第21話 彼の恋を応援できるのか 

 ずっとぼんやりと見えていた自分の気持は、きっとただ認めたくなかっただけだった。グラグラ揺れていた感情を『好き』という場所に埋め込んで、それがカチッとハマれば、不思議とそれだけで心は晴れやかになった。それでも、これ以上を望むことはしない。私は幸せになってはいけないし、そもそも宏海にも好きな相手がいるのだ。今の生活のバランスを変えてしまうような言葉を発することはしたくないし、彼もそういうことは言わないと思う。

 そんなことを考えながら帰宅した私は、今、想像していなかった自体に直面している。



――私は今、どんな顔をしている?


「まぁくんがね、恋してるんだよ。あれ、絶対に」


 食卓に座ってそう話す宏海は、ちょっとはしゃぎながら缶ビールを揺らした。いつもより楽しそうに見えるのは、彼の話をしているからだろうか。胸がズキリと軋む音がする。私たちにとって、唯一と言っていい共通の話題は匡。アイツの話がこうやって出てくるのは当然のことだというのに。


「何があったの」


 何とか笑みを作って返した。彼が嬉々として話し始めたのは、今日の匡の話。アイツが恋をしているのではないか、ということ。宏海が目を輝かせて話すほど、珍しい内容であるのは確かだ。

 匡の愛犬ブンタが、昨夜の散歩で女の子に歩み寄って行ってしまったという。それは純粋に、私も嬉しいなと思った。担当医として、とても大きな変化だと感じたからだ。ブンタという柴犬は、前の飼い主に捨てられ、心を閉ざしていた子だった。託せる先が見つからず、保護団体も病院でも限界を感じていた時、閃いた相手が匡。単身ではあるが、近くに頼れる親族もあって、人間的にも問題はない。急にそんな話を持ちかけた私に、アイツは嫌な顔こそしたが、すぐにブンタを見にやって来た。それから何度か会いに来て、徐々にトライアルをして、ブンタも匡に少しずつ心を許し始めた。そうして彼に託した結果、バカ飼い主と甘ったれな柴犬なったわけである。それでも、匡や私たち病院関係者以外には、まだ歩み寄れなかったはずだ。自ら進んで他人の元へ行ったなんて想像すら出来なくて、私は話のその部分に感動してしまっている。

 でもその脇で、宏海はやはり匡の話に夢中だ。ブンタが歩み寄った女の子が、カレー屋に来たらしい。それを興奮気味に、本当に嬉しそうな顔で話す。微笑ましいなと思う一方で、この笑顔が好きだなぁって……


――いや、私は何を望んでいるんだ。


 楽しそうに話す彼を見てハッとした。誰か私を止めて。余計なことを考えるな、と叱って。心が叫ぶ。けれど、表情を変えたりはしない。笑顔を貼り付けて、彼の話を聞くこと。それが今、己に課されたミッションだと言い聞かせた。

 その穏やかな声色が、いつもよりも弾んでいる。ゴツゴツした太い指に嵌められた、揃いの指輪をぼんやりと眺めた。嘘くさい笑みを添えて相槌を打つ自分が、今にも嫌いになりそうだった。


「それでさぁ。何だかモジモジしてるんだよ。ちょっと笑っちゃうよね」


 キャッキャと話す宏海は、何だかいつもより楽しげだ。それは、匡の話をしているからか。無意識に、テーブルの下で手を握り込んでいた。全て分かった上で、自分で選んだ道だ。それを今更、後悔などしていない。ならば一体、何を望んでいるのか。まさか、彼に愛されたかったとでも言うのか。薄く薄く息を吐き出し、静かに長く息を吸った。

 後悔はしない。していない。そう言い聞かせているくせに、私の心の中の中は明らかに下を向く。どうしてこんなことになったんだろう。ただちょっと、彼と近くなりすぎただだけ。ただちょっと、気がつくのが遅かっただけ。後悔しているわけじゃないんだ。だって、そう決めたのは――私なのだから。

 

「匡は何て言ってるの」

「いや、それがね。恋だとかじゃないって言うんだ。でも、千夏の見解では、叔父さんは恋してるねって。僕にもそう見えたの」

「千夏がそう言うなら、そうなのかもね。あの子はそういうことに敏感だもの」


 千夏は、匡の姪である。次兄の長女。大学生になったか。父親によく似た目元がチャームポイントで、クリクリと可愛らしい娘だ。


「やっぱりそうなんだぁ」


 ウンウンと頷いて嬉しそうに笑ったくせに、宏海は合間にフッと寂しい顔を覗かせる。あぁきっと、彼は今苦しいのだ。決して日の目を浴びないだろう己の感情と、グルグルと格闘しているに違いない。

 彼の思いに気付いたのはいつだったか。宏海は、匡のことが好きだった。いつも会う匡の実家――ジャズ喫茶、羽根で見かける彼は、いつだって匡を目で追っていた。その初恋のような感情を、今も同じように持っているとは思いもしなかった。数十年ぶりに再会し、酒を飲んでる自分たちに笑いながら、匡の話に見せたちょっとだけ苦しい顔。もしかして……まだ。直感でそう感じたのだ。

 宏海は今、どんな気持ちで話しているのか。私にどんな言葉を求めているのか。バレないよう薄く薄く息を吐き続け、胸のモヤを吐き出そうとしている。


「その子ね、泣き始めちゃったんだよね。カレーを食べ終えるや否や、ポロポロって。何かあったんだろうね。お友達が背を擦ってくれてたから、大丈夫だったんだけど」

「大人の女が外で泣くなんて、余程のことがあったのかも知れないね。心配だったとしても、匡は声掛けられないでしょう。アイツ、そういうの見るとテンパるじゃない」


 匡は不器用な男だ。気持ちを言葉にするのが酷く下手。大事な言葉を口に出来ず、恋愛においては失敗ばかりだった男だ。年を重ねたからと言って、それが変わったとは思えない。


「まぁねぇ。でも、今回のまぁくんは違ったの。試食してもらえますかって、プリンをおまけに出したんだよ」

「プリン? そんなのあったっけ」

「ううん。ない。たまたま試作で作ってたのがあってね。良かったら食べてもらえませんかって、千夏にわざわざ持って行かせてさ。もう焦れったくって。自分で持って行って、昨夜はどうもって言えばさ。話せるじゃん。なのに……おじさんになったら、恋ってしちゃいけないものかねぇ」

「えぇ、そんなことないでしょう。想える相手がいることは、素敵なことよ。それに匡はみ……未婚なんだから」


 あぁ失敗した。匡の結婚に触れるなんて。宏海が、また悲しい顔をした。そして、私の心が小さく悲鳴を上げる。

 私の中に確かにある宏海を思う気持ち。キュンとときめくことはなくても、宏海がいるだけで安心できる。家族愛みたいなものだと思っていたのに。さっき、そうではない感情を認めた。だから、きっと欲が出たのだ。もう少し一緒にいたい。もう少し、触れたい。前に、頭を撫でてくれたように。穏やかに、とても穏やかに微笑む彼が愛しかった。上手くいくかしらねぇ、と誤魔化して、嘘くさい笑顔を添える。この感情の輪郭。それを自覚をしてしまった今、私は彼の恋を応援できるのだろうか。

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