第16話 今じゃない
一枚の古い扉を前にして、僕は大きくため息を吐いた。ジャズ喫茶、羽根。そう書かれている見慣れた看板は、今日もぼんやりと光っている。古めかしいと言えばそれまでだけれど、僕には実家に帰ってきたような安堵が湧く。でも今日は、また小さな息を吐いて扉を開けた。
「いらっしゃい……宏海かよ」
「まぁくん……」
「入ってくるなり何だよ。ったく、座れ」
匡は、酷く呆れる。まぁそれもいつものことだ。それに、確かに今日はそう思わせるほどに落ち込んでいる。どうした、なんて言葉は掛けてくれはい。頼んでもいないココアを作り始めた幼馴染に、僕はホッとして椅子に腰掛けた。
僕は、幼い頃からここに来ている。まだランドセルを背負っていたような頃だ。彼の父は、そんな僕にいつもココアを作ってくれた。五十になっても尚、その名残で僕はここでココアを飲むのだ。本当はコーヒーも飲みたいけれど、作る側も受け取る側ももう習慣だ。話を聞くのはコレを出してから。今の匡だって、そう言わんばかりである。
「あら、宏海ちゃん?」
「あぁ、おばちゃん」
「元気にしてる? ちゃんと食べてるの? カナちゃんも元気?」
「うん。大丈夫。二人とも元気にしてるよ」
「良かったわ。獣医さんも忙しいものねぇ。でも二人が一緒になって、おばちゃんは嬉しいわぁ」
急に現れた匡の母は、怪訝な顔をしている息子をよそに話を続ける。この辺のことは、だいたいどこの家も同じだろう。この年になっても続いているのかは、別として。そのうちに、もう上がれよ、と匡が怒り始めた。ほら、これもいつものことだ。
「宏海ちゃん。この子にも良い縁談ないかしらね」
「えぇ、おばちゃん。まぁくんはそんなことしなくたって大丈夫だよ」
「そうかしらねぇ。何分この子……すぐ騙されるのよ」
「はいはい。煩いから二階行って。父さん待ってるよ」
「分かりましたよ。じゃあまたね、宏海ちゃん」
怪訝な顔を息子に見せて、ひらひらと手を振った彼女は自宅へ消えて行った。あっという間に去って行くところも、いつもの流れ。もう馴染のコントを見せられているかのようなものである。
「ほら、とりあえず飲め」
「うん。有難う」
今日はコーヒーの方が良かったな。そう思えど、決して口にはしない。大人しく出された甘いココアを飲み、フゥと息を吐いた。この甘さに微睡んだら、きっと心も甘えてしまう。今は苦くて、ビターな味に浸って、少し自分を立て直したかった。昔からそうだったから特に何も感じないけれど、暑くてもホットココア。きっと傍から見たら可笑しなものだろうな。少しだけ、フッと口元を緩めた。
「で? 何があった。どうせ、カナコのことだろう?」
「うん……でも、大したことじゃないんだ。ただ、カナちゃんが今男の人とご飯食べに行ってるの。だから家に一人でいられなくて」
「あ? それは、別にいいんじゃねぇの? だって、お前ら、そういう関係だろ?」
「そ……うだけど」
「面白くねぇんだろ」
匡と目が合ったけど、ヘラリと笑うことも出来なかった。剥れて、すぐに下を向いたのは、彼の言うとおりだったからだ。
面白くない。面白くなかった。昼にカナちゃんから電話が入って、同僚とご飯食べに行く、と言われた。そんな会話、分かった、と返せば終わりだった。なのに、百合ちゃんと? なんて聞いてしまったのだ。同僚と言われた時点で、気付けば良かったのに。「あぁ百合の部下の男の子なんだけど」と言われて、頭が真っ白になってしまった。僕らはそう言った事情には口を出さないけれど、互いに相手が出来た時はすっぱりと関係を解消しようと決めている。つまりは、カナちゃんに相手ができたのならば、この生活はすぐに終わるのだ。
「なぁ、宏海。お前結局は好きなんだろ? カナコのこと」
「そんなこと、ないよ」
「ほぉ。随分とまぁ尻すぼみだな。あの頃と同じ目してるぞ」
そう茶化す匡は、面白くなさそうにも見えた。本当は、カナちゃんのことをどう思っているのだろう。僕はずっと気になっている。
匡は昔、カナちゃんが好きだったはず。いつだって目で追っていたし、今も彼女と話す時は本当に嬉しそうだ。でも、それを彼に問うたことはない。もし口にしてしまって、匡が本気になってしまったら? そんなの、勝てるわけがない。バレないように溜息を吐いて、唇を尖らせながらココアを啜った。
「まぁくんはさ、いい出会いないの」
「あ? ねぇな。別に今のままで困ってもねぇし」
「そんなもんかねぇ……」
どうか、どこかで恋をしていて欲しかった。仮にそういう相手がいたって、匡はきっと僕には言わないだろう。だからこそ、数十年前の思いを抱えているんじゃないかと思ってしまう。僕とカナちゃんとの関係性は、匡あってこそだ。彼が彼女をここへ連れてこなかったら、僕は会ってさえいない。カナちゃんにとって、匡は友人。僕は、その友人の幼馴染でしかないのだ。だから、僕はずっと匡には敵わない。
「まぁくんにはさ、少し年下がいいよね」
「はぁ?」
「だって、こう甘えたいってよりも頼られたいでしょう?」
「あのな。俺達もう五十なわけ。仮にそういう出会いがあったとて、選り好みなんて出来ねぇし、するつもりもない。だからな、優しいお兄さんが教えてあげるな。宏海くんはまず、自分のことを何とかしなさい。お前……結局はカナコのこと、好きなんだろ?」
そう言って、匡は少し遠くへ目をやった。
何とかしなさい、と言われたって、僕にはどうすることも出来ない。カナちゃんは、そもそも僕よりも匡のことが好きだ。分かってる。いつだって匡を見る目は、想いが募っている瞳だった。今だって、あの頃と同じよう。それに打ち勝つ自信なんて、あるはずないじゃないか。
「僕……カナちゃんのこと、好きだよ。でもね、伝えるつもりはない」
「宏海。恥ずかしいのか何なのか知らねぇけど。カナコとちゃんと向き合ってみろよ。アイツの気持ちだって、変わるかもしれねぇだろ」
「そりゃそうだけど」
「あぁ……さては、お前フラレるのが怖いんだな」
そんなこと、と言いかけたが、言葉尻が消えた。怖いと言えば、怖い。今の生活が壊れてしまうのも。何より、カナちゃんが自分の手から離れていくことも。今は、生活全てを守りたいのだ。一ミリだって失いたくない。
「宏海、あのな」
「うん」
「お前、高校の時言えなかっただろ。カナコに」
「あぁ……うん」
「そのうちに会えなくなって、辛くなって、東京を離れた。で、戻ってきて数年で再会して、こんな生活が始まって……気持ちがぶり返すのは、しょうがねぇと思うんだよ。あんだけ好きだったんだから」
子供を宥めるような穏やかな声色で、匡がこちらに向き合う。それが尚、悔しかった。
いつでも僕の前を歩いていて、敵わない相手。大好きな初恋の人は彼ばかりを見ていた。匡と百合をくっつけたことは驚いたけれど、それでもカナちゃんの視線はずっと彼だけだった。今みたいに、カウンターの中にいた彼に。若かりし頃の、苦しい思い出。流石にもうあの頃よりはマシだけれど、思い出すだけで胸がチクリと痛んだ。
「俺がとやかく言うもんじゃないけどな。今の生活が、何もしないまま続いていくと思うなよ」
「え?」
「何もしないまま壊れることだってあるんだ。そうなりゃずっと、その後悔は消えないぞ」
あぁこれは、百合とのことを指しているのだろうと思った。カナちゃんが言い掛けたことがあった、あの話だろう。詳細は聞かなかったけれど、百合には三十になる子供がいる。つまりは、二十歳の時には生んでいたのだ。別の男の子を。匡が後悔しているならば、そのことだろうと思った。
「ふとした時に思い出して、後悔するなんて嫌だろ? その時にはもう手遅れなんだから。だからな、宏海。言いたいことは抱え込むな。時は選ばなきゃいけないだろうけど、きちんとカナコと話せ。アイツの答えは分かんねぇけど、ちゃんと考えてくれるだろうから」
な、と匡が僕の頭を撫でた。本当に、子供の頃のように。
彼の言う通りではあると思う。その意見に反論する気はない。だって実際、伝えられなかった初恋を延々と引きずっていたのは僕だ。だから、いつか伝えたい。伝えなくちゃと思ってる。けれど、それはまだ……きっと今じゃない。
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