第5話 後悔
「宏海くん、ごめんね。飲ませ過ぎちゃった」
「いえ。まぁ……今日は仕方ないですから。カナちゃんの話聞いてくれて、ありがうございます」
「暁子、休みの日に、愚痴聞いてくれてありがとうね」
「いえいえ。今日はもうゆっくり寝なさい。また明後日ね」
「うん。じゃあ」
一人で帰れると言ったが、暁子はそれを許さなかった。飲みすぎた自覚はあるけれど、真っ直ぐには歩けるのに。きっと、ここから一人で帰る私が心配だったんだと思う。だから彼女の言うように、素直に宏海を呼んだ。今日くらいは、誰かに甘えてみようかな。なんて、自分が弱っている自覚もあったから。
小さくなる暁子の背を見つめる。自分を許してあげて。彼女がそう言った言葉を、何度も何度も反芻していた。私も幸せになっていいの? 暁子の言葉を思い出して、脳内はそう繰り返すが、答えは分かっているのだ。どんなに優しい声を掛けてもらっても、結局は自分が許せないのだ、と。
「結構飲んだ?」
「あぁ……うん。どうにもね。すっきり出来なくて。自棄酒よね。宏海にまで迷惑かけて、本当にごめんね」
「いや、良いんだよ。ちょうど工房にいたし。それに心配だったしね。飲み過ぎは止めたいところだけど、今日は仕方ないと思うよ」
ね、と笑みを寄越す。彼もまた今年五十になる男である。可愛らしいと言っては申し訳ないと思うが、いつ見てもその顔は可愛らしかった。
「カナちゃん。ちょっとお散歩してかない?」
「あ、うん。いいよ。宏海はお昼食べた?」
「うん。打ち合わせしながら軽くね。プラプラしながら、カフェでも探してお茶しよっか。ほら、アイスとかあるんじゃないかな」
「アイスは食べたい」
「うん。カナちゃん好きだもんね。ミルクのアイス」
「あ……うん」
当然のように、彼がそう言った。驚きと、嬉しさがふわりと湧く。好きなものをちゃんと知っていてくれる。宏海は、そういうことが出来る人だ。さり気なく、車道側を彼が歩く。紳士的だな。浮かんだのは、そんな平凡な感想だった。
私よりも大きな手が、額の汗を拭う。暑い夏の日差しが、キラキラと宏海を照らしている。ふわふわした軽い髪。十五センチ差の身長。触れそうで、触れない手。それに気付いて、ひとり顔を赤らめる。いつもなら、全く気にならなかったのに。あぁこれは全て、暁子のせいだ。
『だって、カナコは宏海くんのこと好きじゃん?』
そう言った暁子は、至って普通の顔をしていた。茶化している様子でもなく、淡々と事実を告げただけのようだった。だからこそ、心に残ってしまったのだろう。あぁ、どうしてくれるんだ。
宏海のことが好き? いやいや、そんなわけはない。だって彼は、学生服を着ていた頃から可愛い弟のようなものだ。それに、宏海にはきちんと想っている人がいる。実らない彼の恋と、男はいらないカナコの思惑の上で成り立っている生活。どこに、ときめく要素があるのか。一人で大きく首を横に振った。
「ん、どうしたの?」
「何でもない。ごめん、ごめん」
「ねぇカナちゃん。夜ご飯食べられそうだったらさ。食べて行かない?」
「いいよ。じゃあ、宏海の食べたいの食べよう。お姉さん奢るから」
「いや、それはいいんだけど。何かせっかく外で会ったし、たまにはね」
一緒に住み始めてから、宏海と顔を合わせるのは家の中だけだ。何度も言うが、私たちは夫婦ではない。だから、一緒に出かけたりもしないし、わざわざ外で待ち合わせて食事を摂るようなこともないのだ。
「暑いから、とりあえず建物の中に入ろう。それで、お買い物しながらウロウロしてさ。お腹が空いたら、何か食べようよ。どうせ同じ家に帰るんだし、何時になっても大丈夫でしょう?」
「まぁ確かにそうだね」
ほら、いつも通り。
ケラケラ笑って、ときめく要素なんかどこにもない。私に合わせた歩幅で、ゆっくり歩いた。何の気兼ねもない友人同士。宏海だってそう思っているに違いない。
「こうやってプラプラするのも、いいものだねぇ」
「ね。最近は洋服だって、ネットでピッピッピってしちゃうもんなぁ」
「分かる。もうこの年になると、着るものも大体固定されてきちゃうしね。でもなんかさぁ」
「んー」
「こうしてると恋人みたいだね」
「ん」
「ん?」
あまりに驚いて、足を止めた。どうしたの、と宏海がこちらを覗き込んだが、上手く言葉が出てこなかった。彼は、いつもと同じだ。だからきっと、何言ってんの、と笑い返すのが正解なのに。心がドキリとしてしまった。そしてそれはきっと、疾うに忘れた言葉を、急に思い出させられたからだ。
「何言ってんの。そもそも、私たちは夫婦でしょ」
何とかそう戯けた。宏海にはバレないうちに、心に生じた僅かな揺れを誤魔化したい。何がキュンだ。そんな女の感情などいらない。宏海に対してある感情は、慈愛。慈愛だ。彼には幸せでいて欲しい。笑っていて欲しい。だけれど、それ以上の感情を抱えるつもりはない。
『カナコだって幸せになっていいのよ』
数時間前の暁子が、そう笑いかけた。
隣を歩く宏海。店先の小物を見ては、カナちゃんこういうの好き? と話しかけてくる。彼は彼なりに楽しそうで、不意に青春時代を思い出した。勉強したり、遊んだり、歌ったり、笑ったり、喧嘩をしたり。あの頃は全てに忙しかったけれど、永遠を夢見ていた。何もかも、純粋に。今ならば、そんなものはないと言い切れる。永遠の愛を誓ったって、一時だけだ。同じように相手も愛を育んでいってくれるとは限らない。でも今、ほんのちょっと思ってしまった。宏海とならば笑って暮らしていけるのかもしれない、と。
私には、幸せになる権利などない。頑なに自分に言い聞かせてきた。周りに迷惑を掛けて、逃げ帰ってきたのだから。けれど、暁子の言うように幸せになってもいいのだろうか。彼を見つめる。宏海はそれに気付いて、何も言わずに微笑んだ。笑みを返すことも出来ない私は、ただそっと静かに視線を外した。
こんな歪な関係でなければ、どんな感情を持っただろう。ただの友人の宏海とこうして歩いて、素直にどう思っただろう。一体何が自分の本心なのか、完全に見失ってしまった気がした。この生活を望んだのは、私だと言うのに。何故か今――この歪んだ生活を、初めて後悔している。
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