第8話
それから半刻ほどのちのことだ。江戸城は大奥の厠。
人払いされたそこに元薬込の広敷伊賀者の姿があり、戸の向こうにはこの日の本の権力の頂点に今や立つ徳川吉宗が方向を受けるためにやって来ていた。
「首尾のほうはどうだ?」
「は、御土居下(おどいした)衆、確かに活発に動いておりまする」
御庭番の言葉に、さようか、と吉宗が憎々しげな声を返す。
正徳六年、四月晦日、七台将軍家継が八歳で没し徳川宗家の血統が絶えるという重大事件が起こった。このため、御三家で上の序列二家の尾張、紀州が熾烈な戦いを水面下でくり広げることとなったのだ。両家では当主の不審な死が相次ぐこととなった。
最終的にこれを制したのが紀州、吉宗。このときの暗闘に用いた薬込役がのちに御庭番となっている、それだけ彼らの働きは大きかったのだろう。
少なくとも、吉宗を将軍の地位につけたのは忍びたちだといっても過言ではないのだ。
他方、尾張徳川家において忍び働きを担ったのが御土居下同心なのだった。
きゃつらこそ、紀州に痛手を負わせた真の敵――ために、吉宗にしてみれば御土居下衆は仇にも近い連中だ。
「して、その目的は?」
「上様に楯突いた責を巡る御家騒動、とも思いましたがどうも気配が違いまする」
「では、なんだともうすのだ、御土居下衆が動いておる事由は?」
吉宗の声にいらだちがにじんだ。ついに将軍の座が自分に、紀州に巡ってきたのだ、これを揺るがすような事柄はできるだけ早急に取り払わねばならない。
「恐れながらもうしばしの猶予をいただきとうございます」
吉宗は広敷伊賀者を怒鳴りつけたい衝動に駆られたがぐっとこらえた。ここで声を荒げたところで腹心の広敷伊賀者の士気をさげるだけだ。彼らが優秀なことは吉宗が将軍の地位につけたことが証明している。彼らが必要だというのならそうなのだろう――自分にいい聞かせた。
そういった感情の流れが、暗闘に次ぐ暗闘の時代からしたがっている広敷伊賀者には手に取るようにわかる。
「ひとつ、お耳にいれたき儀が」
「なんだ?」
「御土居下衆の争いに巻き込まれ、岩松家家中の士がきゃつらと剣をまじえることにあいなりました次第で」
「して、その後どうなった?」
岩松、の名にすこし慎重な声になって吉宗はたずねた。
「は、くだんの士、なかなかの遣い手にて無事に切り抜けましてございます」
「ならばよい」
岩松など所詮は権威しか持たぬ者ども――そう思っているのだろう、と広敷伊賀者は推量する。彼の脳裏には岩松家を巡る“とある風聞”がかすめたが、まさか、という言葉とともにそれを記憶の淵に沈めた。あやふやな話をして主君の心境を悪くしてはつまらない。
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