Act,2 忌憚者
生きていくには命が必要。
空腹を覚えるから命を食べる。
『生物』は『食糧』へと変わり、食べられては『肉体』へと変換される。
命を食べて命を繋ぐ――犠牲の上に成り立つ生命。
犠牲のない生などあるはずがなく、屠られた骸から新たな命が誕生する。
美しい花々は屍肉を苗床として大地を覆うのだ。
※
妙な一行と行動を共にするようになってから二日目の午後。鬱蒼と茂る森を抜けるとそれなりに踏み固められた道に出た。木々はまばらで、青空がはっきりとその姿を現す。
「少し休憩しようか」
小さな泉を見つけた枯葉色の髪を持つ青年がそう提案し、太陽が高くなっていた事もあって昼食を取る事となった。
泉の周りは開けており、柔らかな草が足元を覆っている。
「どうした」
ぼんやりと泉の淵に腰掛けて水面を見つめているフィーの背後から掛けられた声。見上げると、漆黒が視界を覆う。
「アーネストさん……?」
彼の結んでいない長髪が風になびいていた。そして彼は何も言わないまま少し距離を空けて隣に腰を下ろす。
「あの……何か……」
特に何を言うでもない彼に問うが、しかし返事は返ってこない。ただ泉の中を見つめる横顔だけ。こちらを見ない。
数瞬の間。
「……食わないのか」
やはり彼はこちらを向かないまま口にした。
腹は空かないのか。
言外に含まれたそれ。しかし何も返せない。
自分以外は皆食事を済ませていた。自分だけ、何も口にしていない。空腹ではないといえば嘘になる。いや、はっきり言うとかなり。でも――
「食べるのは……嫌、です……」
ぽつりとこぼれて出た言葉は宙に浮いた。
相手の反応を見たくなくて、俯く。
命を食べて命とする。生きるために生きているものを殺す。
その行為に嫌悪感を覚えるが、しかし体は貪欲に欲しがるのだ。
渇きにも似た飢え。時々、自分の体が他のものに入れ替わったような感覚に襲われる。
「……このままじゃお前、死ぬぞ」
相手の静かな口調。淡々として感情が感じられない。
命を食べなければ命を維持する事は出来ない。空腹を覚えるから食べる。簡単な図式。単純な行動。生きていくために必要なもの。生物の生存本能は覆されない。
「でも……でも私は……」
「ちぇすとぉ――――ッ!」
突如として上がった奇声にぎょっとして顔を上げると、隣に座っていたはずの彼の姿はなかった。……代わりに、いたのは。
「やっ フィーちゃんただいまー」
派手な水しぶきが上がった事などまるで気にしていないその声の主は、先刻偵察に行くといって出かけたはずのエルフの青年のものだった。――さらに言うなら、奇声と共に黒髪の青年を泉の中に蹴り込んだのも彼である。
「あ、あの……アーネストさんが……」
突然の出来事についていけず、あわあわと口から発せられるものは言葉になっていない。
しかしいきなり現れた彼は全くこちらの話など聞いてはいなかったらしい。
「男は皆狼なんだから気をつけなきゃダメだろー? いくら相手がそうは見えなくったってそういう奴に限って頭の中じゃ何考えてるかわかったもんじゃないんだから。二人っきりになるなんて言語道断。いい?」
何故かこちらの手を力いっぱい握り、一気にまくし立てるがしかし彼が何を言いたいのかさっぱりわからない。
完全に混乱している中、泉の方からざぱんっという音がふいに上がった。
「……その狼の最たる奴が何を言うか」
恨めしそうに岸に上がりながら、かろうじて水の中に落ちなかった、腰から外しておいた剣を黒髪の青年は握る。厚着でいる彼がずぶ濡れで衣服が纏わり付いていなかったら間違いなくエルフの青年は斬られていただろう。
「ま、そんな事はどうでもいいとして。この先ちょっと行った所に家があってさ、そこにいた女性がまた美人さんでさー」
黒髪の青年の攻撃範囲から外れた所にいる彼はうきうきしながら偵察の報告を始める。
「……つまり俺はお前の下らん思惑のせいで全身ずぶ濡れになったと?」
この現状を『そんな事』で事を片付けられてしまった青年は張り付いている黒髪を鬱陶しそうに払い、目の前の相手を睨み付ける。
「何事も口実だよ、君」
あ、ばれた? とでも言いたげな表情でいるエルフの青年はしかし嬉しそうだ。
「馬鹿らしい……」
ぼたぼたとしとど落ちる水が彼の足元に水溜りを作り、このままでは風邪を引くから、と自分は荷物の中からタオルを出して差し出す。黒髪の青年は無言のままそれを受け取りがしがしと頭の水気を取り除く。
「いいじゃん水遊びなんて懐かしいだろー? 昔はよく遊んだじゃないか」
相手の剣が確実に届かない範囲に逃げてこちらに近付こうとしない彼は、忘れたとは言わせないぞー、と、じと目で見返す黒髪の青年に言った。懐かしそうな笑みを浮かべる彼とは対照的に、すでにぐっしょりと濡れたタオルを絞るずぶ濡れの彼はむすっとして、
「忘れるか。あれだけ水の中へ突き落とされれば嫌でも覚えている」
と、吐き捨てるように言った。
「は……突き落とし……?」
その言葉に、彼の長い髪を拭くのを手伝っていた自分は思わず聞き返す。
「愛情表現だコミュニケーションだとかいって散々やられたんだ」
「えーだってお前笑わねーし泣きもしねーんだもん。普通感情あるのかよって疑うもんじゃんねぇ?」
むすーっと普段から目付きが鋭く、怒っている様にさえ見える黒髪の青年の表情がますます仏頂面になるにも拘らずしかしエルフの青年はかんらかんら笑いながらこちらに促す。
「え、えと……兄弟のように育ったのですね」
どう返していいものかわからず、曖昧な返事を返すとエルフの青年はふと、考え込んだ。
「んー、兄弟って言うよりは親子? なんてーの? 育ての親?」
「……誰が誰の親だと? 減らず口を叩くようなら斬るぞ」
彼がその言葉と共に大剣の柄に手を伸ばしかけたところでエルフの青年は口を閉ざす。心なしか、彼の顔色は悪く見えた。
「……親、ですか?」
そんな彼に閑話休題といわんばかりにとりあえず素直な疑問を投げかける。
殆ど外見年齢の変わらない二人を見比べて――二人とも二十かそこらに見えるがしかし実際は違うのであろうか。
「あぁ、フィーちゃん知らないんだ。そっか、そりゃ普通の人間は知らなくて当たり前か」
一人で納得したらしいエルフの青年は、やはり黒髪の青年から少し距離を保ってからこちらに笑みを投げかけながら説明してくれた。
「アーネストは今年で十九だよ。ンで、俺が今年で八十四歳」
さらりと、なんでもない事のように言われ危うく聞き逃すところであったが。
「はち……ってえぇ!?」
黒髪の青年がまだ成人していなかったという事も結構自分的に驚いたのであるが、しかしエルフの青年が告げたとんでもない数字に思わず奇声が口からこぼれていた。
そんなこちらの様子を面白そうに眺めながら、エルフの青年はやはりからからと笑う。
「驚いた? エルフの平均寿命は二百五十だから、俺は人間に換算すると二十二ぐらいかな? 因みに寿命が尽きる直前まで老化現象がなくて肉体的・精神的な衰えもないんだよ」
「つまり変態も死ぬまで直らんという事だ」
あらかた髪の毛を拭き終わった黒髪の青年が、立ち上がりながらぼそりと言った。
そうして、くしゅっと小さくくしゃみをする黒髪の青年にエルフの青年は誰が変態だよ、口を尖らせながらも、
「そうだな、このままじゃホントに風邪引いちまうな。口実も出来た事だしはやく美人さんの所に行くかぁ」
ぐーっと伸びをしながら言う。
アーネストの仇討ちの旅だから特に目的地はないんだよ、と前回教えてくれたエルフの青年のその表情はとにかくとても良かった。
「食料の補充と備品の確保が優先だろうが」
そのあまりにもすがすがしすぎる表情に、既に目的が違ってきているように思えたのは何も自分だけではなかったらしい。黒髪の青年が外しておいた大剣と小太刀を腰に戻しながら確認するように口にした。
「ま、旅は道連れ世は情け。旅先の素敵な人との出会いを大切にしよう!」
……しかし既に舞い上がっているエルフの青年の最重要事項は「旅の必需品の確保」ではなく「女性との出会い」であるらしい。
「そういうわけでフィーちゃんとの出会いも大切に……」
「え、あ、はい……ですがあの、イアンさんとロゼさんは……?」
ぎうぅぅぅっとこちらの手を握り締めてくるエルフの青年に離してやれ、と言った黒髪の青年の拳が炸裂したのと自分の声が発されたのは同時であった。
そして、旅の再開のために荷物を確認していた彼らの動作がぴたりと止まる。
「……イアン、ねぇ……」
エルフの青年の呟き。
「あいつならお前が偵察に出た後ふらっとどこかへ行ったぞ。荷物がそのままだからそのうち帰ってくるんだろう」
黒い髪の青年の言葉。二人とも少し表情を硬くしての一言。
「え……? あの、何か……?」
何か不穏なものを感じ、小首を傾げる。
「あいつは、あまり信用しない方がいい」
くるりとこちらに背を向け、エルフの青年は荷物を持ち上げながら自分の問いに答えた。
「……それは、イアンさんが竜人の血を引いているから……?」
エルフの青年が、振り返る。
固めて置いてあった荷物は既に竜人の血を引く青年の物しか残っていない。
「無きにしも非ず……ってとこかな。まあ人を喰わないとは宣言してるけどそれが本当かわからないし……用心に越した事はないよ」
「でも……」
言葉を濁す自分に、青年は苦笑した。
「……別にそれだけが理由なわけじゃない。ただあまりにも、読めない。解らないんだ。まあロゼちゃんがくっついているからそんなに危険な相手とは思っちゃないが……」
ピクシーとエルフは同胞だからねぇ。
しかし、そうは言うもののエルフの青年は肩をすくめていた。
「得体の知れない輩には警戒しておくべきだ。……いいか、奴に気を許すな」
黒髪の青年がそう口にするや否や。
「あれー? もう出発するんだー」
金髪金目の青年とピクシーの少女が、森の中から笑顔で帰ってきた。
※
男は街から出て、森の中を歩く。『食事』の『残りかす』――白く細い女の骨や喰べるのに邪魔で引き抜いた長い髪の毛などが存外早くに見つかってしまったからだ。
随分長いこと喰べてなかったものだから人一人分だけでは胃袋は満足しない。中途半端に満たされた食欲は拍車を掛けられ、もう一人二人いただこうか、と思っていたが断念せざるを得ない。人間の力など脆弱で、殺す事などわけないが『食事』を考えれば耐えるしかない。見つかる事はまずないだろうが、万が一という事がある。
人間はしぶとくて厚顔で……汚らわしく無知なくせに勘が鋭い。いや、弱いからこそ本能的なものに縋るのか。
どちらにしろ、男は人間が嫌いであった。
彼は人間を家畜程度にしか思っておらず、家畜が我が物顔で闊歩する様は許せなかった。
本当はこんな人間の集落などに訪れたくはないのだが、男には目的があった。この世でただ一人、男の大切な者。その者を探すため男はこのような場所を訪れ世界を回るのだ。
……旅人でも、襲うか。
男は考える。旅人なら足が着く事はあるまい。辺りにさえ気を付けていれば、『残りかす』は『魔』が処分してくれる。男にとって『魔』を従える事など造作もなかった。
折よく、男二人組みの旅人に出会う。
えり好みしている場合ではない……か。
そう決断を下すと、男は極上の笑みを旅人に向けた。
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