きみと息をしたくなる

夢月七海

きみと息をしたくなる


 ひんやりと、金属ほどの冷たい何かが額に当たった。僕は布団の上で目を閉じ、夢うつつのまま、それを感じている。

 丁度、熱を出した子供を看病する母のような仕草だった。ただ、その手はとても小さく柔らかい、幼子のものなので、立場が逆のように思えるが。


 —―永遠を司る者よ――


 そんな声が聞こえた。いや、声ではないのかもしれない。届いたのは、心の中だったから。


 —―私と貴方はどこか似ている――


 はあ、と、心の中で返事をする。唐突にそう問いかけられても、そもそもあなたは誰なんですかと聞き返したい。ただ、なぜだか、その声が呼ぶ「永遠を司る者」が、自分のことを指しているという確信だけははっきりとあった。


 ——だから、貴方の力を目覚めさせてあげよう――


 —―貴方の魂の奥で眠る、幸福を呼び込む力を――


 なんですか、それは。一方的に話しかけられて、ますます混乱する。しかし、声の主は僕の疑問には答えてくれない。

 直後、僕の額に当てられた手が、少しずつ熱を帯びてきた。それは、火傷するほどの熱さではなく、まるで、春の太陽のようなもので……。






   □






 ぱちりと、瞼から音がしそうなくらいに、自然と目が覚めた。障子越しに入ってくる朝日。真横から聞こえてくる、男性の大きないびき。

 ああ、そうだ、旅館に一晩泊ったんだった。ふいに、そんなことを思い出す。布団を押しつつ、身体を起こすと、浴衣姿の先輩編集者の前田さんが布団を蹴飛ばして、大きく足を広げたまま寝ていた。


 枕元に置いた時計を見ると、もうすぐ朝の七時半だ。モーニングコールの時間まであと十分ほどあるから、前田さんを起こさないように気をつけながら、布団を出る。

 そっと障子を開けると、大きな窓の向こうに、朝日で洗われたように鮮やかな紅葉の山が見えた。晴子にも見せてあげたいな。取材旅行で来ていたのに、そんなことを真っ先に思ってしまう。


 居間に戻り、ポッドでお茶を入れて飲んでいると、モーニングコールが鳴った。三回目のコールで、やっと前田さんはイヤイヤ起き上がり、受話器を取る。

 「ああ」「はい」と辛うじて聞こえる声で旅館の女将さんに相槌をして、前田さんは受話器を置いた。それでも起きずに、布団の上でグダグダとしていたけれど、顔を上げて、すぐ傍で見ていた僕に気が付いた。


福寿ふくじゅ……お前、起きていたんか」

「はい。おはようございます」

「おはよ……。目覚め良いんだな」

「はあ。普段はそうでもないんですけど」

「そうか? 環境のせいか?」

「かもしれません」


 喋っているうちに頭が冴えてきた前田さんは、「よっこいしょ」と言いながら、布団の上に立ち上がった。そうして、ぐるりとこの部屋を見渡す。


「昨晩と変わったところ、は、なさそうだな」

「そうですね」


 さっきまであんなにだらけていたのに、もう仕事モードに入っている前田さんの方が寝起きいいんじゃないかと思いつつ、僕も部屋を眺めながら頷く。窓を開けて、お茶を入れる以外に、朝起きて僕がしたことはないので、物が動かされた形跡もない。

 そして、前田さんは自分たちの方を向くように置かれた、部屋の角のビデオカメラを見た。三脚で立たされた家庭用カメラは、今も赤い点の光を放っている。


「カメラに期待しても無駄だろうな」

「そもそも、家庭用の機能じゃあ、夜中も撮れていませんよ」

「しょうがねぇだろ。会社があれしかくれないんだから」


 僕の不満を、いつもの一言で切り捨てて、前田さんはビデオカメラを片付けだす。口ではあんなに言っていたのに、あの人は後日ちゃんと最初から最後まで映像を確認することを、僕は知っている。

 そこそこ売り上げているオカルト雑誌を、僕らは担当している。今回は、座敷童が出る部屋として有名な、この風情ある旅館を取材していた。ただ、河童やツチノコは未確認生物の可能性があるけれど、座敷童のような目に見えない存在を、僕はほぼ信じていなかった。


「福寿は一晩泊ってみて、何か異変を感じたりしたか?」

「……いいえ、特には」

「そうだよな」


 ビデオカメラを専用の鞄にしまって、先輩は乾いた笑い声をあげる。僕が嘘を吐いたことなんて、微塵も疑っていない様子だ。

 子供に額を触られて、語りかけられる夢のことを、僕は黙っていた。座敷童の存在を認めたくないとか、僕の方が取材対象になってしまうとか、そう言う理由ではない。この出来事は、自分の胸の中にだけ閉まっておいた方がいいという、謎の直感だった。


 座敷童がいるという証拠は見つけられなかったが、せっかくだからチェックアウト前にひとっ風呂浴びてこようということになり、僕らは露天風呂に向かう準備をした。互いに着替えの準備をしながら、前田さんの引いた当たりの取材――とある心霊スポットの廃墟に入った話をしていた。


「もう、すごいんだ。床全体でミシミシ言っているし、棚は次々倒れてくるしで、死ぬかと思った」

「へぇ、そんなはっきり心霊現象って、起こるんですねぇ」


 身振り手振りで教えてくれる前田さんの背中を追いながら、気のあるような返事をする。オカルト雑誌の編集部に配属されて二年、前田さんのような当たりを引いたことがないので、幽霊譚は誇張されているんじゃないかと冷ややかに思っていた。

 ……部屋を出て、襖を占める直前、誰かと目が合ったかのように室内をしばらく凝視したのも、きっと気のせいだと思う。いや、気のせいに違いない……。






   □






 ガラガラと、キャリーバッグを引きながら、商店街を歩いていた。一泊二日の取材旅行からの帰路、駅から住んでいるアパートの途中にある商店街の中に僕はいた。

 夕暮れ色の空の下、平日の商店街は買い物客で溢れている。お店の人がお客さんを呼び込む声、主婦同士のおしゃべり、自転車のベルの音……どこからか、カレーや揚げ物の匂いも漂ってきて、五感が忙しい。


 テレビのニュースでは、大型スーパーがあちこちにできて、こういう商店街の利用客は少なくなっていると話していたが、それを疑ってしまうほどの賑わいだ。旅館の周りの温泉街も悪くなかったが、いつも目にしている人の営みを見ると、帰ってきたなぁという実感がある。

 さて、その商店街の小道を抜けて、しばらく進むと、二階建てのアパートが見えてくる。アパートと言っても、三年前に完成したので結構新しい。そこの二〇一号室が、今の僕らの家だった。


 キャリーバッグを運びながら階段を上るのに苦心していた。こういう時、エレベーターがついていたらと思ってしまう。踊り場で一休みしていると、下から勢いのいい足音が響いた。

 振り返ると、野球のユニホーム姿の少年だった。隣に住んでいる現在小学二年生の北条ただし君が、リトルリーグの練習を終えて帰ってきたのだろう。たくさん練習したはずなのに元気が有り余っていて、笑顔のまま小走りで通り過ぎていく。


「こんばんは!」

「こんばんは」


 あまりに早いので、相手の挨拶に返すので精いっぱいだった。きっとおなかを空かしていて、早く夕食を食べたいのだろう。流石に、母親から、お隣の口髭のおじさんとは、仲良くしないようにと言われているとかはないと思うが……。

 残りの階段もえっちらおっちら上り切り、懐かしの我が家の前まで帰ってきた。鍵を回して、玄関を上げる。うちの匂い、としか言い表せない香りに、二度目の安堵を覚える。


「ただい、ま……」


 だが、ドアが開いて、部屋の中身が見えた瞬間、言葉を失った。靴箱や台所の戸棚も開いて、中身がすべてひっくり返されていたからだった。

 まさか、僕が旅行中に泥棒に入られたのか? そんな疑念に血の気が引いていく中、奥の居間の押し入れから、一人の女性の頭が出てきた。


「あ、おかえりー」


 一緒に暮らしている恋人の晴子だった。彼女の様子が、あまりにもいつも通りなので、逆に混乱してしまう。


「え、これ、どうしたの?」

「ごめんごめん。ちょっと探し物していてね」


 我が家に足を踏み入れながら尋ねると、晴子は苦笑しながら理由を話してくれた。事件が起きたわけではなかったので、ほっとするけれど、気になることはまだある。


「何探してるの?」

「イヤリング。週末、同窓会があるから、着けていこうと思ったんだけど……」

「最後にそれを見たのはいつ?」

「ここに引っ越してきたばかりの時には、ちゃんとあったから、もう三年前かな……。あ、いいよ。疲れているでしょ?」


 キャリーバッグを置いてから、僕もイヤリング探しを手伝い始めたので、晴子が慌てる。「平気平気」と答えて、上の押し入れにある冬物用の衣装ケースを下ろしていく。


「どんな形のイヤリング?」

「ちょうちょの形」

「もしかして、これかな?」


 僕が取り出した衣装ケースの一番下のセーターの上に、小さな箱が乗っているのを見つけて、開いてみた。金色に縁どられた蝶が羽を広げた形のイヤリングが一組、中に納まっている。

 晴子も横から覗き込み、「それ!」と声を上げる。僕から手渡されたその箱を、大切に手で包んだ。


「そのイヤリング、僕がプレゼントしたものだったよね。確か、同棲する直前の君の誕生日に」

「そうそう。すっごく大切なものだったから、見つからなくて焦っていたの」

「そういう割には、三年間ほったらかしみたいだったけれど……」

「あの、こういう機会じゃないと、中々付けられないから……」


 レストランの見習いシェフの晴子は、仕事中にアクセサリーを付けるのを禁止されている。プライベートでも、中々着飾らないため、同窓会のような行事ではないと、あまりイヤリングをつけなかった。

 僕もそれを知っているので、「うそうそ、冗談だよ」と言って笑うと、彼女も微笑みを返してくれた。これをプレゼントしたころは、まだ付き合いだして一年ちょっとだったので、晴子があまりファッション好きではないことを知らなかったなぁと、しみじみ思いだす。


 晴子はイヤリングを隣の部屋にあるドレッサーに仕舞いに行った。僕は、目の前にある衣装ケースをはじめ、押し入れの中身を片付け始めた。

 部屋から出てきた晴子が、僕の様子を見て、目を丸くする。旅行から帰ってきたばかりの僕に、こんなことをするのは申し訳ないと感じているようだが、台所の方を振り返っている。


「大丈夫だよ。こっちの部屋をご飯食べられるように片付けるだけだから。夕食の準備したいんでしょ?」

「ごめん……。簡単でいいからね」


 彼女はペコペコ頭を下げながら、台所へ向かった。今日一日、お店が定休日だったので、色々できたはずなのに、夕食の準備が遅くなっちゃったのは、不器用な晴子らしい。

 台所からフライパンを振る音がする。しばらくして、スパイシーな良い香りも漂ってきた。丁度僕の片付けもひと段落したころ、晴子は二つの大皿を持って居間へ来た。


「はい、お待たせー」

「おお、おいしそう。でも、そぼろご飯に目玉焼き載っているって、珍しいね」

「そぼろご飯じゃないよ。ガパオライスっていう、タイの郷土料理」

「へえ。タイもかまぼこ食べるんだ」

「あ、それは私のアレンジ。かまぼこが冷蔵庫に残っているから」


 照れ笑いをしながら、ナスと人参の炒め物を運んでくる晴子。この一品も、冷蔵庫の残り物で作ったのだろう。

 洋食専門のレストランで働いているけれど、晴子はいろんな国の料理を作る。そこに、自分の色も付け加えるが、それもちゃんと調和している。ただ、初めて食べる料理は、レシピ通りであってほしいと思う事もあるけれど。


「いただきます」

「いただきまーす」


 声と手を合わせてそう言って、スプーンでガパオライスの一口目を食べる。ご飯とひき肉と赤ピーマンにかまぼこという、不思議な組み合わせで少しスパイシーだけど、どこか舌に慣れた感覚もある。晴子の料理だと、一瞬で分かる味だ。

 野菜炒めからも、その味がする。見習いシェフだからと晴子は謙遜するけれど、すでに自分らしい味付けを手にしている彼女は、すごいなぁと尊敬している。


「旅館、どうだった?」

「いいところだったよ。山の中にあって、紅葉に囲まれてて。とても静かだけど、時々、鹿の鳴き声が聞こえるんだ」

「いいね。こういうところに行けるのは、役得だね」

「きみにも見せたかったよ。仕事用の写真は撮ったけれど、個人用のカメラを持っとけば良かったなぁ」

「買えるお金ないのに」


 にこにこしながら晴子が言う。僕としては甲斐性が無くて申し訳ないが、彼女の声に非難する様子はなく、脇をくすぐっているかのような軽さだ。その分余計に肩身が狭くなり、もっと出世したいと思う。


「それ以外はどうだったの?」

「どうって?」

「そこ、座敷童が出る旅館だったんでしょ? 見れたの?」

「まさか。気配すらなかったよ」


 晴子には、あの夢の話をしようかなと思っていたのに、口を開いた瞬間に否定の言葉が出て、自分でも驚いてしまった。同棲してから、晴子に隠し事など一つもないのに、我ながら訳が分からない。


「そうよねぇ。そう簡単に、座敷童には会えないよねー」

「……ああ、うん。きみは、会ってみたいの?」

「会ってみたいというか、幸運パワーを授けてもらいたいね」

「そんな、神様じゃないんだから」


 箸を持ったまま、晴子が手を組んで祈るようなポーズをとるので、僕は苦笑してしまう。幽霊や妖怪は信じていないけれど、運勢を良くするようなおまじないや占いを信じるという、少々現金なところが彼女にはある。

 ただ、取材前に読んだ資料には、座敷童が出て行った後に家が傾いた、あるいは滅んだという話がいくつもあった。妖怪も神様も、幸運を呼び込めば祟りもする、表裏一体の恐ろしさがあるのだが、良い結果の占いしか信じないタイプの晴子にはピンとこないだろう。


 夕食後、晴子は食器を洗い、僕は散々散らかった部屋の中をきちんと片付け始めた。台所から戻ってきた晴子は、居間をぐるりと見まわして、不服そうに口を尖らせる。


「健也が片付けると、最初より綺麗になってる」

「適材適所だよ」


 家事がひと段落して、僕が先に入浴することになった。いつもはじゃんけんで順番を決めるけれど、晴子が「長旅から帰ってきて疲れているだろうから」と、一番風呂を譲ってくれた。有り難い限りだ。

 髪の毛をタオルで拭きながら戻ると、晴子は愛読しているエンタメ雑誌を捲っていた。しかし、その顔は珍しく険しい。


「何読んでるの?」

「あ、これ、見て見て」


 テーブルの上に広げて置かれた雑誌には、晴子の好きな新人ミステリー作家の新作と、その出版を記念した講演とサイン会の記事が載っていた。会場はいくつかあるけれど、その中の一つが、このアパートからほど近い大型書店だった。


「いいじゃないの。行ってきたら?」

「でもねぇ、これ、抽選なんだよ。まどり先生、これの前の作品で賞採ったから、人気も出てきて、きっと倍率高いよ」

「そうはいっても、宝くじよりかは低いでしょ。応募だけでもしてみたら?」

「ただ、私、こういうの一度も当選したことないんだよね」


 ため息を吐く晴子を見て、僕はある事を思い立った。


「僕が送ろうか?」

「あ、いいの? こういうの得意なの?」

「いや、やったことないけれど、なんだか当たりそうな気がして」

「何それ。座敷童パワー?」

「座敷童は関係ないよ」


 からかうように晴子は笑ってくるが、僕は結構本気だった。髪を拭き続けながら、葉書はどこにあるんだっけと探し始める。

 僕が葉書を見つけて、記入を始めた頃に、晴子はお風呂に入りに行った。ただ、僕の名義で書いているが、「好きな作品」などの所は晴子に訊いてみようと思ったので、書くところが無くなってしまった。何となく、その新作の情報を読んでみる。


「あれ。本当に書いている」

「もちろん。約束は守るよ」

「約束した覚えはないんだけどなぁ」


 お風呂から上がってきた晴子は、テーブルの上の葉書を見て、目を丸くしていた。半分冗談だと思われてたのが心外なので抗議すると、彼女は苦笑しながら、髪をドライヤーで乾かすために、隣の部屋へ行った。

 それが終わり、僕の目の前に座った晴子からインタビューする形で、葉書の抜けているところを埋める。その話を聞いていると、どれだけ晴子がその作家のことを高く評価しているのかがよく分かった。


「その作家のこと、すごく好きなんだね」

「うん。ドイルに並ぶくらい」

「そんなに? でも、今度の新作は、今までと大分毛色が違うみたいだ」

「そうそう。ファンタジーミステリーに初挑戦、だって」

「何度生まれ変わっても、必ず出会う男女の物語、って、意外とベタだね」

「あらすじだけ見るとそうだけどね、絶対どんでん返しがあると思うよ。前世の恋人だと思っていたら、実は全くの別人だった、とか」


 真剣な表情で、まだ読んでもいない小説について力説する晴子。それを見ていて、僕は心の中がざわついていた。具体的に言うと、彼女の姿というよりも、「何度生まれ変わっても、必ず出会う」とか「前世の恋人」などの言葉に……。


「ねえ、もしも、私たちが急に離れ離れになっちゃったら、どうする?」

「なんとしてでも探し出すよ。また会えるように」

「ふふ。そう言ってくれるなんて、私は果報者だなぁ」


 僕は力説したが、晴子は本気にしていないようだ。それでも、彼女が笑ってくれたから、それで構わないとも感じる。


 夜も更けてきたので、僕らは寝る準備をする。葉書は、明日の出勤の際に出すと約束した。

 寝室として使っている部屋は、タンスやドレッサーとかも置かれていて、とても狭い。二人分の布団を敷いただけで、ぎちぎちになってしまう。子どもができたら、もっと広い部屋に引っ越さないとなぁと、寝転ぶたびに思う。


 天井からぶら下がる丸型蛍光灯の豆電球だけを点けて、目を閉じた。周囲も住宅街で、この時間はすでに静かだけど、時々アパート近くの道路を走る車の音がする。

 眠りの淵に落ちかけていたのを、口髭が触られた感覚で、起きてしまった。見ると、僕の口髭を晴子が人差し指で撫でている。ぼんやりとした視覚で、晴子の顔を見て見ると、意外と真剣な顔をしていた。


「……どうしたの?」

「うん。なんか、伸びたなって思って」

「伸ばし始めてもうすぐ半年だからなぁ」


 やりたい雑誌ではないものの、オカルト系の雑誌の編集に関わることになって、そうして一番感じたのは、殆どの人に嘗められている、という事だ。実際、二十七歳という年齢に加えて、童顔なのが原因だろう。

 それを克服するために、口髭を蓄えて見ることにした。正直、あまり評判は良くない。似合っていないと言われることも多い。だけど、晴子だけは否定しなかった。


「髭、似合っていると思う?」

「ううん。不釣り合い」

「なんだよそれ」

「でも、年取ったら、きっと似合うと思うから、それまで我慢する」

「何年くらいかかるかな」

「三十年じゃない?」

「なんだよそれ」


 非難というよりも、笑いながらそう言うと、彼女も一緒になって笑った。と思ったら、「息がこそばゆい」なんて言い出す。


「三十年後、健也が髭の似合うダンディなおじさまになるまで、ずっと息をしていたいな」

「……僕も、きみと息をしたくなるよ」


 愛おしさがどうしようもなく溢れてしまい、僕は唇を突き出して、彼女の指にキスをした。晴子は、堪えきれなくなったかのように、声を出して笑いだす。


「健也って、実はキス魔だよね。酔っているとか関係なく」

「実は、こんなにキスするのは君だけなんだ」

「そんなキザなセリフも言えるんだ。髭の効果?」


 晴子は身をよじりながら、指を引っ込める。この上なく楽しそうで、僕は事実なんだけどなと、少しだけ不服に思う。まあ、言ってから恥ずかしくなってきたから、このくらいのリアクションの方がいいのかもしれない。

 もう一度、「おやすみ」を言い合って、僕らは目を閉じる。隣の晴子の囁くような寝息と共に、今度こそ僕も、眠りに落ちていく。


 ……明日がどんな一日でも、晴子にありったけの幸福が降り注ぎますように。


























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