旧神殿都市跡

 巫女たちの朝は早い。


 まだ太陽の昇る前に寝所から出る。

 これより一日、創造の女神アレスティーナに奉仕するために、清らかな身体でなければならない。巫女は目覚めるとまず最初に行水ぎょうずいを行い、次に瞑想で心を整える。

 そうしてようやく朝食になる。

 見習い巫女は、学舎まなびやに併設された共同宿舎の食堂で。一般巫女や家庭のある者は自宅で朝食を摂り、神殿へと向かう。

 季節によっては、それでも太陽はまだ昇っていない、ということはよくあることで、一般の人々が中層の大礼拝殿に朝の参礼へおもむくと、既に巫女たちは政務にいそしんでいる、という日常が当たり前の風景になっていた。


「マリア、眠いよぅ」

「馬鹿者。信者の方々の視線もあるのだぞ」

「あたしは、レイと違って朝は弱いんだよっ。それに、都市の人たちはあたしの寝惚ねぼけ姿なんて見慣れているもんね?」


 傍のマリアに甘えるフェリユに苦言をていするレイ。二人のやりとりに優しい笑みを浮かべるマリアの姿に、早朝から参礼に訪れた人々の視線が集まるのは、その中層の大礼拝殿前の大広場だ。


 巫女たちが、大礼拝殿や大広場を清掃する日常。それとは別に、高位の巫女や神官が顔を並べる非日常的な風景を目にした人々は、誰もが「有難いものを見た」と破顔して、大礼拝殿の中へと入っていく。


 普段、神殿都市の上層部において聖務に就くマリアたちだが、それでも日常的に中層へ赴くことはある。また、時には下層部に私的な用事で出かけることもあった。

 だからだろうか。下層部でもよく姿を見かけるフェリユやマリアの姿は人々に馴染みがあり、神殿都市を代表する巫女長と戦巫女頭という立場でありながら、特別な扱いを受けることも、特殊な視線を向けられるようなこともない。


 そして、マリアが「聖女」と讃えられ、人々から深くしたわれる理由も、こうして神殿都市の人々の身近にその身を置き、苦楽を共有しているからに他ならない。


 しかし、この日は少しだけ、人々から向けられる視線に特別なものが含まれていた。


「フェリユが朝に弱い姿は誰もが見慣れているが。レイ、今朝は貴方が誰よりも目立っているようだ」

「マリア、お前が私を呼び出すからだ」


 そう。現在、大広場を行き来する人々の特別な視線を一身に浴びるのは、聖女のマリアでも綺羅星の巫女と名高いフェリユでもなく、大神官のレイだった。


「レイって、普段は上層部に引き篭りだもんね?」

「フェリユ、訂正しなさい。私は多忙なために、お前たちのように頻度よく下層に行けないだけだ」

「それは、わたしたちが暇人ひまびとということか?」

「マリア、違う。そういう意味ではない」


 やれやれ、と嘆息たんそくするレイ。


「あっ。また、ため息を吐いてる。ほら、巫女たちがそのため息で怯えちゃったじゃないか」


 とフェリユに揶揄からかわれたレイは、困ったように周囲へ視線を向けた。


 神殿都市、東部中層域。大礼拝殿前の大広場には、マリアとフェリユ、そしてレイ以外にも、多くの巫女や神官たちが揃い始めていた。

 中には、薙刀や各種の武器を手にした戦巫女や神官戦士の姿も見て取れる。


「今日は、何かあるのでございましょうか?」


 朝の参礼を済ませた老夫婦が、装備を入念に確認していた戦巫女に問いかけた。

 戦巫女は笑顔で応える。


「はい。これより、旧神殿都市跡の方へ、魔族の討伐に赴くのです」


 ですが、みなさんには何も心配はありませんよ。と老夫婦を安心させるように微笑む戦巫女。

 老夫婦は、最初に驚き、そしてマリアの姿を見て、戦巫女と同じように顔をほころばせた。


「聖女様がいらっしゃるのです。それでは安心ですね」

「はい。わたくしたちもお供いたしますので」


 神職に身を置く者だけでなく、神殿都市に住む者たちの全てが、聖女のマリアを信じている。

 マリアであれば、自分たちを正しく導いてくれる。マリアであれば、魔族や魔物の脅威から自分たちを護ってくれる。

 そして、人々の期待に応えて、マリアは必ず成果を出すのだ。


「それで、マリア」


 早朝の大礼拝殿前の大広場に集う者たちを見渡しながら、レイが問う。


「本当に、魔族の残党が旧神殿都市跡地に集結しているのだな?」

「そう、情報を得ている」


 断言したマリアは、神殿都市の東の先に見える古い廃墟へ視線を投げた。


 神殿宗教の、総本山。神殿都市は、嘗て一度だけ滅びた。

 約五百年前。

 神殿都市に残る有史以来、歴史上最も激しかったと記録される大戦が起きた。

 人族と魔族だけでなく、神族しんぞくや他の種族も入り乱れた、全てが焦土しょうどと化すような大戦だったという。

 歴史学者などに言わせると、三年前の魔族の大侵攻でさえ、嘗ての大戦に比べれは小規模なものだったとされる。


 歴史学者はう。

 当時、神殿都市へ押し寄せた外敵は、十万を越える神族の軍勢と、二人の魔王が率いる魔族軍だったと。


 神族は、自ら「神」と呼称しているが、創造の女神の類縁などではない。

 神殿宗教があがたてまつる女神アレスティーナと神族の間には何も関係は存在しないうえに、神族は神殿宗教を信奉しんぽうしていない。

 それでも、神族が自分たちのことを「神」と呼称する理由は不明であるが、その種族としての実力は、魔族と均衡するものだ。


 そして、魔族と神族は互いに深く敵視し合い、これまでの歴史においても幾度となく種族の生存を賭けるような戦いを繰り広げてきたという。

 その魔族と神族が、其々それぞれの思惑を持って、同時期に人族の国々へと攻め込んできた。

 神族が人族の国々に侵攻した対抗として、魔族が襲ってきたのか。もしくは、魔族の侵略に乗じて、魔族と人族を滅ぼそうと神族が攻めてきたのか。それは、歴史学者にもわからない。

 だが、人族が恐るべき外敵と戦ったことは事実だ。


 巫女王を旗頭はたがしらとし、人族全てが結集して、魔族と神族にあらがった。

 結果、人族は魔族と神族を撃ち破り、文化圏を守り通した。

 それでも、被害は甚大じんだいだったという。

 天上山脈以西は荒野と化し、神殿都市は破壊し尽くされてしまった。

 だが、人々はくじけない。

 長い時間を掛け、人々は神殿都市を復興させた。


 そして現在。

 三年前の魔族の大侵攻にも耐えた神殿都市は五百年前から健在であり、同時に、神殿都市のすぐ東の広野には、当時の激戦をしのぶ古い遺跡が遺っている。


「昨日の今日で、魔族の動きをどうやって捉えた?」


 レイの疑問に、マリアは苦笑で応える。


「それを、わたしに聞くのか? 情報を持ち帰ってきたのは、マリンダだろう?」


 昨日。

 フェリユたちが討伐した上級魔族の鬼が口にした真偽を解明するために、神殿側は広く情報収集を行なった。

 結果、夕刻になってマリンダがもたらした情報により、こうして早朝からマリアたちは集まっているる


 しかし、とマリアの返答にそれでも疑問を呈したのはレイだ。

 レイは、あまりにも早く情報が揃ったことに、違和感を覚えていた。


「マリンダは、引退巫女のディアナ殿からの情報だと伝えたそうだな?」

「そうだ。ディアナは、元々はそういう情報を探る専門家だったからな」

「では、なぜディアナ殿はこれまでそうした情報を神殿側に流さなかった?」


 魔族の動きを感知していたのなら、たとえ引退した身であろうと、神殿へ情報を提供しても良かったのではないか、とレイはマリアに問う。

 それで、マリアは困ったように眉根にしわを寄せて、首を横に振った。


「引退した者が得られるような情報だ。ならば、現役の者たちも掴んでいるだろう、と考えるのは普通のことだろう?」

「しかし……」


 神殿都市内の内政や、こうした情報収集を司る役部は「内政殿ないせいでん」になる。

 しかし、内政殿を司る巫女頭のナタリーでさえ、魔族の動きは把握できていなかった。

 それを、引退した巫女だけが知っていたという。


「まあ、レイの疑問はわかるけどさ。でも、今は内政殿の不備や引退巫女様たちのことを議論している暇なんてないよ?」

「フェリユの言う通りだな。今は、旧神殿都市跡地に集結した魔族を撃退することが先決だ」


 引退巫女が齎した情報によれば、神殿都市の周辺地域に隠れ潜んでいた魔族が、近頃になり旧神殿都市跡地へ集結し始めたのだという。

 そして、外部の魔族たちの動きに呼応して、神殿都市内部に潜んでいた魔族たちも活発に動き始めた。

 鬼種の魔族も、その中で姿を現したのだろう。


「鬼の言葉の真偽はまだ確認が取れていないが、旧神殿都市跡地に集結し出した魔族を見過ごすことはできない」


 火急の問題として、昨夜のうちに作戦が立案された。

 そして、魔族に神殿側の動きを悟られる前に、撃滅する。


 巫女長のマリアを筆頭として、多くの戦巫女や神官戦士たちが戦いに参加する。それだけでなく、支援のための巫女や神官も駆り出され、戦巫女頭のフェリユや司法殿の巫女頭ネイティア、他にも大神官のレイなどか招集された、大規模な作戦となっていた。


「まずは、巫女たちに先行してもらう。大法術によって旧神殿都市跡の周囲に結界を張り巡らせ、遺跡内の魔族を逃さないようにする。レイ、頼むわね?」

「任せておきなさい」


 マリアの指示に、準備を終えた巫女たちが一斉に動き出す。

 巫女を補佐する神官や、護衛の戦巫女や神官戦士たちも一緒だ。

 大神官レイの役目は、先発して旧神殿都市の跡地に向かう者たちの指揮になる。


 レイは大神官としての仕事の他に、結界殿の守護と管理も務めている。

 神殿都市を包む結界は、何よりも大切なものだ。

 神殿都市の内側と外側の魔族がこれまで連携もできずに分断されていたのは、害悪を遮断する大結界に魔族の往来が阻まれていたからだ。

 だが、現在は少し情勢が変わり始めていた。

 魔族の不穏な動きが活発となり、神殿都市の外では更に、残党の集結のきざしが見えるという。

 結界にほころびがあるのではないか。そう提言したレイは、神殿都市の内と外で同時に動き始めた魔族に、深い憂慮ゆうりょを覚えていた。


 やはり、結界の綻びを見つけるて修繕しなければ。でなければ、今回のような事態が繰り返されるのではないか。

 喫緊きっきんの深い問題を浮かべつつも、レイは作戦に身を置く。


 マリアに、作戦の参加を強く要請されたから。

 まずは目先の問題を片付けなければいけないから。

 なによりも、妹のようなマリアとフェリユを側で見守りたいから。

 結界殿の務めよりも、マリアとフェリユの活動を優先させてやりたい。と、私的な感情を浮かべたレイは、自身に苦笑してしまう。

 他人ひとには甘えをなくせと苦言を呈しておきながら、自分も大概に甘い。

 だが、それが人族であり、自分という男なのだと、レイは人として真っ当すぎる感情を、無理やり呑み込む。


 そして、レイは私的な感情から公的な役目へと心を入れ替えると、マリアとフェリユに出立を伝え、先発隊を引き連れて大広場を出た。

 マリアは、レイたち先発隊を見送ると、居残った者たちへと指示を出す。


「次に、わたしたちが内部へと入り、魔族を撃退する」


 どれだけの魔族が集結しているのかまでは、調べられなかった。

 だが、たとえ少数の魔族であろうと、人族には脅威になる。

 そのため、旧神殿都市内に侵入し、魔族と戦う者は、少数精鋭で編成されている。

 それでも、死者は出るだろう。

 それも、目を覆いたくなるような数が。


 だが、魔族の動きを見過ごすことなどできない。

 魔族の暗躍を許せば、これから大勢の民間人にまで犠牲者が広がってしまうのだ。

 先陣を切って出発した者たちを見送った戦巫女や神官戦士たちの表情は硬い。

 それを見て、マリアはきつく瞳を閉じた。


「マリア、大丈夫だよ。みんなが、人々のために命を賭けることをいとわないと覚悟しているんだから。それに、マリアとあたしがいれば、大丈夫!」


 にこり、と笑みを浮かべたフェリユを、マリアは目を開けて、まぶしそうに見つめる。


「これも、わたしの罪だ。わたしが不甲斐ないばかりに……」

「マリア!」


 そんなことは言わないで!

 とマリアの巫女装束を強く引っ張るフェリユ。


「巫女長だからといって、なにも全てを背負う必要はないんだよ。マリアはもう少し肩の力を抜いて、あたしたちを頼ってね?」


 フェリユの諭すような言葉に、周りで表情を固くしていた巫女や神官たちが強く頷く。その姿を見て、マリアはようやく表情から硬さを払う。


「そうだな。わたしだけの存在で世界が回っているわけではないのだ。フェリユやレイや、それにみんなの力を、わたしは信じよう」


 言ってマリアは、残った者たちの顔をひとりひとり見つめていく。

 誰もがマリアに全幅の信頼を寄せて、笑顔を浮かべた。


「それでは、行こうか。魔族を殲滅する」


 マリアの号令に、後続部隊が活動を開始した。

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