スーパーから自転車で五分ほど走った先の一軒家を、誠は知っていた。

 千明の祖父の家だ。生垣に囲まれた庭は広く、縁側のある平屋は昭和の雰囲気を醸している。

「今はここで暮らしてるんだ」

 彼は玄関先に自転車を止めると、すぐ後ろで同じく自転車を止めようとしている誠を振り返ってくる。

「親は、って思った?」

「一緒じゃないのか」

「別で暮らしてる。気になる?」

「そりゃ言われれば気になるけど」

 誠は自転車の鍵をかけて、前かごに入っている買い物袋を持ち上げる。

 一方の千明は、カチ、カチンと、自転車に備え付けられているリング鍵だけでなく、ワイヤーロックもしっかりとかけた。

「お前、二つも鍵かけてたっけ」

 すかさず千明がしーっと誠を制して、辺りを見回す。

「めんどくさいから学校では一つしか鍵かけてないの。じいさんにばれたら怒られるから」

 誠はすぐに理解した。彼が自転車に鍵を二つかけているのは、彼の祖父の指示だ。

「親は別居して、それぞれ職場に近いとこに住んでるよ。俺だけここに戻ってきたんだ。じいさんがいるし、君もいるしね」

 話だけを聞けば一家離散状態だが、千明はあっさりしている。当の本人に深刻さがまるでないので、誠も心配をするのはやめた。

 千明が玄関の鍵を開けてドアを引くと、カラカラとどこか懐かしい音が鳴った。

「ただいまー」

 千明が声をかけたが、返事はない。

 一応、誠も小さな声でお邪魔しますと言って、家に上がった。二人が少し軋む廊下を歩いていると、のんびりした声が聞こえてくる。

「千明、ごくろーさん」

 通りがかった部屋をのぞくと、和室に寝転がってテレビを見ている甚平姿の男性が、顔だけをこちらへ振り向かせている。

 千明の祖父、克茂(かつしげ)だ。

 その目が、千明の後ろにいる誠をとらえて見開かれる。

「お、もしかして誠君か? 大きくなったなぁおい」

 年を取っても、がははと豪快な笑い方は変わっていない。だらりと寝転がっているだけなのに威圧感があるのも相変わらずだ。

「……どうも」

 つい圧に押されてしまい、声が小さくなる。

「飯食ってくのか? 千明といいお前さんといい細っちいからなぁ。遠慮せずしっかり食ってけよ」

 この人の、この有無を言わせない押しの強さが、誠は幼い頃から苦手だ。

 夕飯を作るのは千明だとばかり思っていたが、買ってきた食材を台所に運び込んだところで克茂と交代した。刑事の仕事を定年退職し、何か趣味を見つけなければと思っていた克茂は、手始めに料理を始めてみたところすっかりはまってしまったらしい。

 待っている間、誠と千明は居間でテレビを見ていた。部屋に敷き詰められた畳の匂いと、年季の入ったちゃぶ台。その上には、お茶の入った湯呑が二つ。障子と襖に囲まれたこの部屋に座っていると、誠は幼い頃を思い出す。

 小学生の頃、ここではなく小学校近くのマンションに住んでいた千明と、今と同じ家に住んでいた誠は、たびたびこの家に遊びに来ては、好きなアニメを見て他愛のない話で盛り上がっていた。

 高校生になって、見るテレビ番組は変わったけれど、他愛のない話をしては時折笑い合う関係は、四年以上が経った今も変わっていない。

「おーい、できたぞ青少年たちよ」

 克茂がご機嫌に運んできたオムライスは、どうみても一般的な大きさの二倍はある。

 食べきれるだろうかと、誠に一抹の不安がよぎる。だが残すなんて克茂が許すはずはないので、食べきるしかない。

 千明はといえば余裕な顔で、いただきます、と食べ始めている。きっと大盛りは日常のことなのだろう。毎日この量を食べきっているのに太っていないなんて、彼の体はどうなっているのか不思議だ。

「誠くん、今日親御さんは?」

 未成年を夜に預かっている責任からか、克茂がたずねてくる。

「母は残業です。父は、家にいることが少ないので」

「そうだったそうだった。親御さん、頑張ってるなぁ」

 親が共働きであまり家にいないと言うと、大変だね、とか、可哀想、とか言われることが多いので、こういう反応はほっとする。

「ま、いつでも来なさい。高校生男子二人分となりゃ、わしも腕の振るいがいがあるってもんだからな」

 そう言って笑う克茂は、昔よりも少し雰囲気が柔らかくなった気がする。

 刑事だった頃は、もっと目が鋭かった。向き合うだけで心の奥を見透かされている気がして、子供ながらに怖く感じることもあった。

「ごちそうさま」

 千明はあの大盛りだったオムライスをすっかり食べ終えてしまった。

「え、早。お前、噛んでる?」

「噛まなきゃ無理でしょ。丸飲みなんてできないって」

 しかし誠の皿には、まだ三分の一以上の量が残っている。この差は一体どこで生まれたのだろう。

「早食いなんだよ、こいつ。ゆっくり食えって言ってんだがな」

 そういう克茂も、すでに食べ終えている。刑事という仕事柄か、彼は昔から食べるのが早かった覚えがある。

 千明はそんな克茂の影響を受けたのだろうか。

 ふいに、着信音が鳴った。

「おっと」

 音は克茂のスマートフォンからだった。克茂はスマートフォンを持って立ち上がると、部屋を出て廊下へ移動する。

 声が大きい克茂の電話相手との楽しそうな話し声が、部屋の中まではっきりと聞こえてくる。

 千明がため息をついた。

「じいさん、昼間っからよく飲みにいってるんだよ。少しは控えなよって言ってるんだけど」

「付き合い多そうだもんな」

 克茂は人に好かれやすいタイプで、彼自身も付き合いのいい人だ。

 刑事時代は忙しく、自由にお酒を飲むなんてできなかったのだろうから、引退した今、第二の人生とばかりに遊びまわっているのだろう。

 トントン、と壁を叩く音がした。

 誠と千明が顔を上げると、いつの間にか部屋へ戻ってきていた克茂が、電話相手としゃべりながら口元に人差し指を当てる。

 黙っていろと言っているのがわかって、誠と千明は口を閉じた。だがそれは、うるさいという理由ではなかった。

 克茂は通話中のままのスマートフォンをちゃぶ台の上の真ん中に置くと、スピーカーのボタンを押す。

『あれ? 世良さん?』

 電話の向こうから、男性の声が聞こえてくる。

「すまん、ちょっと聞こえんかった。最近電波悪くてな」

 克茂が適当にごまかした。

『ですから、戸塚さんも南城さんも来るって言ってましたよって』

「そうかそうか。で、いつだって?」

『来週の金曜です。四時くらいに集まろうかって』

「四時って、お前さん仕事は?」

 続いている他愛のない会話に、誠と千明は黙って耳を傾けている。

『午前であがりなんですよ。他もみんな都合がつくっていうんで、なら早めに集まったほうが楽じゃないかって』

「まあ遅いよりはな」

『でしょ? じゃあ来週の金曜、楽しみにしてますんで』

 電話の相手は、一方的に通話を切った。

「ありゃ、切れちまった。まだ行くとは言ってなかったんだが」

「行く気がないならさっさと断るべきだったんじゃないですか」

 言ってしまってから、誠ははっとする。言いすぎてしまった、しまったと思ったが、克茂は怒るどころか、ははっと笑う。

「そりゃそうか。いや、しまったなぁ」

「どうせ行くつもりだったんじゃないの?」

 千明が呆れた顔をする。

「知り合いが多いとなかなか断れんのよ。で、千明よ。“悪意”には気づいたか?」

「うん、はっきりとわかっちゃった」

 千明が苦笑する。

 克茂も、千明と同じで“悪意がわかる人”だ。千明が言うには、“悪意”がある言葉を聞くと、脳にピンときたり胸がざわざわしたりするらしい。

「電話の相手、誰だったの?」

「田中っていう、最近飲み屋で知り合ったやつなんだが、なんかやたらとノリのいい男でな」

「“悪意”だらけだったけど」

「ま、今までも“悪意”を感じることはあったけどな」

「行かないほうがいいんじゃないですか」

 会話を聞いて、誠は素直にそう思った。

「俺もそうは思うんだがな。大人には付き合いってもんがあるのよ。つーわけで、留守番頼んだぞお前ら」

「え、なんで俺まで」

 誠の疑問は、聞こえているはずの克茂にあっさりとスルーされてしまう。

 この人は、ただ飲みたいだけなのではないだろうか。

 そう思ったのは、誠だけではないはずだ。

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