Act,2 逃亡者 - 1 -

 あの時の事は良く覚えている。

 前線に立って奴らをあっさりと一蹴するであろうとばかり思っていたかの君が、急に姿を消して一時城内が騒然となったからだ。

 美しき白銀の君。

 その瞳に射られれば命すら差し出してしまうだろう我らが女王。

 人間など歯牙にもかけぬ存在だ。

 けれど、それでも戦いに敗れたのはかの君の失踪が大きかった。戦の陣を崩して姿を消した女王が、我らの敗北を招いた。

 シュライン、とかの君の名を口にする。それだけで至福を覚えていたのはいつ頃までだったか。


「ゼフュロス様」


 背後から名を呼ばれ彼は振り返った。久しぶりに力を使い、汚らわしい人間を思う存分切り裂く事が出来た事に程よい快感を覚え、騒ぎに乗じあの広場を後にしたのは先刻の事。


「……シルヴァール」


 ゼフュロスは連れである彼女の名をそれとはなしに口にした。軽くウェーブのかかった黒髪の美しいシルヴァールは、それなりに見目良い部類に分類されるがゼフュロスにとってはどうでも良い事だった。

 彼にとって最も重要なのはシュラインの血を引く者。彼の願いを果たすために。


「……行きましょう」

「はい」


 シルヴァールを促し、彼は空を仰いだ。


 ※


「フィーちゃんが、『銀の神』だって……?」


 にわかには信じられない事実にルアードはまさか、と思わず笑い出しそうになった。だって、彼女の気配は完全な人間だったのだ。

 エルフやピクシーは種の保存のせいなのか、それとも単に人間にそういう能力がないだけなのか、相手が人間であるかないか読み取る事が出来る。旅は物騒だし、初めてあの村で出会った時もそれとなく気配を探ったのだ。


「……」


 しかしアーネストの無言の重い空気の中、笑う事など出来なかった。

 アーネストは何も喋らない。ただフィーが『銀の神』であったと、彼の首筋をわずかとはいえ噛み切ったのが彼女だったと言う事をぼそぼそと口にした後黙り込んでいる。

 普段なら嫌がる傷の治療も大人しく受け――と言うよりは、抵抗も何もする気力さえないといった感じで、まるで。


「なんか、傷心の渦中ーって感じだねぇ」

「イアン!」


 的確な表現をした相手は、街に辿り着いてから殆どすぐ別れた相手であった。


「広場の方スゴイ事になってるけど、あれって君達が絡んでるわけ?」


 へにゃーっと相変わらず笑っている相手に、しかしルアードは何も言えなかった。

 スゴイ事――アーネストはまだ知らないだろうが、現在広場は血の海となっている。間違えようもなく、あの男は竜人だ。しかもかなりの力を持った、桁外れの。


《ソウいえば、アノ子は? 今一人にサセルのは危ないワ》


 そう言いながら、ピクシーが彼の懐からひょこりと出てきた。いまや街の中は広場の一件で騒然としており、人前に姿を現す事のないピクシーが姿を現しても気に止める者などいない。


「フィーちゃんは……いない」

《イナイ?》


 ロゼが首を傾げるがしかしそれ以上は口を閉ざした。この一件、イアンが絡んでいないとも言い切れない。

 彼もまた、薄くとはいえ血を引く者。

 頭から信じられるほど、自分はお人よしではない。まだ不安材料が多すぎる相手だ、用心に越した事はないだろう。


《ナンカ……イロイロあったみたいネ。ソコの人は一体どうしちゃったワケ?》


 大地に突き刺した剣を抜こうともせず、座り込んだままのアーネストの許まで飛んでいったロゼがくいくいとその長い黒髪を引っ張ってみるがしかし反応はない。いつもなら反論するなり小太刀をこちらに投げつけてくるなりするはずなのに。


「……おいアーネスト、お前いつまでそうしているつもりだ?」


 やれやれと大仰に息をつき揶揄を含めてやるがしかし彼は動かない。確かにあんなに心を砕いていた相手が竜人だったのだ。そのショックは計り知れない。


「お前には関係ない」


 それでも気丈な彼はそういった動揺も負ったであろう心の傷も見せようとはしない。突っぱねたその物言いがなんとなく癪に障った。


「関係ないわけないだろうが、お前が旅の目的を果たさんと俺も村に帰れねー」

「勝手に帰ればいいだろう」


 投げかけられた言葉はいつもより覇気がなかった。言葉だけを取れは怒っている様にもとれるが、声色はどこか力ないものだった。


「……お前の旅の目的はなんだ? 『赤の神』に復讐し『魔』を滅すって言ってたよな」


 ぴくりと、アーネストが反応する。


「――何が言いたい」

「解ってるだろう?」


 ようやく彼はこちらを見る。意志の強い蒼。そこにはこちらに対する怒りとも憎悪とも言えるものが宿っている。


「御大が現れたんだ。目的を果たすため――」

「だから、殺せと……!?」


 立ち上がった彼ががっとこちらの胸元を締め上げてくる。


「お前は、フィーを殺せと言うのか……ッ!?」


 真っ直ぐにこちらを射る蒼の瞳。ふう、と一つ息をついて。


「……奴らは人間にとって害なるものだ――お前は、集落を出る時そう言ったよな。お前の復讐とはその程度なのか?」

「黙れッ!」


 ついにアーネストは地に突き刺していた大剣を抜き斬りかかって来た。力任せに振られたそれをルアードは難なくかわし、ばっと大きく後ろに下がってからやれやれ、と首をすくめた。そうして手にしていた愛用の弓を放り投げて。


「……イアン、ダガー貸してくれ」

「え? ダガー?」


 いきなりの展開についてこれていないのか、ほへーっとしていた彼に言うと、普段から緊張感のないものであったがさらに真の抜けた声が返ってきた。


《何スルのヨ、ソンナ物デ》


 訝しげにのぞきこんでくるのはオレンジがかった金髪と空色の瞳を持つ少女。彼女に不敵な微笑を返し。


「何、ごく簡単な事だよ」


 鋭くこちらを睨み付け、構えた剣を下げようともしない相棒に一瞥をくれてやると、ごそごそと荷物の中をまさぐっていた彼が差し出してくれた小型のダガーの鞘を抜き、ひゅっと一つ大きく振って。


「どうせこうなりゃあの馬鹿は止まらないし……それに、こういう分からず屋には力尽くで納得させるべきだろ?」


 腰にある、魔法の媒体となる石の入った皮袋をダガーの代わりにイアンに放り投げ。


「さて……一勝負、いってみますか」


 そう言って笑い、構えた。


 ※


 最初にその色に染まったのは、一体誰であったのか。

 そんな疑問すら思わせぬほどの速さで人々は染まっていった。赤く――自分のとも他人のものともつかぬその朱に。


(どうして……)


 見知った村の人たちが、まるで紙のごとくその身を裂かれ、命を失ってゆく。


(どうして……何で、何で……!)


 自分の意思など関係なかった。

 徐々にではあるが満たされてゆく空腹。刺激された胃袋は更なる糧を求め否応もなく自身を突き動かす。

 両手には誰かの血液がべっとりとついていた。最早誰のものなのか判りはしない。

 足にも、顔にも、まるで全身に浴びたかのように付着しているそれは、闇の中で銀色の光に照らされてなまめかしく輝いている。


「ぎんいろ……の……ひか……っ!」


 銀。自分の、色。

 一時的とはいえ、まるで己の身にその血が流れている事を忘れさせないかのように現れては辺りを照らす、光。

 がくがくと膝が震えている。

 全身が氷のように冷たくなっている。

 ただ、己の両の腕に付着している血液だけがひどく温かく、質量を持っていて――

 その視界に、映るのは。

 ごろりと転がる、かつての友だったモノ。


「何で……どうして……私は……私が……!」


 私が。

 殺した。

 私がこの手で殺し、私が喰べた。

 嫌だと血を吐くほど叫ぶのに欲求する本能。

 親しかった友人の首を引き千切った時の感触がまざまざと残っていた。噴出す血液が傷もない全身を悪戯に濡らしてゆく。

 座り込んでいる自分を、闇が、銀色が、血の臭いが包み込んでゆく。覆い尽くしてゆく。


 ――惨劇の後に残された、自分。


 自分が起こした惨劇の中に。


「何で……どうして……私は……私が……!」


 ぐらりと視界が揺らぐ。



「どうして……」


 あの時も、確か口にしたであろうその言葉。当てもなく駆けながらフィーは息も切れ切れに口に乗せていた。


 ――そうしないと、酷く怖くて。自分が自分でなくなってしまいそうで。


 都合のいい話だ。自分で事を起こしておきながら怖いだなんて。人を喰う時だけ一時的に変わる自分の『色』は今はもう元の、飴色の髪に戻っていた。この様子だと瞳も黒くなっているだろう。

 肩で息をしながら唇を舐めれば、濡れた感触――長い間求め続けていたモノ。

 体中が血を求めている。

 首筋に歯を立てた感触がまだ残っていた。

 比較的柔らかな部位の肌。溢れ出す甘い血。


 まだだ、と言う。


 まだ、足りない。もっと欲しい。全然足りないと。

 青年に飛び掛りそうになったのを必死になって押さえつけ、自分はあの場から逃げ出した。そのまま残っていたら、黒髪の青年は今頃原型もわからぬ姿になっていただろうから。

 嫌だ。喰べたくない。彼を殺したくない。

 もう誰もこの手で殺したくない。

 それでも凶暴な、獣的な欲望が支配権を握ろうともがき蠢く。それを振り切ろうと、あの場にいてはダメだとかろうじて残る理性がただ、走らせる。

 胸が痛い。呼吸が出来ない。それでも立ち止まる事が出来ない。広場からはとうに離れており、黒髪の青年に突き飛ばされた場所からもかなり遠ざかっていた。

 周りにこれといった建物はなく、ぐるりと街全体を囲む灰色の城壁と植えられた樹木のみが視界に入る。中心街から離れ、街の外れまで来たようだった。人通りもない。


「あっ……!」

「うわっ!」


 突然何かにぶつかり、反動でそのまま後ろに倒れ込む。どうやらお互いに走っていたらしく、少し吹っ飛ばされた様な感じになった。


「ごめん俺ちょっと急いでて! 大丈夫だった……ってあれ?」


 相手が転んでしまった自分の肩を掴んで起こそうとしたところでふと、言葉を切った。声から相手が男性だと判る。どこかで聞いた覚えのある声。のろのろと顔を上げる。

 そこにいたのは明るい黄色がかった長い茶髪を一つに纏めた緑の瞳を持つ青年。どういうわけかエルフの里に迷い込み、補助魔法のおかげで現在猫耳姿となっているクレリアの弟――確か、セイロンといったか。


「君は確かあの時の……ってそうじゃなくて! 早く街から出た方がいい、何でも広場の方で原因不明の大量虐殺が起きたって今大騒ぎになってるんだ!」


 ダメだ。

 どくんと胸が大きく鳴り、フィーは座り込んでいた体をよろりと立ち上がらせた。

 これ以上、押さえきれない。

 目の前のこの人間をはやく喰ってしまえと人でない部分が悲鳴を上げる。血を啜り、肉を食み、内臓を引きずり出して余す所無く喰い尽せと。


 ――一刻も早く、この場から離れなければ。


 そうしなければ本当にこの人を自分は襲うだろう。細胞一つ残さず喰い尽すだろう。

 そう、そのまま逃げてしまえばいい。行動に移す前に、理性が勝っている間に逃げてしまえばいいのだ。


「俺も今あの馬鹿姉貴探してるんだけど見当たらなくて……いや、それよりもあの二人はどうし――」


 しかし彼は、最後まで、言葉を口にする事は出来なかった。

 ばしゅっという音と共に、深紅が舞う。


「――え?」


 まるで他人事の様にこぼれた声。

 彼は小さく咳き込み、左肩から腹部までざっくりと裂けた己の身体を、視界を覆う赤を見つめ――そのままドシャッと、前のめりに地に伏した。


「あぁ……ッ!」


 悲鳴。多分、自分が発した。

 逃げなきゃいけないのに、足が動かない。

 夥しい液体があたりに飛び散る。鉄臭い匂いが思考回路を切断する。

 セイロンを傷付けたのは炎。無形であるはずのそれは力を加えられ、鋭い刃となって彼を襲った。炎は目標物の皮膚組織を引き裂いた途端、燃える事も無く消失する。

 しかし自分は何も考えられなくなっていた。ただただその流れ出る赤に吸い寄せられたかのように、魅入る。釘付けられる。


「鮮度が大事なのですから、致命傷は与えていません。ゆっくりとお喰べなさい」


 背後からの声。

 たぶん自分を追ってきたのだろう、振り返らずともわかるその声に、戦慄を覚える。

 まるで当たり前の事を言うような声。

 明らかに、人間とは、違う。


「我慢なさるのもおよしなさい。いくら我々が人間ほど多くの量を摂取しなくても良いとは雖も、一月が限度でしょう? 身体に毒なだけですよ、きちんと喰べなければ」


 思考が止まる。ただ一つの行動しか身体が受け付けようとしない。

 視界に映る、くっきりとした、赤。

 溢れて大地に血溜りを作る。

 言う事をきかない体。ゆっくりと、しかし確実に血を流す彼に近付き、ぺたんと座り込んで手を伸ばす。


 喰イタイ。喰イ尽シタイ。コノ飢エヲ満タシタイ。

 ソノタメニ、彼ヲ喰、ウ――?


「いやぁッ!」


 叫び声に呼応するかのように、自分の中で何かが音を立てて砕けた。途端に現れる、銀の光。それと共に巻き起こる風。


「――ッ!?」


 男の息をのむ音が聞こえた。いや、驚愕といった方がいいのかもしれない。自分ですら、何が起こったのかわからなかったのだから。

 舞い踊る光。けれどそれは少しも傷付ける様な鋭さを持ってはいなかった。

 光が辺りを包み込む。幾重にも幾重にも、まるで柔らかな布のように。その銀色の光が、傷付いた青年の体を覆う。やがて溢れていた血は止まった。傷口は跡形もなく消え失せ、破れ深紅に染まった衣服だけが事の有様を残すのみ。


「封印がかけられていて……それを人間のために、自ら破った……?」


 驚愕に打ち拉がれる様な女の声。

 初めて使った「魔法」というものに酷く疲弊し、のろのろと振り返ると擬態を解いたのか深紅の髪と瞳をした男ともう一人、柔らかく波打つ黒髪をした女がいた。瞳は黒。まだ若く、多分あの黒髪の青年と歳はそう変わらないだろう。


「封印……?」


 女の言葉の意味がよくわからなくて、口にしてそこで初めて気が付いた。

 髪が銀に変わっていたのだ。あの柔らかな飴色をしたものではなく、硬質で真っ直ぐな。


「え……なん、で……?」


 今までも何度か銀に変わった事はあったがあれは一次的なもので、すぐに元の色に戻ったはずなのに。しかも色が変わるのは決まって――『喰う』時だけ。わけが解らず混乱しかけたところで、飛び込んでくる鮮やかな赤。


「もう片方の血が、そうさせるのですか」

「え……」


 こちらを覗きこんで来る男。座り込んだままの自分の傍に膝を付き、ぐい、とこちらの顎を掴み上を向かされる。男の目に自分の瞳が映った。それほどの至近距離――そしてそこにある自分の瞳の色はやはり、銀色。


「忌々しい事だ。あんな薄汚れた血のせいで、貴女は竜人になりきれていない」

「何を……」


 言っているのか。

 しかし次の男の行動に言葉が続かなかった。


「かの君もかの君だ、何故封印など施したのだ。何故、あのような男と……!」


 ぐっと、顎を掴んでいる手に力がこもった。いや、こもったと言うレベルではない。骨がぎしぎしと嫌な音を立てる。物凄い――まるで締め付けられているようだ。


「ゼフュロス様!」


 あと少しで本当に骨が砕けてしまうのではないかという所で、女の慌てた静止の声が入った。そうしてようやく、解放される。


 ――あんな薄汚れた血のせいで貴女は竜人になりきれていない。


 先刻の男の言葉。


 ――何故あのような男と……


 まるで何もかも知っている様な男の言葉に。


「貴方は、お父様の事も知っているの……?」


 恐る恐る問うと、男は途端に形相を変えた。今までの穏やかな、恐ろしさはあっても物腰の柔らかだった態度が一瞬にして消え失せる。


「忘れるものか! 汚らわしき人間の男……我らが王を攫い、姿を消した男ッ!」


 吐き捨てるかのように。


「忘れるものか……ッ イーグル……!」


 彼は、父の名を、叫んだ。

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