第10話
それからしばしののち、江戸在住のふつうの旗本の屋敷の座敷に源三郎の姿はあった。
ここは岩松家の娘が嫁にはいった先で義兄の屋敷だ。岩松家は屋敷の一隅を間借りしてそれを江戸屋敷としているのだ。これもまた一二〇石で交代寄合の格式を守るための悲しさだ。
一室には好奇心に目を輝かせる市兵衛、丸薬で調子を取り戻した喜兵衛と用心棒の巳之助、それに兼次郎があつまっている。
最初、源三郎への目通りを願った相手はよくわからない顔ぶれがつどっていることに戸惑いをおぼえているようすだったが、「この者たちは信頼の置ける家臣でござる」と源三郎に自信を持って告げられてとりあえず納得することにしたようだ。
「実はお頼みしたき儀があって罷り越した次第でございます」
と相手は告げる。屋敷に仕える下男とった風体の老爺は深刻な表情を浮かべていた。
「貴殿が公辺内分守り部なる身過ぎをなされておいでというのはまことでございましょうや?」
「相違ござらぬ」
源三郎は相手の言葉に淡々と顎を引く。同時に気が引き締まった。
「公辺内分、大名の隠し子を守ることを引き受けていなさる」
「さよう」
「されば、尾張家の公辺内分をお守りいただきたい」
源次郎が肯定した瞬間、相手は前のめりの姿勢が言葉に出て早口に声をかぶらせて告げる。
とたん、部屋の空気がちりのひとつに至るまで凍りついた。
公辺内分を殺そうとする勢力というのは往々にして巨大だ。それが尾張家ともなればいわずもがな。
しかも、ついこのあいだまで紀州家と暗殺合戦をくり広げていたのだ。
「お引き受けできませぬ」
最初に口を開いたのは兼次郎だった。毅然とした顔で、一片の希望を持たせない態度で応じる。
「さ、されど」
「武士は確かに命を惜しみませぬ。なれど、こたびの仕事を受ければ家が滅びることになるやもしれませぬ。お家を潰すは武士の恥、できませぬ」
「兼次」と源三郎は小声で話しかける。
「このあいだは、追わぬでよいのかとたずねたではないか」
「こたびと、くだんの折は事情が違いまする。趨勢を見極めることもまた軍法のひとつ」
兼次郎はこちらの言葉を迷いなく斬り捨てた。
したがそれでは――そんな言葉が思い浮かんだ。
岩松家、新田源氏の本流に近い家柄を生かし、公辺内分を家来として処遇することで目に見えぬ鎧を着せ、また剣技でもってこれを守る、この裏の稼業をとりあげられたら、源三郎はただ書を売り歩くだけの、棒手振(ぼてふり)と変わらない存在に堕してしまう。
この瞬間、皮肉なことに市兵衛からの問いかけ『なんで生きてるんだ、おまえは?』という言葉への答えはひとつ思い浮かんだ。
公辺内分守り部として戦うために生きている。理不尽に奪われようとしている者を守ることには大きな充実感があった。
敵が強大だからといって、そこから逃げるのか?
そんな疑問が浮かんだ。しかし、当主でない源三郎には決定権はない。ある意味、お目付役でもある兼次郎の同意がなければ仕事を引き受けることはできないのだ。
だが、所詮はおのれは器――そんな言葉が脳裏をよぎり源三郎は兼次郎にそれ以上、抗弁することはできなかった。
結局、落胆で体を一回り小さくした老爺を見送るしかなかった。
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