第18話 最大の悩み

「まぁくん、お腹空いたぁ」


 暑い暑い、言いながら開けたカレー屋の入り口。慣れた足取りは、カウンターへ真っ直ぐに進む。ランチには遅いし、夕飯には少し早いこの時間。珍しい時間に来たな、とキッチンから匡の声がした。 


「うん。今日はカナちゃんが飲みに行ってて。だからご飯作るの面倒臭くなっちゃってさぁ」


 カナちゃんは今夜、暁子さんを誘って飲みに行く。この間食事に行った男の子も一緒に、三人で飲むのだとか。

 本当は、相談してきたその相手のことが気になったし、とても悩んだ。その男の人は誰、なんて聞くのは女々しいし。それに何より、僕は彼女とそんなことを聞く間柄ではない。悶々としていたけれど、上手く出来るかな、とカナちゃんsがブツブツ零していたから、だったのだろうと飲み込んだ。何度も影で「自然に誘って……それから」とか言っている彼女を見て、もうそれが可愛らしくて疑うのも馬鹿らしくなってしまったのだ。大丈夫、と声をかけても、何だか緊張しているようだったし。だから今日の件は、深く気にしないことにしたのである。


「キーマでいいか」

「うん」


 ここに来たって、メニューから選ぶことはない。それもどうなんだろう、と思いもしたが、ココアが当然の如く出てくる環境に慣れている。そんなものだろう、と飲み込むのもすぐだった。チラリと目をやったメニューの片隅には、ガネーシャの絵。カレー屋のシンボルマークを作ろうって話になり、三人で描き合った。まるで小学生のような匡の絵。ウサギしか描けないというカナちゃんの絵。それから適当に描いた宏海の絵。まぁ当然のことながら、僕の絵が採用されているわけだ。


千夏ちなつ、お手伝い? 偉いねぇ」

「おぉ、宏海ちゃん。いらっしゃい。おじさん、一人じゃ接客不安でしょう? だからね、バイトしてあげてるの」

「千夏。そう言うなら、働け。皿下げて来い」

「はぁい」


 幼い頃と同じように、千夏はブゥっと剥れた。彼女は、匡の姪。ややこしいけれど、二番目の兄の、上の娘。羽根で、昔からよく会っていたから、もう慣れたものだ。彼女たち姉妹は、叔父の友人というだけの僕を、と呼ぶ。僕にしてみても、甥姪と近いような可愛さがあった。


「あれ? まぁくん、何かあった? 機嫌いいでしょ」

「お、分かるか。そうなんだよ」


 手際よく厨房内で動きながら、匡が昨夜あったという出来事を話し始める。それは、とても嬉しそうに。

 匡には、ブンタという愛犬がいる。夜、散歩に出たところで、同じマンションの女の子に出会ったのだという。普通に会釈してすれ違おうとしたが、珍しくブンタが彼女に吸い寄せられるように近づいてしまったらしい。それで少し話をしたという、そんな些細な出来事。だけれども、ブンタもそうだが、匡にしても珍しいことである。この顔を見るに、相当嬉しかったのだろう。感情が跳ねている様に見えた。


「まぁくん、本当に嬉しそうだね」

「そりゃな。カナコにも言っとけよ。多分、感動すると思うぜ? 宏海だって分かるだろ?」

「分かるよ。あのブンタがねぇ……」

「なぁ。ホントに。ブンタが自分から近寄るだけでも感動なのに、他人に撫でられて尻尾振るなんて。本当に想像出来なかったもんなぁ」

「そうだねぇ」


 ブンタは、カナちゃんが仲介して彼が飼うことになった保護犬である。前の飼い主と色々あって、なかなか心を開かなかったようだ。だから引き取り手に悩んだらしいが、カナちゃんが言っていた。匡なら絶対に優しいし、目線を合わせてくれる。そう幸せそうに微笑みながら。


「ねぇ、まぁくん」

「あ?」

「まぁくんは、カナちゃんのこと好き?」


 匡が少し浮かれているから、今なら聞いてもいいような気がした。ずっと気になっていたことだ。心臓がバクバク音を立てる。自分で聞いたくせに、怖気づく。好きだと言われたら、どうしよう。あぁ……馬鹿だなぁ、ホント。


「何考えてんのか分かんねぇけどな。好きか嫌いかって言ったら、好きなんだろうな。ただ、友達としてな。お前の好きとは、当然意味が違うぞ?」


 自然に俯いてしまった僕の額を、匡がペチンと叩いた。柔らかい眼差しが、実兄よりも兄らしい。くだらねぇこと心配しすぎだ、とグシャグシャに僕の頭を撫でた。あぁ、やっぱり匡には敵わないな。うん、と小さく頷いて、口を真一文字にギュッと結んだ。きっと彼には、カナちゃんへの気持ち全て見透かされている。今どれくらいに彼女を好きなのかも、タイミングを見計らっていることも。

 カナちゃんは、ずっと好きだった初恋の人。だもの、もう一度好きになることなんて、靴紐を結ぶよりも簡単だった。再会して、酒を酌み交わしながら、笑い合って。それだけでも、あの頃の淡い思い出を引っ張り出しそうだったのに。彼女が妙な提案をしてきたから、自分が拒否して、別の誰かにすり替わるのが嫌だと思ってしまった。ちょっとムキになったかもしれない。一緒に住まなくたって良かったのに、その方が良いなんて言っちゃって。少しでも距離を縮めたかった。それから生活を共にするようになって、案の定、僕は彼女を好きになっていた。けれど……カナちゃんはどう思っているのだろう。


「宏海。このままずっと今の関係なんてねぇからな。それが仮に出来たとしても、お前は苦しいままだろうな。永遠に。それは分かってんな」

「うん……それは、分かってる」

「ならいいけどよ」


 また宏海の頭を撫で回し、厨房へ戻る背をじっと見つめる。髪の毛が出ないように被っているキャップが、匡にはちょっと似合わない。何だかそれが可笑しくて、バッグからスケッチブックを取り出し、ちょっとだけ滲み出た涙を拭って鉛筆を動かした。店内にかかるボサノヴァ。匡が立てる料理の音。それに耳を澄ませながら。


「いらっしゃいませ。二名様ですか」

「はい」

「こちらへどうぞ」


 カラン、と音を鳴らしたドアから、女の子が二人入ってきた。外の熱気がモワンと店内に流れ込む。匡もそちらへ視線を向けるが、宏海のカレーが仕上がるところなのだろう。直ぐに目線は戻された。千夏はニコっと笑顔を作って、彼女たちを案内している。大きくなったなぁ、なんて思うのは、おじさんの証拠。誰にもバレないように、彼女の成長に少し口元を緩めた。


「ほら、キーマ。サラダも食えよ。どうせカナコには綺麗に作って、自分は残り物ばっか適当に食ってるんだろ」

「あぁ……ははは。バレてる?」

「バレるさ。カナコは気付いてるか知らねぇけど……って、何描いてんだよ」

「え? 頑張ってるまぁくん」


 宏海、と穏やかに言うくせに、目がちっとも笑ってない匡。「怖い、怖い」と身震いして見せて、カレーに手を伸ばした。

 匡の料理は美味しくて、いつだって笑顔になった。初めて彼の作ったものを食べたのは、いつだったか。あの時も、カレーだったことだけは覚えている。匡が作り始めたカレー。あ、あのお客さんはチキンカレーかぁ。あれも美味しいんだよな。それをボォっと眺めつつ、ゆっくりと咀嚼を繰り返した。千夏が洗い物をする音がする。本当に大人になったなぁ。その視線に気付いたのか。千夏が、こちらに身を乗出して来た。


「ねぇ、宏海ちゃん、何か知ってる? おじさん、今日ずっと変なんだよねぇ。でも、私が聞いても教えてくれないの」


 可愛らしい内緒話だった。姪に話したくないくせに、簡単に気付かれるほど上機嫌だったのか。つい、匡に目をやってニマニマと頬が緩む。もしかしたら、これから進展するような話になるのかな。そう思い至った時、恋じゃないかと思うんだけど、と千夏が言った。思わず、は? と声が出てしまった。あまりの名探偵ぶりに、あんぐりと開いた口が塞がらない。なんて顔してるの、と笑われたけれど、恋愛の現役世代は敏感だ。妙に感心している。


「余計なこと言ってんじゃねぇ、千夏。ほら。持ってけ」

「はぁい」


 匡にベェっと舌を出してから、カレーを乗せたトレーを持って千夏が背を向けた。それを見つめて、呆れたように匡が溜息を零す。何だかそれが可笑しくて、大きくなったねぇ、と問い掛ける。匡は叔父の顔をして、そうだな、と笑った。


「そうだ。宏海、プリン食える? あっちで復活させようと思ってて」

「本当? おじさん、大変だからってやめちゃったもんね」

「そ。売りが増えるのもいいだろ」


 喫茶店を継ぐ現実が、徐々に近づいてくる。匡には悪いけれど、続いていってくれるなら、本当に嬉しい。匡のカレーはだけれど、やっぱりあの店がなくなるのは嫌だから。


「ん、これ。こんな感じだったよな? あ……れ?」

「ん?」

「あの子……昨日の」


 プリンを差し出した匡が、一点を見て固まる。その先には、さっき二人で入ってきた女の子。昨日の、というのだから、きっとブンタを撫でてくれた子だろう。大人しそうな女の子を見る匡を見て、僕は人知れず安堵していた。


「声、掛けてきたら?」

「いや……いいよ」

「まぁくん、奥手過ぎない?」

「うるせぇな。宏海だって人のことは言えねぇだろ」


 そう返されて、結局言葉に詰まった。確かに、次の一手が出せない。しかも、もう何年も。

 でも少しだけ、最近は変化を見せていると思う。元夫の記事を見つけた日、カナちゃんが僅かに見せた甘え。もしかしたら、とほんの少しだけ期待した。でもあれからも彼女はいつも通りだし、結局はふりだしに戻ったけれど。いつか、を打開する日は来るだろうか。今、最大の悩みである。

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