第17話 失いたくない

「ただいま。宏海、ごめんねぇ」

「おかえり。いいよ、いいよ。まだ作り出す前だったし」

「良かった」


 帰ってきたカナコは、何やら酷く疲れているように見えた。手を洗って、流れるように冷蔵庫から缶ビールを取り出す。それを眺めて、僅かに首を傾げる。あれ、酒は飲んでこなかったのか。


「宏海も飲む? まだ何かすることある?」

「ううん。今日はおしまい。一緒に飲もうかな」

「じゃあ、ビールでいい?」

「いいよ。じゃあ、冷奴くらい出そうかな」

「わぁ、有り難い」


 カナコは嬉しそうにビールを二缶リビングに置いたら、自らナッツを皿に入れ始めた。珍しい。こんなこと滅多にしないのに。よほど飲みたい気分なんだろうか。冷凍にしていた枝豆を火に掛け、とりあえず冷奴だけを持って行く。カナコは缶ビールをじっと見て、プルトップを開けたそうにソワソワしていた。


「先に飲んでていいよ」

「ううん。待ってる。一緒に飲み始めたい」

「う、うん。そうだね。じゃあちょっと待って。焼き枝豆してるから。すぐ出来るよ」


 やったぁ、とカナコが微笑みかけるから、ドキリとしてしまった。

 今日、匡と話したことで気持ちに整理がついた。感情の蓋が開いたのだと思う。カナコを好きと言葉にしてしまってから、もう戻れない感情がいくつも顔を出し始めている。


「お待たせ」


 枝豆を持って隣に腰を下ろすと、カナコはすぐにビールを寄越した。よほど飲みたいのだろう。乾杯、と軽くぶつけると、彼女はグビグビっと勢いよく酒を流し込んだ。


「ふぁぁ。疲れた」

「大丈夫? 仕事のことだったの?」

「あぁ、ううん。仕事ではない。相談を受けてたというか」

「仕事じゃない相談?」

「そ。だから気を遣ってたみたいで、疲れちゃった」

「そうなんだ。お疲れ様」


 枝豆を口に入れて、美味い、と噛みしめるカナコ。仕事じゃない相談を異性から受けるって、どんなことだろう。恋愛相談、と考えるのが妥当なのだろうか。


「そうだ。宏海、忘れないうちに言っておくね。土曜日なんだけど、暁子と飲みに行っていい?」

「え? 暁子さん? いいよ、いいよ。気にしないで。行っておいで」

「うん。有難う」


 僕の返事を聞いてホッとした様に見えた。でも、カナコは黙り込む。缶ビールの表示をマジマジと見ながら、何かを考えているようだった。どうしたの、と声をかけようとした時、カナコから思いがけない言葉が落ちる。恋か、と。あまりに彼女からは出てこないような単語で、僕は目を丸めて覗き込んでしまった。


「恋って言った?」

「え? そんなこと言った?」

「今、言ったよ。もしかして、好きな人とか出来た?」

「好きな人……?」


 勢いでそんな事を言っていた。すぐに反論が飛んでくる。そう心のどこかで思っていた僕に、この静かな時間は徐々にダメージを与えていく。ここで頷かれてしまったら、一番恐れていた生活の崩壊が始まってしまうのに。何で気軽に触れたのか。自分に怒りが湧いた。ソワソワしている僕に反して、カナコはまだ黙り込んでいる。

 

「ねぇ、宏海はさ。好きな人……あぁ違うな。恋をしたら、何が何でもお付き合いしたいと思うもの? それとも、少しでも傍にいられたらいいなって思う? 友人として親密度を上げる、というか」


 そんなことを僕に聞くということは、カナコの中で対象外だと突きつけられた気がした。言葉にして誰かに宣言をしたその日に、振られたようなものだ。昔から続く弟のような関係から、ここまで一緒に暮らしても抜け出せていないということ。もう可能性はないのだろうか。


「僕なら……そうだなぁ。まずは距離を縮めたいかなぁ。だって、告白して振られちゃったら、同じような関係にもどれないかもしれないでしょ?」


 今の気持ち、そのままだった。この思いを伝えたい。けれど、この生活は壊したくない。だから今の結論は、すぐにカナコに気持ちを伝えるつもりはないのだ。もう少し距離を縮めて、弟じゃなくって、せめて男として見て欲しい。それが今の願いだった。

 そして、自問する。自分の気持がはっきりと見えた今、僕はどうしていきたいのだろう。カナコにもし、好きな人がいたら。もしそれが、匡だったら。僕は一体、どうするだろう。ただ一つだけ、分かっていることがある。伝えられずに終わった初恋。それを二度も失いたくない。それだけだ。

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