第12話 そういう好きも、あってもいい
「暁子、モカ様のカルテ見ておいて」
「はぁい。どうした? 今日来てないよね」
「あ、うん。でも最近食欲が落ちてるらしくて。五十嵐くんが気にしてたから。週末にでも来るかなって」
「あぁそういうこと。分かった」
閉院作業後の暁子とするカルテ確認。互いの患者のすり合わせみたいなものだ。パートの子たちもいるけれど、常勤は私達だけ。だから常に、情報を共有するようにして来た。彼女の父、前院長の名残かもしれないが。今は電子カルテになっていて、タブレットやパソコンで済むようになった。体力的には有り難いが、まぁ目は疲れる。
「ん。あ、百合か」
「どした? 急用?」
「ううん。今度、他社との親睦会があるから出て欲しいって」
「へぇ。親睦会」
「そう。ペットフードを取り扱ってくれる会社でね。この間、話を詰めるって言ってたけど、それが上手くいったんじゃないかな。はい、どうぞ」
「ありがと」
コーヒーの入ったマグカップを彼女のデスクに置く。休憩室にあるホットコーヒー。片付けついでに、いつもこうして二人で飲む。もう煮詰まって、美味しくはない。でも、それを親友と飲むこの時間は、嫌いじゃなかった。
「カナコは終わった?」
「あぁ、うん。夕方、結構時間取れたからね」
「そっか。先帰る?」
「何言ってんの。いますよ。片付けもまだだし」
「そう?」
ありがとね、と暁子が言った。いつもの疲れている顔だった。最近は茉莉花も家事を手伝ってくれると言っていたけれど、その時の言い方からして、暁子はそれを良しとしていない。大学生にもなれば一人暮らしの子も沢山いるが、そういう苦労を出来るだけさせたくないようなのだ。茉莉花は、「料理も洗濯も当たり前に出来るし、ママを助けた いのに」と口を尖らすが、なかなか噛み合わない。暁子はいつも、父親のいない不憫さを娘に掛けるまいと踏ん張ってしまうのだ。私はそれが、どうにももどかしい。あぁ、暁子にも寄り掛かれる肩があればいいのに。勝手だけれど、そう思ってしまう。
「ねぇ、暁子」
「ん、なに」
片付けをしながら、それとなく問いかける。真面目な話をしようってわけじゃない。これはただ、単に女同士の密談。だから、彼女の方は見ないまま。
「単純に疑問なんだけど。暁子はもう結婚しないの?」
「は? もうって何よ。私は未婚。戸籍は綺麗なもんですよ」
「いや、そうなんだけど。結婚する気は、もう湧かないのかって話」
「えぇ……結婚? 今更してもねぇ。茉莉花は可愛らしく、いい子に育ったし。本当に今更、男とかいる?」
うぅん。思わず顎を揉んだ。
今更必要なのか、と問われれば否だ。だって、今の今まで女手一つ、立派に生活しているし。私はたまたま宏海と意気投合して生活を共にしているが、そうでなかったら同じように思っている。
「いらない、かも」
「でしょう?」
「うん。でもさ、いい人がいたら恋をするかもしれないよね」
「まぁそうかもしれないけど……って何なのよ。急に」
「いや、特に何でもないんだけど。もしも茉莉花がここを出てしまったら、淋しくなるなぁって思って」
それは本心だった。というか、茉莉花も心配している。自分の好きなことをやりなさい。ママはそう言ってくれるけれど、もしも一人になったら大丈夫なんだろうか。最近会えば、いつもそう零しているから。
「あぁ、確かに。あの子がやりたいことね。多分、海外なのよ。だからカナコに言うんでしょう。ママは大丈夫かって」
「あ、知ってたのか」
「知ってるわよ。あの子、心配性なのよね。誰に似たんだか知らないけど」
「いや、暁子でしょう。いつだって心配してたじゃない。学校は楽しいのか。授業は何やってるの。お友達とは仲良くやってるか。宿題したか。忘れ物ないかって」
「そっか……私か」
「ちゃんと母を見てるわよ、あの子は」
大きくなったわね、と暁子の背をポンと叩く。眉を八の字にしてこちらを見た彼女から、肩の力が少し抜けた。
「ねぇカナコ。じゃあ、聞いても良い?」
「何なりと。お答えできる範囲ならば」
「あのさ。そもそもだけれど、今更どうやって恋ってするの。というか、どう出会うの」
「え……それを私に聞く」
「しかないじゃない。アプリとか使うの? それももう、おばさんだから駄目なんじゃない?」
二人共黙り込んだ。私だって、そんなの分からない。
「カナコは本当に良かったわよねぇ。宏海くんと再会して」
「いや、でも事実婚って形はしてたって、そういう関係じゃないし」
「でも、好きでしょう」
「いや……そういう、わけではないんじゃないかな」
「あ、変な間を空けたわね」
一気に気まずくなった。茉莉花が心配するから、暁子の今後の話をしようと思ったのに。結局、ブーメラン。触れられたくないような、笑い飛ばしたいような、微妙な感情が踊っている。
「好き、とまではいってなくたってさ。幸せだなぁとは思うわけでしょ」
「あぁ……まぁね。仕事から帰ったら、温かいご飯がすぐに出てくるんだよ? 幸せでしょうよ。お弁当だって作ってくれるし」
「うん、そうよね。セックス出来る相手かどうかってのは、もうどうだっていいけど。今の生活は宏海くんじゃないと、他の人じゃ駄目なんじゃない?」
核心を突かれた気がした。そうなのだ。彼女の言う通り、この幸せは宏海だから成り立っている。彼の優しさと穏やかさ。それが疲れた心を癒やしてくれている。例えば、匡では駄目だっただろう。絶対に毎日喧嘩する。どうして片付けないんだ。弁当箱出せ。そう怒り狂う匡が思い浮かぶのだ。
「カナコ。そういう好きも、あっていいと思うよ」
分からず屋を諭すかような顔をして、暁子が笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます