第6話 小娘だった頃

 宏海は、高校の同級生である斎藤さいとうまさしの幼馴染だ。学年はひとつ下。匡の実家の喫茶店・ジャズ喫茶羽根はねでよく会う男の子。それが中川宏海という男の子だった。私だけでなく、友人たちも皆可愛がっていて、勉強を教えてあげたり、一緒にクリスマスパーティをしたりしたっけ。皆の弟のような、ただそれだけの関係だ。特に連絡先も知らないし、会うのはあの店だけだった。だから、自分たちが卒業した後で、彼がどうしたかなんて全く知らない。それがこんなことになったのは、ひょんなことで宏海と再会したからである。あぁそうだ。今日みたいな、とても暑い日だった――





「あぁ……ダメだな」


 休日の夕方、実家を飛び出した。ザッザッと音を立てながら、目的もなく足早に歩いている。軽快な足取り、といかないのは、心が重たいせいか。それとも、このサンダルが歩きにくいせいか。散歩だと嘘を吐いて出てきたんだ。あぁ、スニーカーくらい履いて出れば良かった。

 一度立ち止まり、深く息を吸う。それから、胸のもやもやを一気に吐き出した。

 

 私は一人っ子である。離婚をして暫くは実家にいたが、今は一人暮らし。病院と実家の真ん中辺りの小さなワンルームが、私の城である。時折、こうして帰って来ては、母の愚痴を聞き、色んなことが億劫になってきた両親をサポートしている……つもりだった。時々帰ってきて、元気な顔を見せてくれるだけでいいのよ。母が言った言葉をそのまま素直に受け止めていた。けれどそれは、私の独りよがりだったのかもしれない。


『カナコの今後が心配なのよね。お休みになると、いつも帰って来るの。料理も出来ないし、上げ膳据え膳。それに、昼間はこうしてお昼寝って。誰とも会っていないんあじゃないかしら。このまま私たちがいなくなったら、あの子一人きりになってしまう。それが心配で……』


 一時間ほど前、一階の茶の間から聞こえた悲壮感いっぱいの母の言葉。話しの相手は叔母だった。何やらコソコソと話をているようではあるが、年を老いた二人の声はそこそこ大きい。母の言葉がどう続くのか想像出来る。私は、手に掛けていたドアノブを静かに引くしかなかった。舞い戻る部屋は、昭和の匂いしかしない。端が剥がれかけた懐かしいシール。何だか分からない油性ペンの落書き。一人っ子だからと甘やかされた、過去の私がそこにいた。母が、兄弟を産めなかったことを悔いているのは知っている。そういう心のつかえもあるのかもしれないが――扉の隙間から漏れ聞こえる内緒話の大きな声に耳を塞いだ。

 黒い感情が湧き、苛立ちを覚えた。適当な服を着て、わざと大きな音を立て、階段を駆け下りて。散歩でもしてくるね、と笑ってその場を後にした。上手くやれたのかは分からない。二人は少し驚いた顔をしていたが、あのまま彼女たちの話全てを耳にするよりは、ずっと良かったはずだ。


「大丈夫……私は幸せ」


 呟いて、虚しくなる。

 私の人生なんだから、お母さんが心配なんてしなくていいんだよ。そう言ってしまえばいいのだが、そう簡単にもいかない。そもそも母は、私には絶対に言ってはこないから。一度、失敗しているからだろう。可哀想だとでも思っているのだろうか。あの生活を守れなかった娘を情けないとでも思っているのかもしれない。だから、この話題に私が触れてしまえば、言い合いになるのは目に見えている。仕事で疲れた心で、わざわざそこに挑んでいくのも馬鹿らしかった。

 

「あぁどうしよっかな……」


 日が落ち始めた時間。思いつくのは、飲みに行く以外ない。暁子はまだ仕事だし、一人カウンター酒でもいいか。こんな時は、お洒落な店じゃなくてガヤガヤ煩い方がいい。肉豆腐と冷や酒なんていいな。そう思いついて、駅前の大衆酒場を目指す。それだけで足取りが弾むのだから、随分と年を取ったものだ。買い物袋をぶら下げている人。何を食べようか、店先を覗いて考えている人。デートなのか、手を繋いだ若い男女。色んな人がいる雑多な世界に身をおいて、少しずつ安寧を取り戻し始めていた。やれやれ、と前を向いて、他のつまみを考える。さっぱりした物がいいから、タコワサとかでちまちま飲もうかしら。 

 そう思い浮かべていた時、きょうのごはんはなぁに、と母親と手を繋ぐ子とすれ違った。それは誰から見ても幸せそうで、薄汚れた自分が急に恥ずかしくなる。あんな幸せは二度と私の元へ来ない――一気に、全身が冷えていった。

 体は自然と向きを変え、人の少ない方向へ歩き始めていた。今見た幸せが手に入るわけでもないのに、拳をギュッと握り込んで。すれ違う人が皆、今日は何故か誰かが待っている場所へ帰ろうとしているように見える。大丈夫、私は寂しくはない。言い聞かせて、歯を食いしばっていた。辿り着いた大きな公園。もう人気は余りなく、池の端で絵を描いている人がいるくらいだ。まだ暑いというのに、熱心だな。ちらりと横目で見ながら、後ろをズカズカと通り過ぎた。


「はぁ……」


 広い園内を半周。向かいから人が来れば、植物を見ているフリをした。何も気にせず歩けばいいのに。さっきの幸せそうな家族がチラついて、自分がとても寂しい女である気がしてしまう。足取りは重たい。自販機で水を買い、ようやく腰を下ろした。一口飲んだだけで大きな溜息が出てくるほど、酒を飲みに行く気力も消え、ひどく萎えている。

 母の嘆きを聞いて、耳を塞ぎ飛び出した。それだけだったら良かったんだ。温かな家族を目の当たりにして、現実を突きつけられた気がした。いつもなら気にならないような風景だった。ただ今日は、既に負の感情を抱えている。自分にはもう戻ってこない景色だ、と嘲笑われたような気がした。私だって離婚しなければ今頃――そこまで思って首を振った。

 母が何か言いたくなる気持ちも、本当は分かっている。端から見れば、私は生きる目的が明るくない。その日を何とか生き延びているように見えるのだろう。出来ることならば、母と喧嘩はしたくない。けれど、結婚して家庭を成すことが女の幸せだと決めつけている母とは、やはり相容れなかった。

 私は私の人生を、自分で選んで生きている。それが幸せだ。そう思っていてきたけれど、やはり間違いなのだろうか。


「あ、こら。マロンちゃん。だめよ」

 

 急に聞こえた声に驚き、顔を上げた。慌てたご婦人と目が合うと同時、足元にフッフと湿った呼吸を感じる。私を見上げるキラキラした瞳。きっと、この子がマロンちゃんなのだろう。クリーム色のポメラニアンだ。


「すみません」

「いえいえ。大丈夫ですよ。撫でても平気ですか」

「えぇ、すみませんねぇ」


 申し訳無さそうにこちらを見る婦人。母と同じくらいの年だろうか。彼女と向き合った時には、瞬時に仕事の仮面を被り、腰を屈めマロンちゃんに手を伸ばす。動物と向き合ってしまえば、不思議とすぐに心は軽くなる。ふさふさの尻尾を嬉しそうに揺らすマロンちゃん。ふふふ、可愛い。そう自然と呟いていた。あぁ大丈夫。この子は愛されている。肉球が火傷しないように、可愛らしい靴を履いて。きちんとブラッシングもされている。職業病だな、とは思えど、やはり動物が大切にされていることに安堵していた。


「可愛いお靴ですね」

「ふふふ、そうでしょう。ありがとう。最近はこういうのもあるのね。娘が買ってくれたんだけれど」

「それは、それは。いい娘さんですね」


 自分で言っておきながら、舌打ちしそうになった。勝手な話だ。さっきの母の愚痴を思い出してしまう。私は、きっといい娘ではない。マロンちゃんが寄越すクリクリと大きな愛らしい瞳に、何とか笑みを保った。


「最近は犬も靴なんて履くのねぇ。あまりに暑いから、何だかこの時間でもまだ危ないんですって」

「えぇ、そうなんですよ。最近は本当に暑いですからね。アスファルトが熱を保ってしまって。人間の感覚で大丈夫だと思っても、ワンちゃんたちは裸足ですからね。肉球を火傷しちゃう子も、結構いるんですよ」


 最近よくある肉球の火傷と熱中症。ペットも人間と同じように、この暑さは体に応えるのだ。うちの子は大丈夫だ、とよく分からない自信を持った飼い主を嗜めるのは、夏の嫌な業務ナンバーワンかもしれない。お前も裸足で散歩してみろよ。何度、そう言いかけたか分からない。


「へぇ」

「ご面倒でも、お散歩に出る前にアスファルトを触ってみるといいですよ」

「なるほどねぇ。お姉さん、お詳しいのね。ワンちゃん飼っていらっしゃるの」

「あ……っと、動物関係のお仕事していまして」

「あら。トリミングとか? あ、それともお医者さんかしら」


 知りもしない人に、素直に素性を明かすのが憚られた。が、かといって隠すことでもないか。そう逡巡してから、獣医をしています、と躊躇いがちに答えた。


「まぁ。ご立派ねぇ」

「あ、いえいえ」

「とても素敵だと思うわ。今の女性はしっかり自分の足で立てるものね。私なんかからしたら、とても羨ましいものよ。とてもいい先生をしていらっしゃるのね。この子を見たら分かるわ」


 婦人が微笑む。ありがとございます、と答えたが、恥ずかしいくらいに消え入りそうな声だった。

 今会っただけの人間に、どんな感情で言ったかは分からない。それが本心でなかったとしても、今の私の心を確実に掬い上げた。弱っているのだな。目頭が熱い。マロンちゃんを撫でて、誤魔化した。婦人と母がダブる。恐らく同じような年代を生きてきた女性だ。羨ましい。そう彼女は言った。もしかしたら母も、そう思う時があるのかもしれない。じゃあ先生またね、と静かに去っていく婦人。その背を見送る私は、数分前よりもずっと、前を向いていた。


「よし」


 パシンと両頬を叩いて、自分に気合を入れる。今の生活が幸せだと胸を張ろう。誰に言われたわけでもない、自分が選んだ道だ。ゴクリと水を飲んで、ペットボトルを見つめる。暫くそれを眺め、キュッとキャップをしめた。


「あ、良かった」


 自販機でもう一本買った水を持って、私は来た道を戻った。心が少し晴れたら、あの絵を描いていた人が気になったのだ。彼の手元には水分らしきものがなかった気がして。誰かに優しい言葉を 掛けられて、自分もそれを誰かに返したくなった。ただのお節介だな。まぁ断られたら、持ち帰ればいいし。気が付いていたのに、このまま倒れられたら寝覚めが悪い。


「あの……」

「え? あ、はい」


 意気揚々と来たつもりだったが、こんなことは滅多にしない。子供や女性にならば躊躇いなく出来るだろうが、やはり成人男性にするとなるとちょっと恥ずかしさもあった。 


「結構、長くいらっしゃいますよね? 良かったら、あの……これ。水分摂ってください」


 おばさんだから、と割り切って、水をグイッと差し出した。驚いた顔の彼と目が合って、何となく視線を外す。彼はそれを受け取る気配もなく、怪しい女だよな、とすぐ自戒した。

 

「あ、こういうの怪しいですよね。すみません。ただのお節介なので、お気になさらず」

「え、えっ」


 彼の顔も見ずに早口でまくし立て、ペットボトルを引き下げた。顔が急に熱くなる。では、とペコリ頭を下げて踵を返した。

 良いことをしたかったわけじゃない。マロンちゃんが靴を履いているほどの暑さで、あの人も喉乾いているんじゃないかと勝手に心配しただけだ。あぁ今日は、何をやってもだめだな。


「あの、あのっ。待って……待って。お姉さん」


 去ろうとする私に、慌てた彼が後ろから呼び止める。でも、立ち止まることが出来なかった。「すみません、お節介して」と少しだけ歩を緩め、視線を合わさずにそう告げる。デッサンの邪魔をしてしまっただろうか。申し訳なかったな。


「違う、待って。待って……あの、カナちゃん。カナちゃんじゃない?」


 懐かしい響きだった。今はそう呼ぶ人はほぼいないが、遥か昔に呼ばれていたことがある。カナちゃん。まだ何も知らない小娘だった頃に、呼ばれていた名だった。

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