第7話 愛なんていらない
「本当にびっくりしたよ。どう見てもカナちゃんだよなって」
「いや、よく気付いたね。もう三十年以上経ってるでしょ」
「そうかも知れないけどさ。分かるよ。それに昔から優しかったもんね」
「そう、でもないんじゃない?」
酒を片手に、懐かしい人との再会を喜んでいる。
中川宏海。匡の実家の喫茶店によく来ていた彼は、私たちにとって可愛らしい弟のようなものだった。勉強の分からないところは、皆で分担して得意科目を教えたし、イベントごとには彼も交えるのが常だった。初めて出会った頃はまだ中学生だったか。こちらへ向けられる高校生への羨望の眼差し。可愛らしかったあの頃のまま、宏海は私の横で一緒に冷酒を飲んでいる。
「そんなことないよ。優しかったよ。勉強もよく教えてくれたし。そう言えば、お仕事何してるの」
「ん、獣医だよ」
「わぁ、宣言通りに獣医さんになったんだね。よく言ってたもんね。獣医になって、世界中の動物を助けるんだぁって」
「やだ……そんなこと、言ってたっけ」
「言ってたよ。僕は、凄いなぁって思ったもん」
懐かしさに乾杯をしたものの、出だしから躓いている。そんな昔の夢忘れていたし、世界中の動物を助けるなんて烏滸がましい。だって私が今していることは、目に見えている動物だけに手を差し伸べている。若い頃に見た夢は、身の丈にあっていない大きなものだった。でも、互いに学生服だった頃で記憶は止まっている。それくらい恥ずかしい過去が出てきても仕方がないのか。よく考えれば、皺を増やした私たちが一緒に酒を飲んでいるのって、何だかちょっとおかしい。
「そう言う宏海は、何やってるの?」
「僕? 革を使って小物を作ってるよ。バッグとか、色々。色んなデザイナーさんとコラボしたりして、ネットで売ってる。そこそこ売れてるんだよ」
「へぇ。そうなんだ。全然想像してない職業だった」
「あぁ、そうかもねぇ。インターネットが発達してくれたおかげで、色んな人と繋がって、販売経路も広がってる。有り難い時代です」
柔らかく微笑んだ宏海に、昔の面影を見た。あぁ変わっていない。マロンちゃんみたいに、キラキラした瞳。くたびれきった顔で、家と仕事場を往復している私とは違う。彼はきっと、毎日刺激的に生きているのだろう。そう思えば羨ましくて、恥ずかしくて……何となく視線を落とした。後ろめたい生活を送っているわけでもないのに。
「私は門外漢だから分からないけれど、何だか凄いねぇ」
下ばかり見てしまいそうになって、思い切り上を見上げた。しがない大衆酒場だ。元々のお目当てである肉豆腐を頬張って、無理矢理に笑った。宏海の指をちらりと見る。彼も指輪などはしていない。でも恋愛話は、彼には……聞けないな。
「あ、だからスケッチしてたの?」
「そう。お花とか、景色とか。いいなと思ったら絵に描いておくの。何か作る時のインスピレーションに繋がるかもしれないしね」
「へぇぇ」
本当に分からない世界だな。写真じゃだめなのかな。いや、そういうのは勘というか、その人に合った向き不向きがあるのだろう。勝手に思って、勝手に納得する。
「カナちゃんは、今日はお休み?」
「あ、そう。病院のお休みが二連休なんだけど、そのタイミングで一般企業でもお仕事しててね。たまたまそれが休みで。あ、そんな立派なものじゃないよ。不定期で仕事に行くくらいの、バイトみたいなもんなんだけど」
「へぇぇ」
「宏海、
「うんうん。少し派手な子だったよね」
「そうそう。その百合の会社でね、ペットフードのアドバイザーをしてるんだ」
この仕事に声を掛けてくれたのが百合だった。大学に入って疎遠になっていたが、病院に営業に来た彼女と再会し、この仕事を始めることになったのだ。
百合は、タケナカ農場という国産野菜を扱う会社で、営業部長をしている。あの百合が部長、と腹を抱えそうにはなったが、年齢を考えたら変なことでもないなと思い直したのは内緒だ。中規模のアットホームな会社で、国内の農家と直接契約し販売するのが主事業である。彼女は立ち上げ時からの古株で、だいぶ貫禄のある社員だ。再会した時は、規格外の野菜を使ってペットフードを作る事業を立ち上げたばかりだった。動物病院を回って、サンプルを配り、あれこれ意見を聞いたりしていたらしい。それで偶然に再会したわけだが、彼女にとっては有り難い旧友だったらしく、その場で懇願されたわけである。一緒にいた暁子はケラケラ笑って、いいじゃんいいじゃん、と言うだけ。私も、特に断る理由もなかった。それから十年近く。アドバイザーという肩書を今も有り難く頂戴している。
「百合ちゃんてさぁ」
「ん?」
「まぁくんとお付き合いしてた人だよね」
ブッと吹き出しそうになって、必死に堪えた。
忘れていたわけじゃないが、今更掘り起こす話でもない。確かにあの二人は、当時付き合っていたけれど。宏海が匡の話をすると、ちょっと心拍数が上がる。
「あぁ覚えてた?」
「うん。覚えてるよ。意外だなって思ってたし」
「そうなの?」
「だって、百合ちゃんって明るいタイプでしょ。まぁくんは根暗だから」
「それは確かに。あれは、百合が匡のことが好きだったのよね。どちらかと言うと」
「へぇ、そうなんだ」
ひどく手汗をかいている。良かった。宏海は普通だ。私が変に気を回し過ぎただけみたい。小さく安堵する。
「そう言えば、匡はどうしてる? 最近会ってないんだよね」
「そうなんだ。相変わらずだよ。結婚もしてないし」
「あぁ……だよね。匡は仕方ないか。女運ないからねぇ」
「そうなの?」
「うん。知らない?」
「聞いたことない。だって、まぁくんはいっつもそういう話はしてくれないから。彼女できた? とか聞いてもさ。うるせぇって言うだけ。それがそのまま五十になった」
未だに子どものように拗ねる宏海。匡との関係性は、ずっとあの頃のままなのだろう。それがちょっと心地良かった。
「カナちゃんは?」
「あ、ん?」
宏海は自分の左手を指さした。結婚しているのか、ということだろう。
「あぁ……独身ですよ。えぇ、見事に」
わざわざ自虐したのは、また母の顔を思い出したからだ。楽しく飲んでいたって、この話題に触れれば真っ先に思い出される。仕方がない。まだこの話題は、私の中で冷めていないのだから。
「そっか。僕と一緒」
「あ、そうなの」
「うん。出会いはあるんだけどね。そういう関係にはならなかったな」
「へぇ」
「でもさ、もう五十じゃん。だから流石に姉ちゃんとか煩くて。最近は母さんまでそこに乗っかってて、実家に帰ると肩身狭いよ。父さんと兄ちゃんは、静かに見守ってくれるけど」
まだムスッとする宏海は、カウンターに頬杖をつく。仕草があの頃みたいで、今見ても可愛らしい。まぁもう五十になるおじさんではあるけれど。
「どこの家もそんなもんよね。うちは直接言っては来ないけど同じようなもんよ」
「ほんと?」
「うん。私は一人っ子だから、言ってるのは母だけだけど」
「そうなんだ。この年になると、もう孤独死とか心配されるんだよね」
「分かる。そうなのよ、うちも。もう年齢的にさ、子供云々言われなくなって安心したのになぁ。自分たちがいなくなったら、私が一人ぼっちになるんじゃないかって心配してるみたい。大丈夫なんだけどねぇ」
冷酒をクイッと飲んで、肩を落とした。宏海も同じ悩みを抱えているだけあって、ねぇ、と同調して同じように呆れ顔になる。自分たちがどれだけ大丈夫だと言ったところで、相手は簡単に納得しない。そこまで分かっているから、実家に帰るのもしんどくなるのだ。でも、一人っ子の私が、両親と距離を置くわけにはいかない。
「まぁ、そういうことを心配される年にはなったのよね」
「だねぇ。でもさ、僕思うんだけど。孤独死って言うけど、結局誰かと住んでたってさ。一人でいる時に倒れたら同じじゃない?」
「まぁ……そうよね。ただそれに気づいてくれる人がいるかって話でしょう」
それは、実際そうだろうと思う。
確かに今倒れたら、一体誰に連絡をしたらいいのだろう。母? いや、暁子か。同性の友人が最もいいと思ってしまうが、彼女には彼女の生活がある。あまり迷惑もかけられない。うぅん、と顎を揉んだ。
「でもそうすると、本当は恋人でもいいと思うんだよね。そうじゃなくても、定期的に会ったり、連絡を取ったりする友人がいますって。心配しあえる関係というか。必ず連絡取る人がいれば」
「確かにそうだ。結婚なんてしてなくてもいいよね、それなら」
「うん。すぐに異変に気付いて、駆けつけてくれる相手がいればいい気はする。夫婦じゃなくて、恋人だっていいよね」
恋人、か。あれから、恋愛なんぞ捨ててしまった。人を好きになったり、なられたり。そういった行為自体を信用できなくなってしまったからだ。でも宏海が今言うように、そういう相手がいると示せせばいい。結婚なんてしなくたって十分じゃないか。
「そう言うけど、宏海は今、カノ……恋人とかいないの?」
「ん、いないよ。いい感じになった時はあったど、気付けばそれも十年前だ」
「なるほど……じゃあさ、私たち付き合わない? 結婚でもいいけど」
いい提案だと思った。だって、もう愛なんていらないもの――
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