Act,3 宿望者 - 3 -

 喰べなさいと差し出された人間の腕には口を付けなかった。先刻よりも思考は僅かに動くようになっている。

 漸く水を与えられた、枯渇しきった大地のように隅々まで染み渡る力。不本意な事この上ないやり方で無理矢理飲まされた血はこの身体に僅かながら活力を与え、改めて自分は人間ではないのだという事実を突きつける。


「何故そこまで頑なに拒むのです。あれは私達にとって単なる家畜でしょう?」

「……」


 ぎっと睨み付けるがしかし彼の表情が揺らぐ事はない。子供のこねる駄々を、聞いているかのような笑みさえ浮かべている。

 小さく、仕方がないとでも言うように一つ息を吐いて。


「……まぁよいでしょう。明日は貴女の華々しい凱旋日だ、城に帰還し全ての家畜どもを再び従わせれば貴女の気も変わろうというもの」

 

 彼の口元が大きく弧を描く。 

 赤く色づいた唇が獣のように歪んで、心底楽しそうに。くつくつと笑っている。


「呪いの解呪は貴女にしか出来ない。同胞を呼び覚まし、制約を外し、我々の世界を蘇らせるのです」

「呪い……?」

「……かの君は貴女には何も?」


 そう問われてもどう答えていいのか解らず、宿の入り口付近の窓辺にある椅子にゆるりと座りこんだまま彼を見上げる。


 竜人というものを自分が知った時、母は自分の正体のみを教えてくれた。呪いなど聞いた事もない。


 ――あの、頃。


 それを喰べる事に抵抗はなかった。

 それを喰べる事が当たり前だと思っていた。

 だってあの頃、父と母以外に誰とも会った事などなかったのだから。生きて自分の前に姿を現したそれは父だけだったから。母が自分に喰べさせてくれたそれは――既に、動かなくなっていたから。

 いつからだろう。

 いつからそれが、苦痛になった?

 思い出そうとしてちかりと頭の奥が痛んだ。


「貴女の母君は同胞である神龍族全てを殺害し、残った我々を呪い、各地の竜族を殺して回ったのです」


 知らない。

 そんな事は一つだって。

 殺した? どうして? 


 そんなこちらの頬に手を添えて、慈しむように見つめ彼は首にかけていた母の形見をぐっと引いた。


「神竜族最後の王よ、貴女なら――この世界を再び我らの支配下に置くことができる。下等な人間どもの目に怯えることもなくなる。」


 ふっと、彼は笑う。

 穏やかな表情を湛えるその瞳にはしかし、こちらに彼の感情を雄弁に語っていた。

 本気なのだ、と。

 本気でこの世界を、彼は――


「ゼフュロス様!」


 上がるシルヴァールの声。その、刹那。

 がしゃんと、派手な音をして傍らにあった窓が割れた。飛び込んでくる鋭い破片と硝子を突き破ったもの――だがそれらはこちらに達する前に炎によって焼き尽くされる。

 それと同時に宿の扉が崩れた。

 焼け残ったものがカン、と床に落ちて微かな音を立て、続いて扉の破片が立てる音。


「……また貴方ですか」


 途端に感情の色を無くした紅い瞳が、窓の外へ目をやった後扉の方へと視線を向ける。飛んできたもの――足元に転がる、焼け残った鏃。見覚えがあって。

 込み上げてくる感情を、抑える術などなかった。


  ※


 ぜぇぜぇと乱れる吐息。息を吸い込めばとてつもない血の臭い。訪れる嘔吐感。

 ルアードが宿の窓際にいた『赤の神』目掛けて矢を放ち、それとほぼ同時にアーネストは宿の扉を切り崩していた。

 そこから溢れ出す濃密な臭い。体が傾ぐのを手の甲を口元に押し付ける事によって戒め。


「今宵は招かれざる客が多すぎる……」


 剣の柄を握りなおすと、『赤の神』はフィーを抱き寄せながら呟いた。少女は抵抗しない。それが酷く気に入らなかった。


「……貴方も大概おかしな人だ。わざわざ助かった命、こんな所で失うおつもりか?」


 さらりと、その赤い長髪が少女の頬にかかってまた滑り落ちる。

 フィーは綺麗な銀色をしていた。銀の髪に銀の瞳。人で無い何よりの証。けれど瞳はどこか虚ろで。


「俺の連れを連れ戻しに来ただけだ」


 襲い来る吐き気を意識をずらす事によって何とか耐えながら。相手に気取られぬようできるだけそっけなく要件を言ってやると、目の前の美しい異形はくっと笑った。


「連れ? ――貴方の? 彼女を連れ戻してどうするつもりです。この世界を手に入れるおつもりか? それとも彼女を人と相容れぬモノとして殺すとでも?」

「貴様には関係ない」


 低く、けれどきっぱり言い切って。

 そのまま手にした剣を構え床を蹴った。

 さほど目標物から距離は離れていない。一つ踏み込めば十分相手に当たる。それがわからぬはずもなかろうに、『赤の神』は微動だにしなかった。

 ただ、こちらを見つめ悠然と微笑んで。

 その余裕ぶった表情が気に入らない。彼の腕に凭れ掛かるようにして抱きかかえられていたフィーを避け、突きを繰り出そうとして。


「!」


 突然の衝撃に受身を取りそこね、壁に叩きつけられた。質のよい木製の壁だが、背中を強打し一瞬息が止まる。


「アーネストさん……!」


 フィーの泣きそうな声が聞こえた。

 しかし我が身に何が起こったのかわからない。まるで何かに弾き飛ばされたようで、げほげほと咳き込みながら一瞬暗くなった視界を凝視すると、異常に生長した植物らしき蔓が目に入った。


「……シルヴァール、お相手して差し上げなさい。私が手を下すまでもない」


 くすくすと笑いながら、緩やかに腕を伸ばし『赤の神』は自分の傍にいた黒髪の女に言う。その指示に、言われずとも、と言いたげに女は護るようにしてその前に立ち塞がった。


「どけ、女……!」


 アーネストは女を睨み付けた。彼女がこの蔓を使い自分を弾き飛ばしたのだと言う事は明白であり、この女も人ではなくて。


「人間の指図は受けん」


 冷たく言い放ち、女は既に植物ともいえない程に巨大化した蔓を愛しそうにさすった後、そこから一枚ほど細長い葉を取った。

 そしてそれは見る間に変貌していく。

 力を与えられた葉は細くしなやかな剣へと姿を変えたのだ。

 その様子を『赤の神』は見届けた後、顔色を青くしているフィーを促すようにして扉へと歩み出した。


「私は城へ向かいます。――いいですね、必ず殺しなさい」


 感情の籠らぬ言葉。

 振り向きざまに残されたそれ。


「ま……」


 待て、と口は言葉を紡がなかった。

 こちらに背を向けた『赤の神』を止めようと手を伸ばすが、そこに先刻の植物から生み出された刃が振り下ろされる。


「――ッ!」


 かろうじてその鋭い切っ先を避けるが、肩の皮膚が裂け深紅が僅かに床を汚した。


「余所見をする余裕がどこにある」


 女の冷やかな目。鬱陶しそうに、剣へと姿を変形させた葉を持つ手とは逆の手でその長い黒髪を払う。

 『赤の神』の姿は既に宿の中にはなかった。早くしなければ、と焦りばかりが募る。

 ――女の動きは大したものではない。能力を使っても彼女のまとう色彩が変わらない事からおそらく混血なのだろう。動きも力も、人間の女にしては、と言う程度でしかない。

 意図的に深紅に濡れすべる床と、そこに手を付いた事によって染まった己の手を意識から切り離し、再び踏み込んだ。

 剣を振り上げる。視界に映る女がこちらの行動に反応し構え直すが、今まで散々戦い抜いてきた自分から見ればそれは酷く緩慢で。

 一呼吸だけ、遅い。

 剣を振り下ろし、相手の頭上へそれを叩きつけようとして――

 一瞬、何が怒ったのか解らなかった。

 刃はぎりぎりの所で女に届いていない。次いで襲い来る激痛にようやくアーネストは先刻の植物の蔓が腹部を貫いている事に気付いた。


「が……ぁ……ッ!」


 噴出す深紅。夥しい量のそれは既に床に撒き散らされた赤と混ざり、そのままばしゃん、と体ごと床に叩きつけられる。

 撥ねる血液。視界に舞う深紅。鉄くさい。他人の血は最早冷たくなってしまっていると言うのに、それは酷くあたたかで。

 全身が染まる。嗅覚が麻痺する。


「ぐ……ッ!」


 吐瀉。

 駄目だ、やはり。

 こんな所で立ち止まっている暇などないというのに、それなのにこれはどうしようもなく自分を追い詰める。


「何だ? お前血が駄目なのか?」


 驚いたようにとも、呆れたようにとも取れる女の言葉。


「自分にも同じものが流れているクセに」


 嘲笑。

 それでも体が言う事をきかない。剣は握ったままだというのに腕が上がらない。


「もう終いか? 呆気ない」


 こちらに女が近付いてくる。一歩一歩、確実に自分のものなのか他人のものなのかわからぬ深紅にまみれた自分に。

 女の手にはさっきの植物の剣。

 ずるりと上半身だけ起こした自分に向かって、緑の鋭い刃が振り上げられる。

 避けなければならないのに体が動かない。

 過去を思い出させる、濃密な血の臭い。

 目の前で失われていく命。飛沫が辺りを染め上げる。大切な者達が消えていく。

 気持ちが悪い。視界が霞む。女の動きは酷く鮮明なのに、白くぼやけて表情が見えない。


「消えろ」


 女の酷薄な声。感情の読み取れぬ。

 振り下ろされる刃が動けぬこちらの頭頂を目掛け、綺麗に軌跡を走らせ。


「「来たれ、天の防護!」」


 言葉と共に展開される目に見えぬ防壁。それによって女の剣がばしんと弾かれた。

 見開かれる女の黒い瞳。


「ったく……見てらんねーな」

「誰だッ!」


 女の叫び声が深閑とした空気を切り裂いた。

 介入する第三者の声に、双方視線をやる。そこにいた者を認めアーネストは睨み付けた。


「手を出すなと言ったはずだ……!」

「一人でできる事にも限度ってもんがあろーが。連携してこそ道は切り開かれるもんだろ」


 宿の入り口に立ちそう言い放ったのは、普段茶髪であるはずの短髪を元の金色に戻した緑の双眸の青年だった。お前、馬鹿? とでも言いたげに首をすくめた彼の手には、黒い石。それは淡く発光し、彼の掌の上でふわりと宙に浮いていた。


「無茶やるのもいいけどよ、ちったあ周りの事考えやがれっての」


 ルアードは術を使った石をぱしんと取ると、今度は別の赤い石を取り出し、何食わぬ顔で女を無視しこちらに近寄る。


「「……テトラグラマトンの名の下に、我恩寵と徳において祈り願う」」


 膝をつき、こちらの未だ鮮血を流し続ける腹部に石をかざすと小さく呟いた。


「「来たれ、柘榴の祝福」」


 赤い光が言葉と共に患部を包み込んだ。

 優しい力が体内に流れ込んでくる。内部からゆっくりと傷が癒されてゆく。


「余計な事を……」

「へーへー」


 癒えた傷を確認した後発したこちらの言葉など半分も聞いていないだろう生返事を返すと、ルアードはすっくと立ち上がった。

 金の髪を夜風になびかせ、女を見やり。


「エルフ……触媒を用いなければ術を発動させられないクセに、歯向かうつもりか?」

「血を引くだけで補助魔法まで使えるおたくらにはわからんさ」


 女の言葉をさらりと受け流す。


「今まではこの馬鹿が一人でやるってきかなかったもんだから大人しく観戦していたけどさ、予定変更だ」


 自分に『赤の神』を追うように無言で促し弓を構え。


「それとも何か? 俺じゃ役不足ってか?」

「……いい度胸だ」


 そうして、その場の空気は一変した。

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