第9話 卵焼き

 食後にトリーツのサンプルを取りに来たのは、百合の部下だった。課長の五十嵐いがらしわたる。もう四十も過ぎた頃だろう。泊がなく、いつも部下たちの中に混じり込んでは、キャッキャと楽しそうにしている印象だ。それでいて仕事上では頼りになるらしく、下からの信頼は厚い。百合も可愛がっているし、上からも、下からも愛されている。そんなちょっとマスコットのような男は、彼は百合のお使いで私のところに来て、この営業の話をポロッと零していった。上手くいけば、販路拡大に繋がるものらしい。頑張ってきます、と意気揚々と去っていった彼を、不安な気持ちで見送ったのは言うまでもない。


「カナちゃん、おかえり」

「ただいま。疲れたぁ……」

「今夜の夕食は、軽めにしたよ」

「わぁ、有り難い。暑いと食欲もなくなるよね」

「お、良かった。今日は冷しゃぶサラダと焼きおにぎりだよ」


 やった、なんて言葉が自然と出て、逃げるように洗面所へ駆け込んだ。手を洗って、疲れ顔を眺める。あぁもう顔も洗ってしまおうか。そちらを見ないままヘアバンドを手に取り、メイク落としを馴染ませる。こんな風に欲しい物がどこにあるか分かって、居心地の良い居城が出来上がっているんだな。ここに暮らし始めて、もうそれくらいの時が経っていると実感した。

 宏海が結婚しようと言ってから、私たちは綿密に計画を立てた。第一に決めたことは、お付き合いをしてきた相手にするということ。デートをする相手はいるのだと示せれば良いと思っていたが、それを渋ったのは宏海だった。やるからにはきちんと偽装しないと、と。もう結婚だとか家族に言わせないこと。それが二人の目標だから、相手をちゃんと説得しないといけない。当然籍は入れないし、それならば同居はした方が簡単だろう。それが宏海の考えだった。隣室を借りたら良いのでは、と提案はしてみたのだが、そもそも望む立地に好都合に空いているものでもない。タイミングも悪かったのかもしれないが、現実を見て私も決意したのだ。もうこうなれば一蓮托生だ、と。

 そして私たちは、二人で互いの家族に挨拶に行った。仕事のこともあるし、氏名を変えるのが難儀であるということ。ほぼその一点で乗り切ったが、もう子供が出来るわけでもないからと、どちらも結構あっさり認めてくれた印象だ。そしてどちらの母親も、ホッとした笑みを覗かせたのは忘れない。それだけ心配を掛けてきたのだろう。そして偽装であっても、安心させられるという安堵。友人だけれど、他人の距離感を持ってやっていこう。宏海とならば仲良くやっていける気はしていたし、引っ越しをする頃には新しい生活が楽しみになっていた程だ。マンションを借り、今はこうして小さく静かに暮らしている。


「いただきます」


 二人で向かい合って食べる食事にも、随分慣れたものだ。今日あったことを取り留めなく話したりして、そこら辺の夫婦と何ら変わりはないと思う。と言っても、この年の普通の夫婦のそれを知らない。若かったあの頃は、ぽんぽんと会話を投げあって、ケラケラ笑っていたな。それとは違う、温かな時間がここにはあった。


「あ、そうだ。宏海、カメオカって知ってるよね?」

「うん。知ってる。というか、お世話になってるよ。どうしたの?」

「仕事で名前聞いたんだけど、宏海からも聞いたなって思い出して。どんな会社なのかなぁって」


 昼間、サンプルを取りに来た渉から、相手先の会社の話を聞いた。百合も企業理念なんかは似てると言っていたけれど、渉も良い印象だそうだ。販路拡大が望めるのであれば、犬猫以外のトリーツ開発の速度も早めたいなと思った。宏海がその会社を知っているならば、客層など情報を聞けないだろうか。そう珍しく仕事の欲が芽生えたのである。


「カナちゃん、よく覚えてたね。僕の仕事のこと」

「何それ。忘れないよ」

「そう? まぁいいけど。カメオカね。伝統工芸とまでは言わないけれど、僕のような小さな工房を大事にしてくれててね。そういう職人たちの。作品を売ってくれて。それから時々だけど、ワークショップなんかも開いてね。僕も子供に教えに行ったりするんだよ」

「へぇ……知らなかった」


 そうやって宏海は、カメオカのことを教えてくれた。日本製や安全性にこだわり、徐々に徐々に大きくなった会社とのこと。大凡の購買層、系統、売れやすい価格帯。僕のジャンルとはまた違うだろうけど、と熱心に話してくれた。その中から垣間見える宏海の仕事は、私が知ろうとしなかったことばかりだった。この生活を持ち掛けたくせに、随分と怠慢だよな。宏海についてもっと知る努力をしなきゃいけなかった。


「担当営業の人が、基本的には開拓していくみたい。僕の担当は、今は二人いて。池内いけうちくんっていう、こう筋肉ムキムキな子がずっと担当してくれている子で。彼が相談に乗ってくれて、色んな商品が出来たんだ。それから最近、もう一人担当の子が増えたの」

「へぇ。宏海の仕事の話、初めてちゃんと聞いたかも。何か、そんなに忙しいのにさ。毎日お弁当、ありがとうね」

「何、急に。照れるじゃん。いいよぉ。どうせ自分のも作るし。気にしないで」

「うん。あ、そうだ。今日の卵焼き、甘かったね」

「凄い、気付いたんだね。ちょっと他のおかずがしょっぱかったからね。バランスだよ」

「へぇ。若い子に、お弁当褒められちゃった。旦那さん凄いですねぇって」


 どこか自嘲気味だったことは認める。だって、そう言いながら下を向いたのだから。


「凄いかなぁ。でも、世間との形は違えど夫婦なんだから、支え合うのが当然でしょう? たまたま僕が料理が好きだったっていうだけだし。カナちゃんにしか出来ないことも、沢山あるじゃない」

「そうかなぁ」

「そうだよ」


 今のところ、宏海におんぶにだっこであることは否めない。掃除や洗濯といった物は私が担当してやっているが、それでも宏海がこっそりフォローしてくれているのも知っている。よくよく考えれば、私は迷惑しか掛けていないんじゃないか。この生活、宏海にプラスになるようなことはあるのだろうか。表情を崩さないままに、ちょっと落ち込んだ。

 

「卵焼き。カナちゃん好きだよね」

「うぅん、そうかなぁ」

「だと思ってたけど。焼いてる時に来ればいつも見てるし、お弁当の感想言うのって卵ばかりじゃない?」


 え、と箸が止まった。確かに宏海が卵を焼き始めると、ついじっと見てしまう。上手く巻くもんだな。こっそり思っていたけれど、あぁバレていたのか。急に恥ずかしくなった。鼻歌を歌いながら簡単に卵を焼いてしまう宏海。私が何度やっても上手くいかなかった卵焼きが、あっという間に出来上がる。それが、本当に不思議だっただけなんだ。


「カナちゃんは、どっちが好き? 甘いのと、だしが効いてるのと」

「うぅん、どっちかと言えば甘めのかな。でも選ぶの難しいよ。他の料理とのバランスもあるだろうし」

「うんうん。バランスって大事でしょう? ってことは、今朝僕が卵焼きを甘くしたのは、正解だったんじゃない?」

「そうだねぇ。流石宏海だなぁって思ったもん。私なんて、一辺倒の味しか……」


 言いかけて、続く言葉に詰まった。思い出してはいけない。けれど、忘れてもいけない。固く目を瞑り、失敗した卵焼きの記憶を必死に薄める。それは、一生自戒し続けなければならないこと。固まってしまった私に、どうした、と問う宏海の声が優しい。温かな感覚を覚えだが、ぎこちなくも笑うことが出来なかった。

 思い出すまいとすればするほど、記憶が呼び戻される。二十年も前の小さなキッチン。もう、二度と作ることのない卵焼きを。

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