約束の金曜日の、放課後。

 克茂の家の居間では、誠と千明、田中の三人での勉強会が始まった。

 もちろん、克茂は出かけていて留守だ。

 とくに変わったこともなく勉強を進めていて誠が気づいたのは、千明は思っていた以上に勉強が苦手ということだ。

「お前、よく南青(なんせい)入れたな」

 三人が通っている南青(なんせい)高校は、県内でも有数の進学校だ。

「南青高校に受かれば、じいさんの家で暮らしてもいいって父さんに言われたから、頑張ったんだよ」

 へへ、と千明が笑う。

 もしかしたら、千明の父親は彼に祖父の家で暮らすのを諦めさせようとして、南青高校に受かったら、という条件を出したのではないだろうか。

 そんな風に思ってしまうほど、目の前の彼は少しも問題が解けていない。

「でも世良君は、理解力はあるから。勉強すればすぐできるようになるよ」

 田中がそうフォローするものの、千明からはやる気が感じられない。同じ問題をぼーっと眺め続けてはあくびをする始末なので、耐えかねた誠が口を開いた。

「じいさんにテスト見せるんだろ」

「うん、隠したら絶対に怒られるし。でも見せても怒られるんだよなぁ」

「なら勉強しろよ」

「けど俺的には南青に入れた時点で目標達成っていうか、それ以上のやる気はでないっていうか」

「じゃあ怒られても自業自得だな」

 えぇー、と言いながら、千明がちゃぶ台にだらんと頭を乗せる。

 そんな二人のやり取りを見ていた田中が、思わず口を挟んだ。

「成瀬君って、なんていうか、容赦ないね」

 面と向かって言われて、誠は、どう返していいのかわからなかった。まあな、とか言って適当に流せばそれで済むはずなのに、思わず黙ってしまったせいで妙な空気に流れてしまい、しまった、とまた後悔する。

 しかし千明はそんな空気に少しも気づいていないのか、平然と田中に笑いかけた。

「正直で気持ちいいでしょ」

彼の笑顔に気圧されたように、ごめん、と田中が小さな声で呟いた。

 会話が途切れ、なんとなく気まずさを感じた誠は、二人から視線をそらした。その目線の先で、畳の上に置かれている千明のスマートフォンの画面が、音もなくぱっと明るくなる。

 誰かからの着信だろうか。

 千明も気づいたようで、スマートフォンを軽く持ち上げて画面を確認する。そしてそのままズボンのポケットにスマートフォンを入れた。

「ちょっと休憩しよっか。じいさんが用意しといてくれたお菓子があるから、持ってくるよ」

 千明が立ち上がると、田中が慌てて身を乗り出した。

「ま、まだいいよ。始めてからそんなに経ってないし、もう少しあとで」

「気分転換したほうがいいでしょ。ついでに飲み物も持ってくるね」

 そう言って部屋を出て行く千明を、田中はもう止めなかった。その代わり何も話さないし、うつむき気味に座ったままで動かない。

 ますます気まずくて、誠は逃げるように立ち上がった。

「トイレ行ってくる」

「あ、うん」

 田中は少し顔を上げて、頷いた。

 廊下に出て襖を閉めた誠は、玄関近くにあるトイレではなく、反対方向の台所へ向かう。

 すると、ちょうど台所から出てくる千明の姿が見えた。廊下に出た彼は誠に気づくことなく、居間とは反対のほうへと歩いていく。

 誠はあまり足音を立てないように気をつけながら、彼のほうへ駆け寄った。

「何かあったのか」

 千明は振り返ってくるなり、たずねてくる。

「田中君は?」

「居間にいる。俺はトイレって言って出てきたから」

 だが誠は、トイレに行くつもりはなかった。居間を出て行く前にスマートフォンを見ていた千明が気になって、追いかけてきたのだ。

 ちらりと、千明が廊下の向こうを見る。そこには誰の姿もなく、田中が居間から出てきそうな様子もない。

「じいさんから連絡がきた。田中って人が店からいなくなったって。だから、来るかもしれない」

「え、来るって」

 ガタ、と、どこかから物音がした。

 一緒に勉強会をしている田中がいる居間のほうではない。明らかに違う方向からだ。

「誠は居間で田中君と待ってて」

 千明がスマートフォンをズボンのポケットに戻した。

「俺も行くよ」

「だめ、待ってて。危ないかもしれないから」

 玄関へ向かおうとした千明が、一歩踏み出してところでぴたりと足を止める。振り返った誠も、はっと息をのんだ。

 居間にいるはずの田中が、いつの間にか目の前に立っている。

「行かないで。今行くと、危ないから」

 田中は必死だった。ここを通り抜けられたら死ぬとでも言わんばかりの顔で、二人の前に立ちはだかっている。

「誰に頼まれたの?」

 千明の問いかけに、田中がびくっと肩を揺らす。

「俺たちを外へ行かせないようにするために、勉強会しようって言ったんだよね。違う?」

「それは……その」

 田中の顔は真っ青だ。

 まるで、何かに怯えているかのように。

「今の君に“悪意”がないのはわかる。けど、君に構ってる暇はないんだ」

 普段は愛想がよく誰にでも優しい千明だが、その仮面が外れると、興味のない相手に対して一気に冷たくなる。

 だから彼は、田中が明らかに様子がおかしいことに気づくことなく、横を通り過ぎて行ったのかもしれない。

「ま、待って! 行ったら酷い目に遭うから! 僕も君もっ……」

「酷い目に遭ってるのか?」

 千明を止めようとしていた田中が、誠を振り返ってくる。

「脅されてるのか。田中って男に」

 大きく見開かれた田中の目が、真っ直ぐに誠を見ている。その目は恐怖に満ちていて、ついには体もがたがたと震え出す。

 こんな状態の彼を一人にするのは心配だが、千明を放っておくわけにもいかない。

 誠は田中に近づくと、彼の肩に手を置いた。

「とりあえず部屋で待ってろ。俺たちは大丈夫だから」

 そのまま彼の横を通り過ぎて、誠は千明のあとを追う。玄関に置かれていたサンダルを適当に借りて外へ出ると、家の裏へと歩いていく千明の姿が見えた。

 彼が向かったのは、敷地内に立っている蔵だった。

 蔵の戸の前で追いついた誠に、彼は地面を指さした。

「見て。壊されてる」

 ハンマーのようなもので叩かれて壊された南京錠の残骸が、地面に落ちている。

「店からいなくなった田中って人がここに来るつもりなら、先に行って待ち構えていようと思ったんだけど」

「もう来てるみたいだな」

 誠の言葉に、千明が頷く。

 鍵の壊された蔵の戸を、千明が押し開けた。ギ、と音を立てて重々しく開いた戸の向こうは、真っ暗だ。

 パチ、と千明が壁のスイッチを押した。二、三度光が瞬いたあと、天井に灯った明かりで蔵の中がほの明るく照らされる。

「うわ、なんだこれ……」

 思わず誠が呟いた。蔵の床には、棚に置かれていたのであろう冊子や道具が無造作にばらまかれている。

「だいぶ探し回ったみたいだね」

 千明が辺りを見回しながら確認する。その背の向こうで人影が動いたことに、誠は気づいた。

「千明!」

 誠の声に、千明が背後を振り返る。

 本棚の影から出てきた見知らぬ男は、手に大きめの金槌(かなづち)を握っている。

 おそらくこの男が、店からいなくなったと克茂から連絡のあった、田中だ。

「薬はどこにある」

 金槌を片手に、田中が脅すように睨んでくる。

 千明は平然と答えた。

「言っとくけど、あれは万能薬なんかじゃないよ。飲んだら絶対に後悔する」

「なんだっていい。高値で買い取りたいってやつがいるんだ」

 田中自身は、“神様のミイラ”の薬には興味がないらしい。

 彼が欲しているのは、金だ。

「はいどうぞって渡せるものじゃないってわかってるから、忍び込んできたんだよね」

「うるさい。素直に渡さねえと子供でも容赦せんぞ」

 田中が見せつけるように金槌を振り回す。

 千明は男に視線を向けながら、誠を自分の背後へと押しやった。

「どうしても欲しいなら力づくでどうぞ。俺も金目当ての人間なんかには絶対に渡す気ないので」

 挑発するように微笑んだ千明に、田中がカッとなって怒りをあらわにする。

「なめるなよガキが!」

 田中が金槌を振り上げて千明に迫る。

 千明はあっさりとそれを避けた。そして金槌を握る田中の腕をぐっとつかむと、足をかけて床へと投げ飛ばす。

 どごん、と激しい音とともに背中を棚にぶつけた田中は、うめき声とともに立ち上がれなくなった。

「武器を持ってるからって勝てるとは限らないのに。ねえ誠」

「俺に同意を求められても」

 正直、誠は金槌を持っている相手に勝てる気はしない。

 パチパチ、と蔵の中に拍手の音が響いた。

「なかなかやるじゃねぇか。さすがは俺の孫ってなもんだ」

 はっはっはっ、と機嫌良さそうに歩いてくる克茂は、明らかに酔っている。

 そんな克茂に、千明が呆れた顔をする。

「じいさん、いつから見てたの」

「ちょっと前にな。面倒だったからお前らに任せた」

 克茂が、いまだに起き上がれずにいる田中のほうへと顔を向ける。

「こいつは不法侵入ってことで警察に連絡しとく。ご苦労さんだったな二人とも」

「うん。じゃああとはよろしく」

 千明はそう言って蔵を出ようとしたが、誠はその前に克茂に声をかけた。

「じいさん」

 田中が逃げないように見張っていた克茂が、誠のほうを振り返る。

「そいつ、同じクラスのやつを脅してたかもしれないんです。今居間にいて、共犯かもしれないけど、あんまり責めないでやってほしくて」

 居間で待っているはずの同級生の田中にも、おそらく事情を聞くことになる。だからその前に、少しでも事情を伝えておきたかった。

 真面目な顔で聞いていた克茂が、ふっと笑う。

「心配せんでも、子供相手に乱暴な真似はせんよ。同級生君にはあとで話を聞きに行くが、俺も警察も味方だとでも伝えといてくれ」

 克茂のことは幼い頃から苦手だが、信用はできる。

 わかったと頷いて、誠は先に蔵を出ていった千明を追いかけた。


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