第15話 分かってはいるけれど
「カナコさん、よろしくお願いします」
五十嵐くんは丸い指で、ずり落ちる眼鏡をクイッと持ち上げた。小さなテーブルで食事を挟んだ作戦会議。手頃なイタリアンに集合して四十五分経った。ようやくそれが始まろうとしている。
初めは、まるで面接に来たかのようだった。何度もハンカチを額に当て、流れてもいない汗を拭く。何を聞いても硬い言葉しか出ず、まずはモカ様の話をしながら、彼を解きほぐすことからスタートしたのである。そんなに緊張しなくともいいのに、と思ったが、彼にとったら私は第一関門なのだ。好きな人とお近づきになるには、私に認められなければいけない。そう感じているようだった。
「そう言えば、五十嵐くん。暁子を好きになったのって、もしかして百合とサンプル持ってきた時? まだ私が勤める前に」
「……そうです。初めは百合さんが話してましたし、俺はその後ろで、小柄な女性がやってる病院なんだなぁとか思ってたんです。そのうちに百合さんが、カナコさんをうちの会社に誘いましたよね」
「あぁそうだったね。百合に再会して、手隙の時間でいいからって頼まれた」
「はい。でもカナコさんは、初め躊躇っていたと思うんです。その時、暁子先生がケラケラ大きな口を開けて笑って、カナコさんの背を叩いた。大丈夫よ、カナコなら出来るわよ。楽しそうじゃないって。その笑顔が気になってしまって」
暁子は、童顔で可愛らしい顔をしている。色気とは縁遠いと本人は膨れるが、いつまでも少女のように笑えるのが私は羨ましいとさえ思う。私は、すぐに無表情になってしまうから。だからそこに惹かれるのは、同性の私でも心から理解できた。
「ん、もしかして……それでうちの病院に変えた?」
「……はい。前の病院は少し離れていて、ちょうど家と近かったのもあるんです。だから、そうモカにも説明をして、納得してもらって」
あ、納得してもらったんだ。とは流石に言えない。こういうところが、モカ様に傅いていると思ってしまう所以である。
「でも……何年と通っているのですが、多分、暁子先生は覚えてないですよね。モカの飼い主としては認識してもらえてるかもしれないですけど、百合さんと一緒に来た男だとは」
「ん、それくらいは覚えてるよ。暁子も」
「本当ですか」
「あ、うん」
それくらいのことで、キラキラした目を寄越されるとたじろいでしまう。お茶に手を伸ばし、その純粋な眼差しを若干和らげた。「覚えてもらってるんだ」と嬉しそうに呟く彼を、生暖かく見守る。こんな些細なことで、そんなにも心が弾むものだったか。遥か昔に忘れてしまった記憶が思い出せず、首をひねる。うぅん。そう唸った時、今度は突然五十嵐くんが顔を萎ませた。
「暁子先生に、この好意をお伝えしたらご迷惑でしょうか」
ボソボソと呟くような声だった。暁子に迷惑をかけたくない思いも当然あろうが、自信がない表れなのだろう。下を向き、身を硬くし、五十嵐くんはギュッと箸を握った。
「迷惑ってことは、ないと思うよ。でも急にね、好きですって言うのはハードルが高いでしょう? だから、仲良くなる段階を作らないといけないかもね」
「仲良く……」
「そうねぇ。何かしら理由を付けて飲みに誘うとか。仕事を交えてみるとか。偶然の遭遇を装うとか。そんなところかしらね。でも仕事を絡めようとすると、もう少し協力者が必要かしら、百合とか」
「えぇと……部長の手を煩わせるのは気が引けます」
そりゃそうだ。どうもこういう感情から離れて久しく、思いつく案もチープである。こういう時は、どうするのがいいんだっけ。
「俺の家、病院の近くなんです。だからその、カナコさんたちが仕事上がりに飲むことがあれば、行けると思います。自然に合流出来るようにすればいいんですよね。頑張ります」
「うん、そうだね。でも、自然にって難しくない?」
例えば、五十嵐くんが飲んでいる店に私たちが行って、あらぁこんにちは、みたいなことをする。逆に、私たちが飲んでいるところに五十嵐くんが来て、仕事上がりですか、とかって合流する。自分がやることを想像してみるが、どちらにしても上手く出来る気はしない。
「それは大丈夫です。俺、実は演劇部だったんですよ。なので、多分やれます」
「えぇ、意外」
「そうです? でも運動してるようにも見えないでしょう」
「あぁ……それは確かに」
「ちょっと、否定してくださいよ」
「おお、ごめん。ごめん」
料理に手を伸ばし、ホクホクと食べ始めた五十嵐くん。私もようやくホッとして、フゥと息を吐いた。
力になれるか分からないが、頼ってくれたことは正直嬉しかった。彼は人間的にはいい人だから、暁子が毛嫌いすることはない。嫌な飼い主だったならば、その日のうちに、私に愚痴が飛んで来るもの。成功を期待している訳じゃない。ただ一先ずは、飲み友達くらいになれるといいなと思っている。
「じゃあ、あまり先延ばしにしても良くないからさ。週末、暁子を誘ってみようかな。焼き鳥食べたいとかって」
「はい。お願いできますか」
「うん。とりあえず、早めに誘ってみるよ。夫がその日いないから、飲みに行こうよとかって」
「すみません。旦那さんは大丈夫ですか」
「うん。問題ないよ。早めにご飯はいらないよって言っておけばいいし」
「そうなんだぁ。素敵な旦那さんですね」
「あぁ……うん。そうだね。ありがとう」
急にそう言われて動揺した私と違って、五十嵐くんの表情は明るかった。さっきよりもずっと、先が見えたのだろう。小さなことを期待して、ウキウキし出している五十嵐くん。それを見ていると、恋って凄く良いものなんだなぁって思う。相手のちょっとしたことで浮き沈みしたり、その思いを成就させるためにあれこれ考えたり。実らなければ意味がないなんて言う人もあるかもしれないが、こんなにも心が豊かに動く。それが恋というものの醍醐味だと思うのだ。
ならば、私がここ数日悩んでいることはどうだろう。それに近いのだろうか。
「カナコさんに思い切って相談して良かったです」
「いや、まだ何も始まってないからね」
「そうなんですけど。皆にカナコさんに相談してみろって、ずっと言われてて」
「皆?」
「あ、はい。うちの課の若いのが、背を押してくれまして」
「若いの……あぁ、なるほど」
恐らくそれは、昼に五十嵐くんの話を聞いていた時、視界の端に映った子たちだろう。何だかソワソワと見守っている様子ではあったが、まさか相談していたとは。普通、プライベートな相談を部下にはしないと思っていたが……違うのか。いや、それもこれも、五十嵐くんの人柄なのだろう。
「ふふ、恋って良いわね。そうやって皆に相談して、励まされたり。背を押して貰ったり。それにドキドキして、色んな感情が湧いて」
「そうですね。お恥ずかしながら、この年まであまり恋愛というのをしてこなかったので……本当にどうしたら良いのか分からなくて。頼れるもの全て頼りました」
「きっと五十嵐くんのこと、皆好きなのよ。頼りにしてるし、頼られたら助けてあげたい。そう思ってるんじゃないかな。ふふ、いい関係ね」
「そうですかね……そうだといいなぁ。そういう関係を暁子先生とも作れたらいいんですけど」
「まぁそこは焦らずにいこう」
はい、と応える五十嵐くんは、少し鼻を膨らませている。暁子と仲良くなることに、今からやる気を出しているようだ。空回りしないと良いけれど。
「久しぶりに恋をして数年経ちましたけど、憧れはカナコさんのご夫婦なんですよね。各々が自立していて、助け合っているように見えて。大人の関係で、旦那さんはきっと幸せなんだろうなって思うんです。それに、あんなに綺麗な弁当を奥さんに作って、すごい愛だなぁって」
「愛、か。それは、どうだろうね」
「愛ですよ。それにカナコさんも、凄く旦那さんのこと大事にされてますもんね。いつも幸せそうに弁当を突いてるの見ますから。愛だなぁって」
「幸せそう?」
「え? 凄く嬉しそうに弁当箱を覗き込んでるの、よく見ますよ。ほらうちの関根もよく言ってます。幸せそうでいいなぁって」
幸せそう? 今日の弁当はなんだろうな、とは思っているけれど。まさか、それがそういう風に見えているなんて思いもしなかった。かなり恥ずかしい。これから気を付けなくちゃ。
「だから、あぁお互いに愛し合ってるんだなって、俺たちいつも思ってますよ。好きな人と結婚できるって幸せなんだって」
五十嵐くんの言葉にぎょっとした。好きな人だって?
私の中に、宏海を好きだという感情はない。彼に弁当だって作ってくれるし、そもそもこんな可笑しな生活も文句も言わず付き合ってくれる。それには感謝しかないが、恋愛的な意味があるのかと言われると首を傾げざるを得ない。ずっとそう思ってきたし、今もそう感じてはいる。
でも、でも……確かにそう断言するには違和感がある。ここ数日悩んでいた感情。それが何なのか、本当はもう見えている。ただ、認めたくないのだ。だって認めてしまったら、絶対にこの生活は終わってしまう。小さな幸せをかき集めるような毎日が、自分のせいで終わってしまう。臆病になってしまった私は、そうなるのが正直嫌で、怖い。だから、今は必死にそれから目を逸らしている。分かっている、分かってはいるけれど。
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