Act,3 宿望者 - 2 -

「あ、ああ……あ……」


 己の意思に関係なく漏れ出る声。

 がたがたと震える体を握り締め、クレリアは壁に背をつけた。

 己が飛び込んだのはとある宿だった。巡回中の警備兵の目をかわし、窓に鎧戸も付けず、二階の窓から光がこぼれていたここに入った。


 人を確認したかった、それだけだった。


 異常と感じるのは自分の杞憂だったのだと、この街に古くから伝わる何かの儀式のせいだからと、笑ってからセイロンと共に泊っている旅人用の宿屋に帰って。

 宿に入ってすぐの所に、やたらと綺麗な男がいた。すらりとした四肢に長く艶やかな髪――けれど、それは人の宿す事のない深紅。

 少し驚いたような、それでも表情は笑みを浮かべて。男の髪と同じ色をした瞳は涼しげな、と言うよりはどこまでも人を見下したような色を湛えていた。

 そして彼の立っている、その足元には。

 夥しい、赤。


「おや……どうなさったのです、そんな悲鳴を上げて」


 緩やかに差し伸べられた腕。真っ赤に染まっているそれ。けれども彼は何事もなかったかのように、笑って。


「このような夜更けにお一人ですか?」


 言葉遣いは丁寧なのに。物腰も穏やかなのに――いや、だからこそ、ここまで恐怖を覚えるのか。


「クレリアさん!」


 不意に名を呼ばれ、はっと我に返ったのと、何かが巻きつき体の自由が奪われたのはほぼ同時だった。


「な、何!?」


 わけがわからずもがくが、しかし己を縛る戒めは解けない。そうこうしているうちに漸く、巻きついてきたものが植物の蔓であるとクレリアは確認できた。


「このような者、ゼフュロス様のお手を煩わせるまでもありません。お許しとあらば私が」


 感情の籠らぬ女の声。

 声が上がった方へ恐る恐る視線をやると、そこには黒髪の女性と――フィーが、いた。

 けれど、少女の纏う色は人のモノで無くて。

 この場の壮絶なまでの血の臭いに当てられたのか、フィーはふらりと倒れかけた。それを男が優雅に抱きとめる。


「……そうですね。我らが女王にはやはり柔らかな娘の肉が良いでしょうね」


 ――「恐怖」などと、言葉で表現できるものではなかった。

 目の前にいる人外の者。「赤」や「銀」と言う色を持つ種族は、今や御伽噺としてだけ伝えられる種族以外に知るはずもなかった。


「いいでしょう。シルヴァ、好きになさい」


 にっこりと男に微笑を向けられるが、全身から溢れ出す冷たい汗が止まらない。蔓によって既に足は床に付いておらず、持ち上げられた体は宙に踊る。


「お願……ッ やめ……!」


 止めようとするフィーの動きを、しかし男はいともあっさりと封じた。少女の腕を後ろで固定し、こちらに突きつけるような形……多分、フィーに自分が女に殺される様を見せ付けるのだろう。


「ちょっと……冗談じゃ……!」


 彼らの言ってる事は明らかで、必死になって蔓を外そうとするがびくともしない。

 ぎりぎりと締め付けてくる植物の蔓。辺りを見渡すと、窓際に置かれた、観賞用の小さな鉢が目に入った。そこから異常なほど生長した植物の蔓が伸びている。

 人間ではないのだ。ここにいる三人は。そしてあれは単なる御伽噺ではなかった。伝説は正しく、彼らはいまだ健在で。

 ぼう、と突如訪れる光と熱にクレリアは思わず身体をこわばらせた。酷く近い所に炎がある。光源に目をやると、炎は後数歩踏み出せばこちらの頬に触れるだろう位置にいる女の右の掌で舞い踊っていた。


「……すぐには殺してやらない。苦しみ抜いて死ぬがいい」


 漆黒の瞳。星のない、暗黒の夜空のようだ。

 瞳の中にあるものはただ、冷たい殺意。恐ろしいまでの恨みの情。厭悪。


「お願いやめて……殺さないで……!」


 フィーの声。

 目の前で作り出される炎の刃から目が逸らせないが、聞こえてくる声はフィーが泣いているらしい事を伝えてきた。


「……」


 女は何も言わない。ひゅっと、女の掌で踊る小さな炎の刃が一つ飛んできて、蔓を外そうと足掻く右腕を掠めて消えた。

 伝い落ちる血。女の掌にあるだけだった炎の刃は、今やその手を離れ女の回りで次なる指令を待ち、宙に留まっていた。

 それが、一斉にこちらに向かってくる。大小さまざまな刃が、こちらの腕を、足を、胴体を狙って襲い掛かってくる――避ける事など、縛られた身体では不可能だ。


「ずたずたに、切り裂いてやる……!」

「やめてッ!」


 最後に聞こえたのはフィーの絶叫。

 ぎゅっと閉ざされた視界に自分は確かに強烈な銀色の光を感じ――気が付けば、浮遊感を覚えていた。





 辺りを照らしていた銀光がやみ、蔓で捉えられていたはずの少女が姿を消したのを確認してからフィーはゼフュロスの腕の中でくたりと倒れ込んだ。

 何とか、逃がす事が出来た。

 全身が痛みを訴える。空腹は絶頂をとうに越え、溶けかかっていた思考でありながらもほっと胸を撫で下ろす。


「どこまで、人間を庇うおつもりか」


 ざわりと、急に辺りの空気が薄くなったような気がした。それが未だ自分を離そうとしない男が発す殺気のせいだと気が付くのに、数秒を要す。


「何故、こうもあのような下賎な者達の為に貴女が苦しまなければならないのです」


 ぐい、と顎をつかまれ覗き込まれる。

 魔法など「封印」の解ける今まで使った事がなかった。ただ強く願い――そうする事によって術を発動させた。

 そのせいなのか、身体に掛かる負荷は相当なものだった。体中の力という力全て抜かれた様な虚脱感。立つ事もままならない。


「ゼフュロス様?」


 そんなこちらを見ていた彼は何を思ったのか、血の海に沈む、宿にいた人間の腕を手に取り肉を噛み千切った。ぶちぶちと引き裂かれる音が嫌に耳に着く、いつの間にかゼフュロスの傍に移動したらしい、シルヴァールの不思議そうに問うのが白くぼやける視界の端に映る。

 彼のその行動の意味が解らないまま、続いて起こった感覚にフィーは目を見開いた。

 流れ込んでくる甘いモノ。

 唇は塞がれ、生暖かくどろりとしたモノが口の中に注ぎ込まれる。

 必死になって抵抗するが頭は彼にしっかりと固定され、ただでさえ力の抜けた身体ではこの男の行動を制限する事など出来なかった。


「……これだけでも飲めば、少しは違うでしょう?」


 ぺろりと、彼は漸く放した唇を舐める。

 息苦しくて嚥下せざるを得なかった、求めていたがずっと堪えていたものが全身に染み渡るのをフィーは、げほげほと咳き込みながら呆然と感じていた。


「私はもう、貴女を失いたくはないのです」


 こちらの肩を抱いたままさらりと銀の髪を梳き、ゼフュロスは眩しい物でも見るかのように目を細めた。貴女、と彼は言っているが彼は自分を見てはいない。自分を通して――その後ろの、母を見ている。


「私はお母様じゃない……」

「かまわない」


 精一杯、現在込められるだけの力を込めて睨み付けるがしかし彼はあまりにもきっぱりと言い切った。誇らしげにさえ、見える程に。


「姿だけでもいい。かの君が傍にいてくれるのであれば私はそれでいいのです」


 うっとりするような笑みを浮かべ、彼はこちらの髪を梳いていた手をそろりと頬に移す。まるで細かな硝子細工に振れるかのように、酷く柔らかく。

 彼のその言動にシルヴァールの表情がわずかに曇るのを、フィーは見逃さなかった。


 ※


「……ろ、……りしろ……おい!」


 全身を揺すられる感覚に、深淵にあったセイロンの意識は漸く浮上してきた。続いて起こる、ぴしゃぴしゃと頬を軽く叩かれる痛み。


「あ……?」


 酷く億劫な中閉じられていた瞼を開けると、目の前には物々しい武装をした男二人――彼らの姿からこの国の警備兵と理解するのに僅かな時間を要す。


「おい、大丈夫か!?」


 顔面蒼白にして覗きこんで来る警備兵。しかしセイロンにとって、彼らがどうして自分をこんなに心配するのかよくわからない。

 それにしてもいつの間に自分はこんな所で眠ってしまっていたのだろう?

 わけが解らず、滅茶苦茶にこじれた記憶の糸をほどこうとして漸く警備兵達が何故慌てているのか気が付いた。

 ふらりと勝手に出て行った姉を探し、街道から離れた冷たい石畳の上。自分が現在座り込んでいる、先刻まで伏していたその場には大量の血痕が残されていた。

 その血がセイロン自身のものであるという事も、左肩から腹部まで裂けた衣類に付着しているモノを見れば一目瞭然だった。


「……え? あれ……? 俺、確か……」


 確かに、壮絶な痛みと共に鮮血が噴出す様を見た筈なのに。

 体は石畳に伏していたせいか少し痛かったが、けれどそれは傷付けられた時のものとは比べ物にならない。そもそも、それ以外に痛みを感じる事はなかった。

 思わず左肩に手をやる。が、ばっくりと裂けた筈の傷口はどこにもなかった。引き裂かれた衣服もべっとりと張り付いた大量の血痕もそのままに、傷だけが綺麗に消えていたのだ。


「俺、確かに炎に切り裂かれた筈なのに……」

「炎?」


 警備兵の一人が訝しげに繰り返す。手にしていた松明を見上げ、何を馬鹿な事を、とでも言いたげにこちらとを見比べた――と。


「ぎゃあ!」


 突如自身を襲う圧迫感に、セイロンは思わず悲鳴を上げた。

 じたばたと暴れてみるが圧迫感は一向に消えない。そうこうしているうちに、漸く圧迫感の原因は突如自分の上に落ちて来たものであるらしいという結論に行き着く。

 しかし何故、一体どこから落ちてきたのかさっぱりわからない。そんな中、警備兵が目を丸くしている様だけが視界に入る。


「え……アタシ……助かった、の……?」


 現在自分の置かれている状況が解っていないのか、震える声が頭上から聞こえてきた。

 ……この声は非常に聞き覚えがあって。


「こぉんの……馬鹿姉貴! 今度は何をどうしてこういう事になったのかきっちりしっかり説明してもらおうか!」


 いつまで人の上に乗っかってんだと一応血を分けた姉を振り落とすと、セイロンは姉の肩を掴み反駁していた。


「セイロン……?」


 しかしいつもならさらに激しい勢いを持って言い返してくる姉は、呆然とこちらを見、こちらの名を確認するかのように呟いていた。

 やがて、じわぁっとその眦に涙が溢れ出し。


「うわぁぁん! 怖かったのぉッ!」

「どォッ!」


 抱きついてきた。


「ホントにホントに死ぬかと思ったのぉ!」


 警備兵が目の前にいるというのに、まったく気が付いていないのかぎゅうーっと本気でこちらにしがみついてくる。


「ちょ、ちょっと姉貴落ち着けってば!」


 がたがたと震えている姉に、とりあえず何があったのか聞いてみるが。


「一面赤で黒が斑になって植物異常で綺麗で怖くて何がホントかわからなくて! 伝説は伝説じゃなくてホントででも信じられなくてあの子銀色で……ッ!」

「はあ?」


 さっぱりわけが解らない。

 たぶん衝撃的過ぎて自分の中で整理できてないのだろう、口に出す事で何とかしようとしているらしい。


「おい」


 どうしたものかと考えあぐねていると、その言葉と共に視界が急に薄暗くなった。

 座り込んだままになっている自分たち二人のために膝を折っていた警備兵が持っていた松明が、いつの間にか高い所にある。


「その話、詳しく聞かせろ」


 見上げれば、いつぞやの黒髪蒼目の青年が警備兵から取り上げた松明を片手に、その長い黒髪を夜風になびかせ佇んでいた。

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