第6話

   三


 新田屋にはそのまま進むように言い含め、源三郎たちは適当なところで舟を下りた。

 新田屋もさすがは大店の主、心得たもので火急の折とみて事由は聞かず「御武運を」といって源三郎を送り出す。

 天水桶の陰に隠れたところで源三郎は「失礼」と告げるや手拭いを取り出し手早く女性の足首に巻きつけた。見ず知らずの者の過剰ともいえる“親切”に女人は戸惑いを目もとに露わにする。

 が、なにかを決意したような表情を浮かべるや立ち上がった。

「どなた様かわかりませぬが、お世話になりました」

「なに、“何者”でもない者だ、さようにかしこまることはない」

 相手の言葉に源三郎の口から自然とそんなせりふがもれる。短いあいだだが剣戟を交わした、その熱がいまだに心に残っていたせいだ。

「わたくしはとある家中の士に使える細作にございます」

「ほう、道理で美しいはずだ」

 別段下心がったわけでもなく素直に発した言葉だが、「若」という叱責の声とともに近くにいた兼次郎が肘鉄を食らわしていた。さ、さすがにやり過ぎ、そのせりふは息が詰まって発することができない。

「されば、これ以上側におりますれば災禍を招く仕儀となりましょう。仁徳を心得た仁をこれ以上巻き込むことは心苦しゅうございます。どうぞ、これ以上はかかわりませぬよう」

「なに、あやつらとのあいだにはだいぶ距離が空いた。追いつかれることは」

「いえ。あの者どもは人を尾行(つけ)るための術(すべ)を教え込んだ犬を使っております。そのうちに追いついて参りましょう」

 そう女性が告げた瞬間、どこからともかく犬の遠吠えが聞えてきた。

 たんに野良が哭いただけという公算も充分にあったが折が折なだけに偶然では片づけられない心の働きがある。警戒心が首筋を寒くした。

「なれど、そなたは手負い。また、いくらなんでも独りで渡り合うのはむずかしかろう」

「わたくしの目的はきゃつらに勝つことではありませぬ。逃げ切ることが肝要なのでございます」

 しからば御免、と女性は物陰かが躍り出て音を殺して移動していく。

「若、追わぬでよろしいのでございますか?」

 兼次郎が女性の消えた方向と源三郎のあいだで視線を往復させながら険しい顔をした。

「無理強いは、できぬ」

 源三郎としても彼女の身を案じる心持ちはある。

 だが、決死の覚悟を固めた相手に「助太刀はいらない」と遠まわしにいわれてしまえば、“器”にしか過ぎない源三郎はそれ以上踏み込む気持ちがわいてこない。

 若、と兼次郎がなにかをいいかけたところで、路地裏に孤影(こえい)が飛び込んできた。闇のなかだというのに狙い違わず喉元を狙ってくる襲撃者、牙を剥いた犬の鼻先が源三郎の眼前に迫る。

 闇に光が瞬いた。抜き打ちの一閃が生んだ光芒だ。

 とたん、犬の胴と頭が別れる。それでも勢いのせいで肉薄する犬の頭を電光の速度で動かした前腕で源三郎は弾き飛ばした。

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