第12話

「おい、源の字」「なんだ、市の字」

 市兵衛と源三郎はささやき声を交わした。

「これは完全に本気だぞ」「しかも、説得は通じそうにない」

 そのことを確認し合った途端、ふたりは脱兎のごとく駆け出す。なりふり構わない遁走だ。

「待ちやれ、痴れ者ども」

 本物の殺気をまとう兼次郎に追いかけられながら、源三郎と市兵衛は笑いながら田舎道を全力疾走した。

 その後、いい加減人の往来が現れるまでこの壮絶にして馬鹿らしい追跡劇はつづいた。

 が、さすがに人通りのあるところで火急の折でもないのに駆けるわけにはいかず、繁華な場所についたところで自然と駆け足は解消されることとなる。

「まったく、御両所は子どもですか」

 と兼次郎はいうのだが、

 そういうお前だって本気で走って追いかけてきただろうに――。

 と源三郎と市兵衛は笑いをこらえるのが大変だった。しかし、

「なにかおかしいですか」

 ふたたび本気で兼次郎ににらまれふたりはあわてて表情を取りつくろう。

 と、そんな彼らの前で騒動が持ち上がった。

「これ、武士にぶつかっておいて詫びもなしか」

 浅葱裏(あさぎうら)が怒声を張り上げる。視線は間近、地面に尻もちをついた町人の老人へと向けられていた。その肩にはおびえた顔の子どもがすがりついている。

「も、もうしわけありませぬ、と最前もうしております」

 老人が深い困惑を露わに訴えた。

「武士への詫びがその程度か、ふざけておるのか」

 先ほどの武士の連れらしいほうが怒声をひびかせる。どうも、地方の武士のありようを江都にまで持ち込んでいる田舎者のようだ。二本棒などと武士を嘲る者すらいる江戸においてはなんとも思い違いをしたふるまいだった。

「若、止め立ていたしますか」

 足を止めた源三郎に合わせてみずからも立ち止まった兼次郎が耳元でささやく。

「おぬしはよせ、ことがややこしくなる」

 こちらが命じるより早く足を踏み出そうとした、やる気満々の顔の市兵衛を源三郎は肩をつかんで止めた。町人を下に見ている相手に、岩松家の家来とはいえ百姓の倅が出て行ったらかえって収拾がむずかしくなりかねない。

「なんだよ、それじゃあ俺が目立たねえじゃねえか」

「あのなあ、歌舞伎役者でもあるまいに、どこもかしこもおまえの活躍の舞台ではないぞ」

 源三郎が市兵衛に説教を垂れているうちにことは動いた。

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