第11話 唇を噛んだ

「夕べのカナちゃん、おかしかったなぁ……どうしたんだろ」


 アトリエの作業机に座って、僕――中川宏海は首を傾げる。卵焼きのことを話した時、カナちゃんが顔を顰めたのが分かった。声を掛けたけれど、何も返って来ない。僕はただ、黙り込んだ彼女を見守ることしか出来なかった。卵焼きのことは何も分からないが、あんな顔をされると全てに不安になる。もしかして、カナちゃんもこの生活を後悔しているのではないか――


「中川さん、こんにちはー」


 古ぼけたインターホンの音が鳴り、聞こえてくる声にハッとする。慌てて玄関の扉を開ければ、ムキムキの池内が今日も満面な笑みを浮かべて立っていた。


「いらっしゃい。暑かったでしょう。入って」


 そう誘えば、彼の後ろから、ひょこっと線の細い佐々木ささきも顔を出した。彼はまだ二十代半ばくらいの、若い男の子。雑な池内をさり気なくフォローするような、冷静で気配りが出来る子だと僕は思っている。


「コーヒー入れるから座って」


 ソファーを勧めて、冷蔵庫からコーヒーのディキャンタを出す。こう暑い時期は、いつも作っておくものだ。豆は、匡の家のアイスコーヒー用のブレンド。気に入って毎年買っているのに、僕は何故かあの店でコーヒーを飲んだことがない。

 自分の分も入れ直し、グラスを三つトレーに乗せた。時折、カラカラ氷が鳴る。その透明な音もまた、涼しさを醸す一つだ。


「どうぞ。勝手にコーヒーにしちゃったけど、良かったかな」


 佐々木に向けて言った。彼のことを、まだ僕は掴み切れていない。いい子だし、長い関係になればいいなと思うけれど、最近の子はちょっと分からなくて、おっかなびっくり接している部分がまだあった。


「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

「中川さん家のこれ、美味しいんだよ。俺、いつもごくごく飲んじゃって」

「ふふ、良かった。幼馴染の家の喫茶店のブレンドでね。気に入ってるんだ」


 池内はもう、ゴクッと喉を鳴らしながら美味そうに飲んでいた。いつものことだけれど、そう褒めてもらうと嬉しくなる。少しだけ表情を緩めて、僕も手を伸ばす。ホットとは違う苦味。ブラックのまま、キリリと冷えた味を楽しむのが好きだ。


「ふぅ。と、言うわけで中川さん」

「うん、どういうわけだろう」

「今度の新作なんですけど」


 思春期の学生のようにキラッと歯を見せながら笑う池内。いつもこうやって、彼の不思議な言い回しで打ち合わせが始まっていく。

 彼はとにかく、他者の懐に入るのが上手い。初めて彼に会ったのは十年も前のことだけれど、今でも思い出す。初めて付いた担当者というものに緊張した僕に、彼はこうやってスッとそれを解してくれた。それから二人三脚。友人のようにあれこれ相談をしながら商品化してきた。その池内が少し偉くなってしまったから、佐々木が担当に入ったのは最近のことだった。


「贈り物にもしやすい感じでってことで、ちょっと考えてみたんだけどね。こうコロンとした形のポーチとか、どうだろう」


 幾つかのデッサンを彼らに提示する。最も緊張する時だ。今回提示するのは、三つのポーチ。バニティ型、柔らかめのぷっくりとしたがま口、それから丸みを帯びたシェル型だ。カナちゃんはシェル型の小さめなのがいいかな、と密かに思っている。気に入ってくれるといいなぁ。毎回そう思って作るのだけれど、いつも使ってくれている鞄以外は、まだ受け取ってもらえていない。


「あ、そうだ。前にね、義母にこういうポシェットが欲しいって言われたんだよね。えぇと、こういうの」


 以前カナちゃんの実家へ行った時に、言われたのだ。鞄は小さい方が良いけれど、ポケットが沢山欲しい。手に持っていると色々不安だからポシェットとかないかしら、と。


「ポシェットっすか」

「そうなの。このご時世、手に持っているのも不安だし。斜めに掛けてしまうのが一番安心だからって」

「あぁそれは確かに」

「で、義母曰く、荷物が多いみたいでね。出先であれこれ必要になった時のためらしいんだけど。子育ての名残とかなのかなぁ。百円ショップみたいなのもなかったし。少しずつ持ち歩く癖みたいなのが付いてるらしいの。だから、ポケットとかも多いと嬉しいって」


 なるほど、と佐々木が顎を揉む。「携帯がありゃ良いって話じゃないんですね」と続いたが、いまいちピンときていない様子だ。池内の方は楽しそうに、携帯で画像検索を始めた。


「で、その話を聞いて思ったんだけど。これとは別になるんだけど、ポケットが沢山ついてるシリーズってどうかな。ポケットの革の種類変えれば、そんなに高くはならないはず。例えば、こういう」


 ササッと手を動かした。大体が義母に熱弁されたままの受け売り。でも、カナちゃんならこういうのが似合うな、なんて考えていたりもする。


「あ、それならリュックも良いかもしれないですね」


 佐々木はそう言うと、手元にある資料の片隅にササッと絵を描いて見せた。思わず、へぇ、なんて感嘆の声を上げる。それはポイントを掴んでいて、とても分かり易い絵だ。それから池内も案を出し、どんどんブラッシュアップされていく。

 僕は、こういう作業が好きだ。自分ひとり考え続けていくよりも、イメージが具現化され、頭の中まで整っていく気がするから。今までは、僕のデッサンに池内がポイントを文字で朱入れしたり、意見を言うような形だった。だから佐々木のようなやり方に触れるのは新しくて、何か良い物が出来そうでワクワクするな。


「ありがとう。もう少し、練ってみるよ。佐々木くんの説明も分かり易くて助かりました。絵も上手なんだね」

「いえ、ありがとうございます」

「そうなんですよ。羨ましいから、俺も練習したんですけどね。ダメでした」


 池内は、きっといい先輩なのだろうな。後輩である佐々木が褒められれば、自分のことのように喜んでいるし、聞けばきちんと評価している。会社という箱の中の立ち位置は分からないが、弟でも愛でているかのような様子だ。微笑ましいものである。


「それが、佐々木は絵だけじゃなくって勉強家なんですよ。この間一緒に行った会社も、佐々木が熱心にプレゼンしてゲットしたんです。情報をしっかり予習してて、俺の方が助けられてますねぇ、今や」

「へぇ、凄い」

「いや……たまたま好きだったんですよ。そういう話が」

「そういう話?」

「あぁその会社、ペットフードなんかを扱ってて、営業の方と動物の話になるんですよ。でも俺は、動物とかよく知らなくて。犬猫が関の山。うさぎとか分かるけど、生態なんてとんでもない。そうしたら、佐々木は本当によく知ってて。うさぎだと匂いがきついのもダメですよね、とか言うから感心しちゃいました」

「へぇ。そうなんだ」


その場面が、まざまざと思い浮かんで頬が緩んだ。


「あ、ペットフード……って、もしかしてタケナカ牧場?」

「そうです、そうです。知ってます?」

「いや、妻が働いてるんだよ。ちょうど夕べ、話題に上がったところだったんだ。カメオカって知ってるかって。そうか、池内くんたちだったんだ。へぇ」


 昨夜の食卓が思い浮かぶ。彼女は営業ではないから、直接彼らには会ってないのだろう。でも、世間は狭いものだな。


「奥さんって……確かえぇと、獣医さんでしたよね。動物病院とかで働いてるのかと思ってましたけど、違うんですね」

「あぁ、どっちもやってるの。見聞を広げたいんだって。昔から、頑張り屋さんだから。あの人」

「あ、惚気っすか」

「ち……がいます」


 池内が嬉々とした顔でこちらを見た。違うからね、と念を押したが、まだニヤ付いているのが気に入らない。でも、こんな風に誰かに彼女のことを話すことがないから、僕は不思議な感覚を得ている。惚気、か。何だかその言葉に焦って、コーヒーに手を伸ばし心を落ち着けようと試みた。小さくフゥと息を吐いた時、佐々木が不思議そうな視線を寄越した。 


「どうしたの?」

「あ、いや……ご結婚されていたって知らなくて」

「あぁ。そうだよね。ここはアトリエだからね。生活をしている場所はここじゃないんだ。それに籍も入れてはないし」


 このアトリエを得たのは、偶然だった。元々ここは、叔父が住んでいた家だ。子供のいない夫婦で、二人仲良く暮らしていたのだが、妻が先立ち、追うように叔父も逝ってしまった。そうして残ったこの家を、甥である僕が相続したのである。唯一の肉親であった母は、すぐに売るのも更地にするのも忍びないと決めかねていて、その話をした時は久しぶりに褒められたものだ。ちなみにカナちゃんは、まだここに来たことがない。彼女の実家は偶然にもすぐそこにあるのだが。


「佐々木、まだ新婚さんなんだぞ」

「あ、そうなんですか」

「えぇと、まぁ。昔からの友人ではあるんだけれど」


 カナちゃんのことは、普通にとして素直に話をするようにしている。籍入れていないけれど、表向きは彼女は妻である。変な誤魔化しを入れようとすると、絶対にいつか綻びが出てしまう気がするし。取り繕わなければならない相手は、今のところ僕にはいない。


「そうだ。今度、あちらの会社と親睦会があるんですよね。奥さんいらっしゃるかな。お会いできたら、ご挨拶させてもらいますね」

「あぁ、話しておくよ。多分、そのトリーツ関係の開発の方だよ。獣医の中野って言えば通じるんじゃない?」

「中野さんですね。了解です」


 池内は携帯にメモを打ち込み、佐々木はそれを覗き込む。そして僕は、ちょっと照れくさかった。

 カナちゃんを妻として他人に紹介するのは、あまり慣れていない。池内には、彼女と同居することになった、とまでは話したけれど。佐々木は彼ほど打ち解けていないせいか、緊張も相まって、ニヤニヤしそうになる唇を噛んだ。

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