第14話 心の上澄み
あれから数日。私の心は、ずっと自身に問いかけている。あの感情は何だったのか。私が知っているものであるのか。いや、そんなはずがない。そんなことを堂々巡りしていた。
「カナコさん。まだお仕事中ですか」
「はい、何でしょう」
「すみません。ちょっと確認したいことがあって……」
会社の自席で、昼前に確認したい書類とにらめっこしているところだった。もうすっかりお友達にな老眼鏡を外し、声を掛けてきた人物に向き合う。この声は、五十嵐渉。週末、愛猫モカ様を病院に連れて来たので、まぁ数日ぶりである。
ちなみに私と暁子は、彼の愛猫をモカ様と裏で呼んでいる。綺麗、というよりも、美しく気高い。彼女はそんな風に感じさせる気品があるのだ。素直に診察はさせてくれるし、投薬も嫌がらない。そんな子は珍しいわけでもないが、何と言うか振る舞いがお嬢様なのである。そして、そう呼んでしまう原因はこの男にもあった。五十嵐くんがしきりに心配している様子が、お嬢様と執事のように見えてしまうのだ。もしかすると、モカ様のせいというよりも、五十嵐くんが愛猫にヘコヘコし過ぎるせいかもしれない。
「モカちゃん、どう?」
「少しずつ食べるようにはなってくれました」
「良かったねぇ。お薬も嫌がらないだろうから、気にし過ぎないことね」
「はい。ありがとうございます。それで、トリーツの件なんですけど……お、お時間大丈夫ですか」
「はいはい。大丈夫よ」
勢いよく頭を下げた五十嵐くん。何やら深刻そうである。カメオカとの交渉は悪くないと百合が言っていたし、それ以外の大きな厄介事があるとも聞こえてこない。何があったのかは知らぬが、五十嵐くんの顔が強張っているのが気にかかった。
「この新しいトリーツは、どういう感じで販売するイメージですか」
「これはねぇ、症状別がいいかなと思ってるの。えぇと……こんな感じの分類で検討してるけれど、どうかしら」
新しいトリーツは、病気やアレルギーを持っている子に向けて開発している。書類を差し出し、彼はフムフム言いながらそれを見た。だが、やはり違和感を覚える。何だろうな。心ここに在らず、というような様である。何があった? と小声で問えば、五十嵐くんはハッとするもモゴモゴと言い淀んだ。何か、はあるようだ。
「症状別に売った方が、飼い主さんも気が楽だと思うの。おやつはあげたいけれど、身体のことが気になる。当然、長生きして欲しいしね。モカちゃんのことを思うと、そうじゃない?」
そう話しながら、手元の付箋に『場所変える?』と書き留めた。五十嵐くんがこんな顔をしているのは珍しいから、流石に心配になったのだ。余計なお世話だろうか。そう思ったが、呼吸を整えるように間を空けた五十嵐くんは頷く。そして、私をカフェスペースへ誘った。眼前の書類を手に取り、彼の後に続く。狭い研究開発室では、小声で話しても皆に聞こえてしまうだろう。何を話したいのかは知らぬが、あの様子では延々と言い出せない可能性すらある。それでは、昼休憩が減ってしまうし、互いに不毛な時間でしかない。空いている席に座り向き合うと、五十嵐くんは早々に大きな溜息を吐いた。
「お気遣いいただいで、すみません。ありがとうございます。あの、実は……カナコさんに相談があるんです」
「ほぉ。なんだろう。仕事、ではなさそうだね」
「はい、あの……その」
相談したいと言うくせに、モジモジするな。このくらいで苛立ちはしないが、その様子に心配になった。四十にもなるというのに、こんな様子で大丈夫だろうか。彼とは仕事で直接はあまり関わらないが、百合を交えていることが話すことが多いから、他の人よりも親近感はある。それに病院に通ってくれる飼い主さんでもあるのだから、プライベートも多少は知っていると言ってもいいか。あぁでも、彼が結婚しているとかそういう話は聞いたことがないな。そんなことが話題に上がることもないし、深く問うのも失礼だ。指輪は特にしていない。まぁ、そもそもしない夫婦もあろう。でも勝手に、彼はいいパパしていそうだなと思った。
「あの俺……あ、いや私……」
「どっちでもいいよ、別に」
「あ、はい。えっと、その……」
またモジモジと下を向いてしまった。急かしても良くなかろうと視線を外すと、彼の後輩数名がチラチラとこちらを見ている。彼らもソワソワしていているように見えるのは、一体何だ。
「大丈夫? 後にしようか?」
「いや、ちょっ……ちょっと待ってください。えぇと」
五十嵐くんはペンを取り、さっき私が書いた付箋にカリカリと書き込み始めた。彼の頭をぼぉっと眺める。結構白髪があったんだなぁ。十年前の私はどうだったっけ。そうやって意識をよそに向けていた時、スッと書類が差し出される。目をやったのは、私の書いた文字の下に彼が書き込んだ付箋。それを見て数秒、時が止まった気がした。
「え、ええっ」
結構間を空けたくせに、チープな驚きの声しか出てこなかった。隣のテーブルの人の視線が痛い。ふぅと息を吐き出して、呼吸を整える。そして本当に小さな声で「本気ね?」とだけ問うた。
「本気です。それで、カナコさんに相談に乗っていただければ、と思いまして……厚かましいお願いかとは思うのですが」
「いやいや、そんなこと気にしないで。えぇと……そうだな、今夜は忙しい?」
「いえ、時間作ります」
「分かった。じゃあ、仕事終わったら、ご飯食べながら話しようか」
「はい、ありがとうとざいます」
そう言った青年は、表情を一変させた。よほど安心したのだろう。何度も頭を下げながら、彼は嬉しそうな顔をして消えていった。それを見届け、私も慌てて席を立つ。急がねばヨーグルトが売り切れるし、弁当を食べる時間が減る。あぁそれから、宏海にも連絡しないとな。手元に残された付箋。そこに書かれた角張った文字をまた見て、少しニヤついた。
『暁子先生のことが好きです』
たったそれだけの文字から、彼の心情が見え隠れする。いつもはもう少し丸みのある文字を書いていたと思ったが。何だか片思いの緊張が、表れているようだ。誰かのこんな感情に触れるのも久しく、応援したくなってしまうな。当然、親友である暁子の気持ちが一番ではあるが。
「人のこと助けてる場合なのかな……」
そっと、自分の内に向けて呟いた。
あの日、匡の話ばかりで面白くないと思ったのは、事実だ。そして今、薄っすらと輪郭を捉えつつある感情。でも、まだそれはふわふわとしていて。五十嵐くんのように、誰かに零すことも出来ない。きっと私は、この心の上澄みのような感情を誰にも触れられたくないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます