第3話 無意識

「ごちそうさまでした」


 二人にしては少し大きいテーブルに着いて、向かい合って食事を摂る。それが私と彼の生活のルールだ。私たちの間に愛はない。セックスだとか、そういうことも当然ない。ただの同居人であり、表向きは事実婚の相手である。

 宏海は、料理が得意だ。小鉢や小皿に少しずつ、沢山の料理をここに並べたがる。量はあまり必要ないけれど、美味しいものはたくさんあると嬉しいでしょう? それが彼の持論なのだけれど。確かにそうかもしれないけど、面倒じゃない? 料理が全く出来ない私。そう何度言いかけたことか分からない。


「カナちゃん。明日お休みだよね。まだ飲む?」


 洗い物をしながら、飲む飲む、と食い気味に返事をする。だって今日は飲まなきゃやってられない。本当は友人を呼び出して、酒に付き合ってもらいたかったくらいだ。でも時間が遅くなってしまったから、食事をキャンセルするのは憚られた。宏海が毎日楽しそうに調理しているのを知っているから。鼻歌を歌いながら、小皿にナッツを入れている宏海。なんだろうなぁ。ただそれだけなのに、私がするよりもずっと美味しそうに見えるのだから、不思議だ。


「なぁに?」

「ううん。何でもないよ」

「そう? あ、ねぇ。ワインでいい? ロゼ買ったの」

「いいねぇ」


 私の反応を見て、宏海はまた上機嫌だ。鼻歌を新しくして、リビングの方に運び始める。洗い物が終わる頃には、そこに座ってもうグラスを持つだけだろう。口にはしないが、私はこの時間が好きだったりする。初老を通り過ぎた中老二人の、いつの間にか出来た習慣。静かにゆったり酒を飲みながら、他愛もない話をして、同じ時間を共有する。ただそれだけの温かな時。宏海は、どう思っているのだろう。

 私たちは、。互いに互いを利用している。宏海には想う人がいるが、それが報われることはない。そして私は、まぁ言わずもがな。離婚を経験して、男なんて人生から排除してしまった。幸せを夢見ることもなければ、そうなる権利もないと思っている。利害が一致し始まった生活。少し大きな家に一緒に住み始めて、早三年。結構仲良く暮らせていると思う。気分的には、シェアハウスみたいなものだ。ただ事実婚と称してはいるので、としての付き合いも最低限するし、彼もまた然りである。


「カナちゃん、仕事はどう? 忙しいの」

「うぅん、まぁまぁかな。最近はペット可の賃貸も増えたからねぇ」

「そっかぁ。だから、色んな人もいるよね。毎日大変だよなぁ。凄いなぁ。でも、無理はしないでね」

「うん。ありがと」


 キュッと微小の心が揺れる。日々の頑張りを、誰かが気に掛け、寄り添ってくれる。それがどんなに嬉しいことなのか。この年になって、本当に身に沁みる。きっと彼は、単に友人を心配しているだけなのだろう。一緒に住んでいるのだから、尚更に。

 私は、小さな動物病院の雇われ獣医師をしている。特に自分の病院を持ちたいとか、そんな野望を持ったこともない。細々と、生きていく術として働いているだけだ。毎日変化はなくとも、好きな仕事だし、不満は何もなかった。そんな生活に第一の変化があったのは、五年ほど前のことだ。学生時代の友人に、ペットフード開発を手伝ってくれないか、と頼まれたのが始まりだった。今はタケナカ牧場という会社に、週に一度だけアドバイザーとして通勤している。本業の休みの時にちょっと行くだけだから、まぁ体の良いアルバイトだろう。体を休める時は少し減るが、楽しく働けているし、私を可哀想だという人よりずっと、幸せだと思う。でも、彼女たちを蔑むことはしない。だって、同じ立場になりたくないもの。


「宏海は? 新しいもの出すって言ってたじゃない」

「あぁ、うん。今ね、担当者さんと詰めてるところだよ。今回は鞄からは離れて、ポーチとかそういう小物のシリーズにしようと思ってるの」

「へぇ」


 宏海は革製品を作り、販売している。こことは別に構えているアトリエがあって、仕事は主にそこでしているようだ。まぁ私は行ったことがないし、彼の仕事が実際にどんな風なのかなど詳しくは分からない。この生活を始めるにあたって、宏海は簡単に説明はしてくれたが、私にはちょっと想像が付かなくて。もやぁっとした印象でしか残っていなかったりする。宏海は自嘲気味に教えてくれたが、そこそこ売れてはいるようだ。どこかの会社と契約して、他の作家とのコラボ商品なども手掛けているとか。全く分からない世界過ぎて、私はいつも「凄いねぇ」としか言えていない。


「ふぅん。ポーチかぁ。柔らかそうなのだったら、私も買おうかな」

「何言ってんの。僕らはでしょ。そのくら いプレゼントしますよ」


 ヤッター、という言葉が少し棒読みなのは勘弁して欲しい。素直に喜べばいいものを、どうも上手くやれない。あまりこういうシチュエーションを経験してこなかったのだ。だから今も、結構恥ずかしくて目を泳がせている。視界の端に捉えた宏海は、ニマニマして嬉しそう。だから、また少しだけ不貞腐れた。

 彼はきっと、私がどう反応するのかも分かっていて楽しんでいるように見える。あの離婚から、弱いところを誰にも見せたくない気持ちが強くなってしまった私には、そういう彼の優しさが嬉しくて、苦しかった。


「カナちゃんは赤い色がいいよね」

「え、なんで?」

「んー、色が白いでしょう? だから映える色がいいというか。それにカナちゃん、あまり派手な服は着ないじゃない」

「あぁ……まぁそうだけど」

「仕事柄、ネイルとかもしないだろうし。それならば、そういう小物は色味があった方がいいかなって」


 ネイル、と言われてドキンとした。あの記事の中で微笑んでいた女の、綺麗に整えられた手。短い爪の小傷ばかりの手を思わず隠した。自分の頑張った結晶だと思ってはいるけれど、今夜はどうしても恥ずかしかったから。


「頑張ってる綺麗な手だって、僕は思うな」


ギュッと握り込んだ手を、宏海がじっと見つめていた。


「ネイルとかしてなくたって、頑張り屋さんの手だもん。綺麗だよ」

「いや……」


 弱っているのだろうか。あの記事のダメージは、それほどに大きかったのだろうか。顎に触れ、潤みそうになる目をギュッと瞑る。それから……本当に何となく、宏海の肩にもたれた。


「大丈夫? 何かあった?」


 宏海が心配そうに覗き込む。こんなことをしたのは初めてだ。彼もどうしたらよいのか分からないのだろう。目に見えて、あたふたし始める。でもそれが、どうにも愛しかった。


「今日の帰りにね。何気なく開いたウェブサイトのページにさ、見つけちゃったんだ」

「見つけちゃった? 何を」

「あぁ……元夫をね」

「えっ、元夫? え? えぇと」


 宏海が慌てるのも仕方ない。私に婚姻歴があることを、彼は今の今まで知らなかったのだから。

 こんな生活を始めて三年。口にしたことすらなかった。あぁ、どうして言っちゃったんだろうな。そう思うけれど、今夜は誰かに聞いて欲しかった。


「私ね……バツイチなの。離婚して二十年。もう独身生活の方が長いんだけどね。だから、特別に誰かに言うつもりもなかったし、言わなくても生きてこられた。結婚をするつもりがないって言ってたのは、こりごりだからなの。幸せだと思ってたのに、浮気されたのよ? もういいやって思うじゃない」

「そう……だったんだ」


 きっと誰にも言わなかったのは、可哀想な女だと思われたくなかったからだ。当然それ以外の感情もあるけれど、その気持ちが最も強かったのだと今思い知る。そんな目で見ないで。哀れみを向けないで。自分で言い出したくせに、そっと彼と距離を取った。

 

「そのページに、何が書いてあったの」


 あまりに自然だった。おずおずと聞いてくる彼を想像していたから、驚いて凝視してしまう。このナッツ美味しいね、とでも言うように、宏海はすごく普通のテンションで言うのだ。それだからだろう。気持ちは思ったよりも楽だ。辛かったね、とか優しく寄り添われてしまったら、きっと一緒に深く沈んでしまった気がする。

 

「うぅんとねぇ。素敵な老い方、みたいな記事でね。インフルエンサーの私生活的なこと。お部屋紹介とかね。まぁ結果的には、『私たち幸せなんです』みたいな記事よ」

「うわぁ……」

「ホント。その感想が、まさに私の気持ち。よくもまぁ他人の夫を寝取っておいて、堂々と幸せですぅって出来るもんだって。いやまぁ、離婚して二十年も経ってれば、もう時効なんだろうけどさ。今更に何の情もないけど、思い出してムカついちゃって」


 グビッとワインを飲み込んだ。空になったグラスに、自然と宏海が静かにワインを注いだ。トクトクと微かな音がする。あぁなんだか、心臓の音みたい。目の前に滑り出されたグラスをゆらゆらと揺らして、ピンク色の水面を眺めれば、宏海は「綺麗だね」と微笑んだ。

 微かに心が揺れた。同じ物を見て、同じように感じてくれる人が傍にいる。幸せだな、と思った。それは、ときめくような感情ではなくて、ホッとするような安心感。彼との生活は穏やかで、心が凪ぐのだ。宏海はどう思っているだろう。この安堵を彼も感じていてくれればいいけれど。


「カナちゃん。ねぇ、それってまぁくんは知ってる?」

「え? まさし? いや、知らないよ。誰にも言ってないもん。大学を卒業して岩手に行って、そこで結婚をしたの。結果、離婚して出戻ったけどさ。皆、岩手で獣医修行をして、東京に戻ってきたって思ってるんじゃないかな。式もしなかったから、特に誰にも知らせなかったし」

「そっか。じゃあ、まぁくんにも言わない方がいいね」

「あぁ……うん、そうね。そうしてくれると助かる」


 何故か、宏海は嬉しそうだった。首を傾げるが、まぁいいか、とすぐにナッツを口に放る。それに釣られたのか、同じようにナッツを口にした宏海は、やっぱりニマニマしていて。何も面白いことなかったよなぁ、と顎を揉もうとしてふと気付いた。憎悪に塗れていた心が、いつの間にか緩んでいる。宏海を見て、微笑んでさえいた。無意識のうちに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る