「知らんけど」
流行り言葉をどうしても受け入れられないことが、
年齢を重ねる度に増えている。
(僕はまだ37歳の若輩者ではありますが・・・)
「知らんけど」
僕はこの言葉が本当に苦手だ。
会話の尾にこれを言うだけで、
積み重なった物語や情熱が全て削ぎ落とされてしまう様に感じる。
実に切ない言葉であり、
流行り始めたころ、まだ日本語にはこんな使い方があったのかと驚いた。
しかし僕はたった一度だけ、
この言葉を念じてしまったことがある。
今でもとても後悔しているし、
もう2度と使わないとその時に誓った。
その日のこと。
※
深夜2時頃、部下から直接僕の携帯に着信があった。
彼の奥さんが死産したという報告だった。
実は医者から勧告に近いものが数日前にあり、
奥さんはずっと疲弊していた状況だったという。
そして勧告通りお腹の中の赤ちゃんは
この町に生まれてくることができなかった。
部下の彼は新人でこの街に移り住んでまだ数ヶ月、
年齢も僕より随分と若いこともあり社会経験も乏しい。
死産の届出の事や、胎児のご遺体の保管の事、葬式や火葬の事、
その全てがわからないと言う。
言葉を詰まらせながら必死に話す彼が、
慣れない街で全てを孤独に段取りするのは酷だと感じ、
明日以降のことは気にせず、数日休んでもらうように伝えた上で、
「君のやるべき手続きの事は僕が調べて折り返す」と伝えた。
身内の不幸は少しばかり経験しているが、
その町のやり方に順ずる事も多々あることは知っていた。
すぐに役所の深夜窓口に問い合わせてはみたものの、
担当者も専門ではないのでよくわからない・・・
の一点張りで歯痒い回答だった。
僕もこの街に住んでまだ1年程だった。
途方に暮れて無力を痛感していた僕に、
2人の救世主が現れた。
1人は病院の看護師。
遺族の会社の上司であることを伝えると院の規則に反して、
明日赤ちゃんの遺体の引き渡しがあること、
胎児の遺体は溶液に浸した状態で引き渡され、
火葬までの時間ドライアイスが必要な事。
火葬場の予約は役所を通して行い、
必要な死産の証明書はすでに準備がある事。
それらをわかりやすく懇切丁寧に教えてくれた。
もう1人は近くの葬儀屋の人。
死産の場合、葬儀はしなくても良いのではないかという。
遺体が胎児の場合、棺はあえて買う必要もなく
両親の想いを込めた箱であれば良い事。
ドライアイスは葬儀屋に多少蓄えがあるので
いつでも取りに来てくれて構わないということ。
夜中に突然電話で助けを求められたにもかかわらず
親身に話を聞いてくれる2人には心底頭が下がる一方だった。
命を扱う仕事を生業にする人の声はこの上なく優しい。
僕は部下に折り返し連絡をして、
たった今、恩人2人に教えてもらった事を要約して伝え、
彼がすべきことをゆっくりと時間をかけて
「ドライアイスは僕が送り届けるので赤ちゃんを引き取ったら教えてほしい」
と伝え電話を切り、
想像し難い試練に見舞われた彼の事を思うと
その日は眠れなかった。
朝になり、
彼の開けた穴を埋めてくれるバイトをなんとか見つけ出し
彼の同僚の社員も協力してくれたおかげで
その先のシフトもなんとか繋ぐことができた。
彼も遺族として、そして父としての手続きをなんとか終えて、
赤ちゃんの火葬は急遽、本日の夕刻に行うことになった。
僕は葬儀屋へ電話し、昨晩の恩人へ感謝を伝え、
ドライアイスを予約をして、後ほど取りに行くことを伝えた。
締切のあった仕事を急ピッチでなんとか形にして
さらには雪道の運転で神経をすり減らし、
昨晩からろくに寝ていない僕の目は
葬儀場へ着いたのは既に日が落ちていた頃だった。
葬儀場の駐車場はがらんとしていて、
どうやら今日は葬儀が行われてないらしく、
閉館の札がかかっている。
ホールの受付には誰もいない。
2度、3度と呼んでも返事はなかった。
仕方なくエントランスから正面に見えた立派な二枚扉を開け、
微動だにしない空気の溜まった無音の空間に足を踏み入れる。
オレンジ色の非常灯だけが灯った部屋の中には
線香の香りが染み付いていて、
白衣を纏った老人が棺の中に横たわっているのが見えた。
どうやら女性らしいことが、正面に大きく祀られた戒名らしき札から分かった。
僕は突然広がった光景に立ちすくみ体が硬直した。
かじかんだ指先と、寝不足が祟ってますます朦朧としながらも
僕は棺に不用意に近づいてはならないと思い、
その場で手を合わせ、棺に向かって黙祷を捧げた。
「ご冥福をお祈り申し上げます」
気の利いた言葉をなんとか探してはみたが、
結局それしか心の中で言えなかった。
黙祷していると、突然後ろの扉が開く音が聞こえた。
手を合わせたまま驚いて振り返ると葬儀屋の女性スタッフがいる。
「あの・・・・ドライアイスを・・・取りにきました」
言葉は咄嗟に出た。
「えーーと・・・(なぜ?)」
と、困惑した表情でスタッフの女性は言葉を失っている。
同じく言葉の出ない僕は強く念じた。
(知らんけど)
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