。爽やかぁって感じで」

「はぁ」


 間の抜けた返事をして、あぁそれで髪を巻いてきたんだな、なんて思う。ササキがどんなに自分の好みなのかを聞かされ、百合の呆れた顔が目に入る。これは何の拷問なのか。ただ、酔っている相手だ。大人しく聞いてやる方が良い気がする。きっと、百合は散々聞かされたのだろう。部長の顔をして叱っているが、彼女には全く響いていなかった。


「ササキさん、急用で帰っちゃったんですよ……」

「ほぉ、なるほど」

「今日はもう少し仲良くなりたかったのに」


 さっきまでの勢いはどこへやら。可愛らしい女の子の裸の感情が吐露される。攻め落としたかったのではない。単純に、もう少しだけ仲良くなりたかったのだ、と。こういう素直なところを全面に出したら良いのに。なんて思うのは、おばさんになったからだろうな。

 関根さんのことを良く思わない人が結構いる。こういう線引が上手くないのも一因だろうか。今日は参加していないが、開発部署の中ではすこぶる評判が悪い。私たちのような年上の人間や、男性社員なんかには見せない様があるらしいのだ。まぁそういう子もいるよな。仕事さえ滞りなくやってくれていれば、私は問題ない。同年代の同性社員とも仲良くしてくれれば、なおさら良いけれど。


「あ、え? 帰っちゃった? 来るの遅かったか。百合、ごめん」

「いやいや。イケウチさんはいらっしゃるし。ササキさんだけね、お仕事の都合で先に出られたのよ」

「そうなんだ。お忙しいお仕事なのね」


 他人事のように言ったが、宏海が世話になっている相手である。打ち合わせが急遽入ったとかそんなところだろう。彼らの通常の仕事を全く知らないわけでもないが、かと言って熟知しているわけでもない。薄っすらそう思う程度である。は、情けない限りである。届いたビールを二口だけ飲み、百合と席を立つ。関根さんは項垂れているから、そのままそっと放置した。


「ご歓談中、失礼します。開発の担当者が来ましたので、ご挨拶に」


 百合がちゃんと大人のやり取りをしている。それが当たり前の年齢になったのだが、二人でいると、いつでも懐かしい時代が抜けない。でも体は年相応だし、いつの間にか健康の話をするようにもなった。制服の裾をピラピラさせて、暑いと項垂れていた頃には、流石に戻れない。


「お世話になっております。商品開発部の中野と申します」

「カメオカの池内と申します。よろしくお願いします」


 こうして私だって、当然のごとく名刺交換をする。池内さんは、爽やかなスポーツマンタイプ。そのキラキラした目が、私の手元を見ている。あぁ宏海が作った名刺入れだからか。


「それは中川さんのものですよね」

「えぇそうです。主人もいつもお世話になって、有難うございます」

「いえいえ。新卒の頃からお世話になっておりまして、私の方が甘えてしまっているくらいです。本当に優しいですしね。今は若いのも交えて担当をさせてもらってますが、そちらの方も暖かく見守ってくださっていて。本当に感謝してるんです」

「そうでしたか」

「ええ。今日は急用で仕事に戻ってしまったんですが、ササキという者もご主人の担当を一緒にさせていただいています」


 宏海からは、籍入れていないと話してあると聞いている。その事前情報だけで、だいぶ楽になった。こういう場で関係を隠すのは、そう容易ではないのだ。


「お会い出来なくて、残念でした。よろしくお伝えください」

「はい。あ、でもきっと、旦那さんのアトリエで会えますよ。それにこの仕事で、まだそちらの会社にも伺いますし」

「あぁ、そうですね。では、その時改めてご挨拶させていただきますね」


 そう言ってみたものの、私はそのアトリエに行ったことがない。宏海がそこに行っている時は、私は仕事をしている。彼がそうスケジュールを組んでいるのだ。初めにした約束。夕食はできるだけ一緒に食べよう。それを、それだけを守るために。

 そのアトリエは、私の実家の近くにあるらしい。おおよその場所は聞いているが、行こうと思ったことがなかった。行ってみたい、と言ってみようかな。宏海は、どう思うだろう。アトリエはいわば彼の城。そのテリトリーには、私を入れたくないだろうか。そういう気持ちがあったって当然だ。私にだって、不可侵領域があるのだから。

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