第22話 打算的な思い
「カナコ。私、結婚しようかな」
今日もいつもと同じように診察をして、いつもと同じような仕事終わり。煮詰まったコーヒーをデスクに置いた私に、暁子はサラリとそう言った。すぐに反応できなかったけれど、カップを落とさなかったことだけは褒めて欲しい。目を丸め、はぁ? とようやく返した私に、してやったり顔をした暁子は楽しそうに腹を抱えている。
昨日の今日。朝からいつも通りの院長先生だった暁子。嬉しかった、とメッセージを送ってきた昨夜の気持ちを確かめようと、僅かな緊張を持ってコーヒーを持ってきたのだ。恋愛など不必要だと決めて生きてきた私たち。あまり早急に答えを出すものでもないだろうし、仕事の後にサラッと話をしようと思っていた。その結果がこれである。
「本気?」
「半分は本気」
「何それ、半分って」
「いやね。渉くんはとてもいい子だなぁって思って。彼と彼の家族には申し訳ないかなと思うんだけどね。結婚、してみたいなって思ったの。茉莉花はいても、戸籍は真っ白。経験値としてあってもいいかなぁって」
「経験値って。簡単に言うものでもないわよ。離婚なんてことになったら、本当に面倒なんだから」
過去の自分の経験を持って、素直に答えた。結婚と聞かれたら、九割方、思い出しては吐き気がするような記憶しかない。当然良いことだってあったし、幸せだった記憶もあるけれど。最後の最後の嫌な感情が、それを全て上書きしてしまっている。良いか悪いかで問われれば、先に出るのは後者なのだ。
「うん。そうだよね。だから、カナコが反対するならしないつもり」
「やだ。そんな責任重大なこと冗談でも言わないでよ」
「言うわよ。こうやって素直に自分の気持ちを吐露できる相手って、貴重なのよ?」
「いや、そうかもしれないけど。結婚も良いわよって勧める程、私に良い思い出はないもの。五十嵐くんが駄目とかじゃなくて、普通にナシとしか言えないよ」
「結婚はそうだったかも知れないけど、宏海くんとの生活は悪くないでしょう?」
暁子にしては珍しく、茶化している素振りはない。けれど私には、今一番触れて欲しくないことだった。
暁子は五十嵐くんに惹かれたのか分からないが、彼に思われることに嫌悪感は感じていない。その暁子のほんのり温かな気持ちと五十嵐くんの真っ直ぐな思い。私には、それが眩しくて仕方なかった。自分の中にあった、ずっと認められなかった気持ち。ようやくそれを認め日に、彼の思いを改めて知った私としては、彼女たちとの感情の差がただ苦しかった。けれど、ほんの少し良かったと思っていることもある。それは一瞬だったけれど、私もまだ誰かを好きになることが出来る、と知れたことだ。
「ねぇ、カナコ。宏海くんのこと、本当はどう思ってるの」
「え、あぁ……好きだよ」
素直に言った。情けない、小さな声ではあったけれど、暁子から目を逸らさなかった。彼女が素直に話をしてくれるならば、私もどこかで素直に吐き出そうと思ったのだ。私にしては上出来だ。今日もどうせ誤魔化すとでも思っていたのだろう。暁子はひどく驚いて、くるくる回していたボールペンを落とす。軽いカシャンという音が二人の間に響いた。
「認めたくなかったんだけどね。色々考えたら、今のポジションを誰にも渡したくないなって。宏海の一緒にご飯を食べて、笑っていられるのがすごく落ち着いて。あぁ好きなのかもって」
話すつもりのなかった、行き場を失くした思いを吐露する。こうして誰かに言葉にするだけで、昇華させられる気がした。他の誰にも、当然宏海にだって打ち明けることのない気持ち。僅かに、心の隙間から晴れ間が見えた。
「そっか。幸せだね」
「うん。そうだね。あ、でも、宏海には好きな人がいてね。本当は、この気持ちに気付いたらいけなかったんだと思うの。だから、彼に伝えるつもりはないんだ。もし言葉にしてしまったら、この生活自体も手放さなければならなくなるからね」
へへへっと笑っていた。だから心配はしないで、と添えて。暁子は、今にも泣いてしまいそうな顔をしている。それが申し訳なかった。
「やだ、そんな顔しないでよ。いいの、いいの。今の生活を守る方が、気持ちを伝えるよりも大切だもの。ほら、それに。私はやっぱり、幸せになんてなれないから」
そう笑って返せた自分に驚いている。でも、これは本心だった。
私は、今の生活を続けていきたい。毎日淋しくない。それに、楽しい。楽したい気持ちがゼロかと問われると、少し口籠もるけれど。私にとっては良いことだらけだ。この生活は、私を満たしてくれる。それを簡単に手放すことは出来ないし、ましてや、それを誰かに手渡すなど出来るわけもない。もし彼への感情が強くなってしまって、多少苦しさ味わうことになったとしても、それは仕方ないのだと飲み込めるはずだ。
「で、暁子は本当はどう思ったの」
「そうねぇ。何ていうか、渉くんってマスコットみたいじゃない? 隣にいるだけで安心感があるというか。見た目で判断したらいけないけれど、彼は裏切ったりしないような気がしちゃう」
「だから、一緒にいても大丈夫かなって?」
「うん……でも、悪いよね。こんなおばさんがさ、そんな風に判断するなんて」
暁子がシュンと下を向く。五十嵐くんをきちんと恋愛対象として真剣に考えている結果だろう。あぁ暁子も恋をし始めている。それは淋しくもあるが、喜ばしいことだ。
「あのね、暁子。私は、あなたの気持ちが最優先だと思ってるけどね。でも、五十嵐くんって本当に悪い子ではなくて。一生懸命に影で努力してるような不器用な子でさ」
「……あぁ、うん。分かるかも」
「百合に言わせれば、隠し事も出来ないような奴で。例え誰かに手柄が取られたとしても、本当に心からおめでとうって言える。そういう子なんだって。きっと皆ちゃんと見てるのよね。今回のことね、相当悩んでたみたいなんだけど、後輩たちがあれこれ相談に乗ってくれたんだって」
五十嵐くんの話を聞いていた時に背後にいた子たちを思い出す。とても心配そうに、それでいて頑張れって拳を握っていた。あれだけ部下に好かれている。当然反りが合わない人もあろうが、あまりそれは耳にしたことがないし。彼との今後を暁子が真剣に考えたとしても、私が反対するような事柄は何もない。
「そうなんだ……そっか。本当にいい子なんだね」
「うん。そこは私も保証する。ただ、あまりプライベートは知らないから、百パーセントとは言い切れないけど」
「まぁそれはさ、ほら。モカ様見れてばだいたい分かるでしょう。すごく大事にされてるもの、あの子」
「あぁ、それはそうだ」
丁寧にブラッシングされ、毛艶も良い。モカ様は本当に大切に、まるでお姫様のように扱われている気がする。ちゃんと五十嵐くんの言うことを聞いているし。獣医の偏見だろうが、動物に信頼されている人は、きっと悪い人じゃない。
「ねぇカナコ。デートに誘ってみようかな」
「え? いいんじゃない?」
「うん。でもね、急に二人っていうのも心配で。何話したらいいか分かんなくなっちゃうし。だから、カナコも一緒に行かない?」
「そうねぇ。三人で何するかな。映画観るのは変だし、動物園は嫌だし。百歩譲って水族館? じゃなかったら、近場の観光とかかな」
それはいいな、と一人頷く。五十嵐くんが平日休めるならば、休院日に予定を立てよう。浅草、スカイツリーに東京タワー。その辺りだろうか。あぁ鎌倉でもいいな。
「観光かぁ。確かにいいね。箱根まで行っちゃうと旅行って感じになっちゃうから、その手前だよね」
「そうだね。行って、鎌倉かなぁ」
「楽しそう。あ、それならさ。三人じゃなくって、四人で行かない?」
「四人……とは?」
「宏海くんでしょうよ。当然」
「えぇぇぇ……」
「いや、カナコのためにとかじゃなくって申し訳ないんだけど、私個人の意見です。だって、まだ渉くんのこと何も知らないようなもんじゃない? 当然彼の方も。だから傍にはいてもらいたいけれど、こう二人で話をしてもみたいし」
うん、まぁそれは分かる。交際を始める前に、相手のことは知るべきだ。暁子も失敗しているから、その辺は慎重なのだろう。だけれども、そこに宏海を帯同させる意味が分からない。顎をもみながら、首を傾げた。
「あのね。普通の夫婦が傍にいてくれた方が、良いこともあるのよ。それにカナコは演技下手だし。宏海くんと普通に一緒にいてくれれば、聞きやすくなる話もあるの」
「いや、そうかも知れないけど」
「それにカナコだって、宏海くんと観光みたいなことしたことないでしょう?」
「それはまぁ……そうですね」
「なら、カナコだってデートだって思えばいいのよ。その宏海くんの相手がどんな人かは知らないけれど、今の時点で彼の妻はカナコなんだから。楽しんだって、いいはずよ?」
「楽しむ、か」
何も言い返せなくなった。確かに、宏海とはほぼ外で会うような機会はない。外食だって数えるほどだし、匡の実家の喫茶店もあまり一緒には行かない。この間飲みすぎて迎えに来てもらった時なんか、だいぶレアな経験である。そもそも私たちは、そういう思い出を作ってもいいのだろうか。
「……分かった。宏海に聞いてみる」
「やった。そうこなくっちゃ」
「でも、宏海には全て話すからね?」
「うんうん。いいよ。お願いします」
「分かった。じゃあ宏海と話して、それから五十嵐くんを誘おう」
うん、と大きく頷いた暁子。まるで子供のように嬉しそうだった。茉莉花を産んで二十年。母として生きてきた彼女が、その殻の中の本当の自分にようやく目を向けられたように見えた。それが、私も嬉しかった。宏海に何とか一緒に行ってもらえるように誘ってみよう。彼にとって気分転換になるかは分からないけれど。一度くらい楽しい思い出も欲しい、なんて打算的な思いが、私の中に見え隠れしていた。
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