第4話 望んではいけない

 平日の昼下がり。焼き鳥の匂い。片手にはジョッキ。女二人、カウンターに並んでいる。明るいうちから飲む酒の背徳感。それが醍醐味はあるが、今日はそれを味わう為にここに来たわけではない。当然、あの話を友人にする為である。


「で、何なの。これ」

「まぁ、察しているんでしょうけれども……元夫とその浮気相手ですね」

「へぇ……」

 

 酷く低い声だった。

 そう唸る大塚おおつか暁子あきこは、親友であり雇い主である。離婚をし、川崎の実家に戻って再就職した先が、暁子の父親がやっていた動物病院だった。今ではそこを継ぎ、彼女が院長として切り盛りしている。私とって、唯一甘えられる存在。情けない部分を曝け出しても、笑ったりしない。一緒に泣いて、一緒に笑って、時に怒られて。友人でもあり、上司でもあり、姉のような、今や家族のような人だ。


「何が憧れのインフルエンサーの私生活だよ。よくも堂々としていられるもんだな。どうせ大半の人が過去なんて知らねぇから、バレなきゃいいって?」

「多分そうじゃない? まぁこっちも、もう二十年経ってるし、今更文句を言うつもりもなけど。ただすっかり忘れてた顔が、仕事帰りに急に出てきて苛つきはするよね。勝手に幸せになりゃいいけどさ。ただ二度と見たくはない顔だった」


 何とか気持ちを押し込めた二十年だった。あの時は、何も出来なかった自分が悔しくて仕方なかった。例え三十になったと言っても、まだまだ何も知らない小娘だったのだ。世の中には、汚いことを平気でする人間が存在する。知ってはいたが、それを突きつけられ、自分が無知だと思い知らされた。当然そんな人たちと対峙する力なんて私にはなくて。両親は一緒に戦ってくれたけれど、何もかもあいつらに及ばなかった。この写真の中で微笑む女に、私は全てを奪われたのだ。

 今だって、あの時の苦しみを忘れてはいない。あの女がニィっと、影でほくそ笑んだのも忘れていない。口角を片方だけ釣り上げた唇。若々しい桜色の口紅さえ、今もまざまざと瞼に浮かんだ。夫だったあの男に、未練などは全くない。それでも、これだけこの記事が面白いものではないと感じるのは、それでも、これだけこの記事が面白いものではないと感じるのは、当時の光景全てを思い出してしまうからだろう。大きな口で焼き鳥に齧りついて、手元のジョキを勢いよく煽る。結局、心はむしゃくしゃしたままだ。


「今更、こんなの見たくなんかないわよね。分かるわ。というか……私、顔も思い出せないんだけど」

「えぇ、本当? 急にこうして出て来られると、一瞬で思い出すわよ。それはもう吐き気がするほど、まるっと全てね」


 暁子は、オエッと酷く嫌そうな顔をした。

 彼女は未婚のシングルマザーである。暁子の場合は出来ちゃった結婚直前に、相手の浮気が発覚。本当に入籍寸前だったらしいから、私とはまた違壮絶なものだったのだろう。その時の子も、もう二十歳。娘、茉莉花まりかは、祖父母と私たち職員の愛情を受け、可愛らしくしっかりした大人になった。まだ大学生だから、と暁子は心配そうではあるけれど、あの子はきっと大丈夫だ。だって、暁子にそっくりだもの。


「まるっと全部……」

「そ。離婚の時に見た、人間の嫌な黒い心とかね。綺麗さっぱり忘れてたのに、憎々しい義母の顔とか浮かんだわよ」

「うわぁ」

「こうやって堂々としてるってことは、私はいなかったことになってるのかもね。覚えていたとしても、よく思われてるわけないでしょ。まぁあの土地は、もう二度と踏まないだろうけど……」


 忘れてはいけない。だけれども、思い出すのが苦しいあの日々。色んな景色がぼんやりと頭に浮かび、隠すように下を向いた。涙が浮かんだわけじゃない。ただ感情を飲み込むために。

 暁子の手が、背中をそっと擦る。きっと、その理由を察したのだろう。


「カナコ、あのさ。これは想像以上の最悪な事故だったと思うんだけど……私、カナコが緊急招集だなんて言うから、ついに宏海くんと何かがあったのかと思ったのよね」

「何かって……何もないわよ」


 萎んだ心が、一気に呆れてしまった。今の生活を始める時、互いに一人ずつは意図を明かしてある。私は暁子に。宏海は匡に。何を狙っているのか知らないが、そういう感情が互いに湧くことはないと知っているはずなのに。一体、何を言っているのか。


「何もないって。そう言うけど、カナコは宏海くんのこと好きでしょう」


 は? と声が漏れた。当然だ。そういう感情を一ミリだって持ったことはない。ただ『当然でしょ』とでも言わんばかりの顔をして、何の迷いもなく言うものだから驚いただけだ。


「あ、まだ好きって感情まではいってないのか」

「だから、何言ってんのよ」

「んー、カナコ。気付いてる? あなた最近、本当に嬉しそうな顔してお弁当食べてるの。宏海くんの話を振れば、幸せそうに笑ってさ。今更恋っていうのもあれだけど、それに近しい感情があるのかなって。もう一緒に住み始めて三年だし」

「何、近しい感情って……」

「そうねぇ、ときめきとか?」

「ときめき……」


 顎を揉む。宏海にときめいたことなどあったか。

 思い出そうと視線を上げるが、そういうことは思いつかない。褒めてもらえて嬉しいだとか。寄り添ってもらえて安心するとか。そういう感情はあるが、多分暁子が言うのとは違う気がする。


「うぅん。いや、ないよ」

「ふぅん。そうかねぇ」

「ないない」


 ジョッキを空けて、カウンターの向こうに芋焼酎を頼む。心はもやもやするし、暁子は変なこと言い出したし。もう飲まなきゃやってられない。暁子もそれにニヤリと反応し、自分のジョッキを空けた。彼女とは、おしゃれなランチは似合わない。手元に焼酎が置かれれば、何も言わずに二人はクイッとまず一口。これこそ幸せな時間である。


「でもカナコ。これは茶化してるわけじゃないんだけどね。一緒に住み始めた時とは、絶対に違う感覚があると思うのよ。それがこう……恋愛的な意味合いじゃなくともね。慈愛というか」

「慈愛か……うぅん。そういう意味なら、あるのかもしれない」


 だって、宏海は優しい。憎むことなどないし。あぁそもそも、彼が怒ったところを見たこともない。いつだって穏やかに微笑んでくれるし、傍にいて苛立つことがないのだ。

 

「ほんと?」

「うん。だって、宏海は優しいから。ちゃんと頑張りを見ていてくれるし、無理しないでねって言ってくれるの。ほら、そういうことって減ったから。そういうのは素直に嬉しいって思うじゃない」

「それは、確かに嬉しいね」


 うんうんと頷く暁子。彼の優しさは、何回かしか会っていない彼女にも理解されている。へへへ、なんかちょっと嬉しい。

 

「でも、宏海でしょう。だから、みんなに優しいと思うのよ。あの子は、誰にでもそういう気配りが出来る子だから。その優しさは、私だけに向けられてるわけじゃないの。昨日だってね。バツイチだって言ったんだ、初めて。宏海は驚きはしたけど、探るようなことは何も聞いてこなかったし。それに一緒になって怒ってくれた。普通に優しい子なのよ」

「あ、言ったんだ。へぇ……珍しいね」

「あぁ、まぁね。誰かに話聞いてもらいたかったし。当然、飲まなきゃやってられなかったしね」

「ふんふん。でもさ、その優しさが他の誰かに向けられていてたとしたら、モヤモヤしたりしない? 自分にだけ優しければいいのにって」


 えぇないよ、と首を振った。だって、宏海は誰にだって優しいもの。それにそんなことを思い始めてしまったら、もうこの生活は終わり。苦しくて仕方なくなるのは目に見えているんだから。

 

「でもね。私は、宏海にはいつだって幸せでいて欲しいと思ってる。もしも彼が想う人と結ばれるようなことがあるなら、即座にこの関係は解消するつもりだし」

「それは、カナコも同じよね」

「いやぁ……同じだけど。私はそういうのはもういいから。そういう幸せに、手を伸ばすつもりは二度とない。絶対に」


 手酌でクイッと酒を流し込んだ。大きな幸せに手を伸ばすつもりはない。戒めのように、自分で決めたことだ。二度と結婚はしない。宏海との穏やかな生活が、カナコが今望めるささやかな幸せだ。それ以上は、求めることはない。 


「ねぇカナコ。もういいんじゃない? カナコだって幸せになっていいのよ。あなたの気持ちは分かるけど。もう少し自分を許してあげて」


 愁眉を寄せて暁子が囁く。私よりも苦しそうだった。そう心配してくれる友がいることは幸せだと思う。それから宏海がいて、ついでに匡もいる。これ以上、何を望むのだ。望むことはない。望んではいけない。

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