第8話 私を救ってくれる

「お疲れって、あんた。何て顔してんの」

「あぁ百合。お疲れ様」

「まったく、宏海と喧嘩でもした?」


 今日は水曜日。タケナカの出勤日だ。社員食堂でボォっとしていたら、百合に背中を叩かれた。容赦ないのが二人の関係。するわけないじゃん、とムスッとして、あぁいつぞやの宏海と同じだなと思った。

 あの日、宏海に馬鹿な提案をした私。呆れられて終わると思った。でも、宏海は「一週間考えさせて」と願い出て、ヘラヘラっと返事をしたんだっけ。連絡先を交換して、約束通り一週間後に再会した私たち。そうして第一声、彼は言ったのだ。カナちゃん結婚しよう、と。


「宏海が怒るわけないしね。喧嘩したとしても、カナコの一人相撲でしょ」

「まぁそうかもしれないけど」

「それに、いつもの愛情たっぷりのお弁当見れば分かるわよ。今日は何?」

「んー、アジフライとかぼちゃ」

「しかし、キレイに作るわよね。うちの子なんて、こんなキレイな弁当を持たされたことないわよ」

「もう作らないでしょ?」

「作るわけないじゃない。三十よ、三十。時々は帰ってくるけど。立派なおじさんになったわよ」

「うわぁ……」


 彼女もまたシングルである。短大を卒業する時、急に子供が出来たから結婚すると言い出した百合。その時、私の脳裏に浮かんだのは匡の顔だった。だって、二人はまだ付き合っていると思っていたから。だけれど結果は、あの時代の悲しいすれ違いだった。調理師として就職し必死だった匡と、自然消滅したと思い込んでいた百合。今みたいに気軽に連絡が取れていれば、結果は違ったかもしれない。あの頃はポケベルだったか、PHSだったか。そのくらいの時代だ。真面目な匡は遅い時間に連絡出来ず、彼の邪魔をしたくない百合はただ待つだけだった。放って置かれていると思ったのだろう。その頃私も勉強に忙しくて、彼女の話を聞く時間がなかった。それも良くなかったのだ。友人たちに相談も出来ず、百合は他の人へ嫁いでいった。

 その時の子が、もう三十歳か。時が経つのは本当に早いものだ。


「私たちも年を取るはずよね」

「ほんと。五十なんて遠い遠い未来だと思ってたのに」


 やれやれだ。今一緒に仕事をしていても、ちょっとしたことで昔話になってしまう。学生時代、仲の良かった百合。でも、彼女が結婚してしまってからは疎遠になっていた。夫の実家に移住した百合と実習やレポートで忙しかった私。手紙は書いたし、メールも送っていたけれど。少しずつ会えなくなって、連絡も徐々に減っていったんだ。


「まぁ、何があったか知らないけれど、宏海と喧嘩したなら早く謝るんだよ」

「だから、してないし。それで、なんで私が謝る方なのよ」

「だって、宏海よ? まカナコが吹っ掛けたって言うなら分かるけど。だって、あの子、怒ったことないでしょ。私、見たことないよ」

「うぅん……確かに」


 彼女の言う通り、宏海は怒らない。どういう思考回路になっているのだろうと不思議に思ってしまうくらい、彼はいつも穏やかに微笑んでいる。多分、腹の中では苛立ったりするのだろうし、それを表に出さないだけなのだろうとは思うが。すぐにカッとなってしまう私にしてみたら、神様のような性格である。抱え込んだりしてないかと問うてみても、彼は笑って首を横に振るだけ。苛立ったことなんかは話してはくれるけれど、その熱量が私とは比べ物にならない。


「こっちは更年期も重なってイライラしてるけどね。百合の想像通り、宏海は穏やかに過ごしてるわよ」

「毎日、愛夫弁当作ってね。晩ご飯も作って待ってる、と。完璧な主夫ね」

「本当。まぁでも、掃除と洗濯は私がするし。ちゃんと分担はしてるのよ?」

「あぁ確かにそういうのは、カナコの方が得意かもね」


 我が家は得意なものは得意な方がやる、ということで分担されている。話し合って決めたわけでもないが、何となく自然とそうなった。得手不得手が全く被らなかったのが大きいだろう。特に料理が壊滅的に苦手な私としては、とても有難く感じている。


「部長、カナコさん。お疲れ様です」


 料理が出来るっていいわね、なんてしみじみと話していた私たちに、可愛らしい声がかかった。まだ若い営業部の女の子――関根せきね凜花りんかだった。日替わりランチのプレートを持った彼女は、私の隣の席に座る。こんな清純な時代、私にいつあっただろう。毎回そう思わせてくれる子である。


「わぁ、カナコさんのお弁当、今日も凄いですねぇ」

「そう、ね」

「こら、関根さん。そうやって他人の弁当覗かないの」

「あ、すみません。つい……でも部長も見ちゃいません? カナコさんの旦那さんって凄いなぁって」

「まぁ……そうよね」

「ですよね」


 一応指摘はしたものの、つい数分前に百合も確かに私の弁当を覗いていた。その手前、あまり強くは言えないのが面白い。百合も私と同様、大して料理が出来ない。だから、宏海は凄いわねぇ、と毎回言ってくるのだ。だもの、やっぱり彼女を強くは言えない。


「そうだ、カナコ」

「ん」

「新しいトリーツのラインナップってどうなった?」

「あぁ。ウサギちゃんのがそろそろって感じ。サンプルは出来てるよ」

「ほんと? 午後、ちょっと借りてもいいかな」

「いいけど」


 トリーツ、というのは、ペットのご褒美のこと。よく出来たね、と褒めつつ与えるもの。それを目指して作っているおやつが、この会社で言うトリーツである。ドッグフードの売上も定着したことから、少し前に始めた物だ。犬猫用をまず先に作り、次にウサギ用を作っている。それもそろそろ販売間近。パッケージやそういった他部署の仕事がまだ残るが、研究開発部の手はもう離れている。


「あ、部長。午後ってあれですか」

「そうなのよ。だから、一応並べてみようかなって」


 営業部の二人は、で通じている。何のことか分からぬ私は、僅かに首を傾げて、まぁいっかと卵焼きに手を伸ばした。今日は少し甘めのようだ。


「少し前にね。ペットフードを扱わせて欲しいって話が来て。今詰めてるのよ」

「あ、そうなんだ」

「うん。互いの会社の方向性も似てるし、悪くない話なの。午後からまたいらっしゃるからフードとトリーツと提示してみようかなって」

「へぇ。パッケージはまだだけどいいかな」

「うん。いい、いい。食べ終えたら取りに行くわ」


 自分たちが作ったものが、こうして色んな人の手に渡る。それは獣医では味わえなかったことだ。この年になっても、ちょっとだけワクワクする。


「部長、部長。あの人……来ますかね」

「ん? あぁ。来るんじゃない? でも余計なことは駄目よ。仕事だからね」

「分かってますよ。何かこう、目の保養的な感じですってば」

「目の保養……?」

「あぁカナコ、あのね。関根さんが言っているのは、あちらの営業の人の話なの。まだ若いのにしっかりしててね。で、見目も良いから、若い女の子たちがやる気を出しているというわけよ」

「へぇ……」


 自分にはなかったな。仕事相手がそういう人だと、やる気が出るのか。飼い主がいくらカッコ良かったとしても、ときめいたこともない。モテそうだな、と思う程度である。でも今思えば、そうやって出会って、結婚したりするんだよな。すっかり忘れてしまっていた。

 

「何か分かんないけど、頑張ってね」


 ニコニコ、嬉しそうな関根さんを見て、可愛らしいものだと思う。でも、浮かれる様子の彼女を見て、百合は「仕事だということは忘れずに」と釘を刺す。あぁ上司っぽい、なんて一人思った。

 私にも、あんな時代があったろうか。今更思い出したとしても、高揚するような感情はもうない。宏海のことは……考えないでおこう。仕事が楽しいのなら、まぁいい。二人のやり取りに表情を緩めて、唯一ここで買うヨーグルトの蓋を開けた。


「そう言えばカナコ、それ好きねぇ」

「ん? あぁこれ? 美味しいのよ。でもスーパーに売ってないんだよねぇ」

「これ結構評判いいだけどね。地方限定っていうか、あまり大っぴらに出してないんだよね」

「うん、まぁ……そうだろうね」

「ん?」


 私はこれを作っている人を知っている。忌々しい岩手時代の、唯一優しかった牧場だから。それは百合にも言わないが、これをここで見かけてから、これだけは毎回買うようにしている。勝手な感謝のような、あの人達の優しさを思い出すような、そんな代物だった。


「私を救ってくれる、のよね」


 誰にも聞かれないくらいに、小さく、小さく呟いた。

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