Act,3 追撃者 - 1 -

 男は、飢えていた。

 もうずっと食べ物を口にしておらず、とある街の中で男は空腹のあまり眩暈を覚える。

 昼を告げる鐘の音が聞こえ、そろそろ『食事』をしなければ、と男は考えた。そうして行きかう人々の流れをじっと見つめる。

 と、一人の女と目が合った。渇きにも似た食欲を覚えながらも、そんなものなど微塵も感じさせないように男は極上の笑みを向ける。

 それは男が生まれた時より天から受けた幸い。食事をする時など、この生まれ持った顔立ちは非常に役に立つ。

 内心ほくそえみながら、それ表には出さずに女を食事に誘う。案の定女は簡単に引っかかった。

 男の思惑など、知りもせずに。




 昼間もなお薄暗い路地裏。そこで男は『食事』を始める。

 女は何も言わない。――言えない。男が声を上げられないように、『食事』をする前に女の喉笛を噛み砕いたからだ。

 女の首からは夥しい量の鮮血が噴出しているが、しかし男は少しも汚れない。まるで、見えない壁に阻まれているかのように。

 ――ただ、未だびくびくと痙攣している女の肉を喰べやすい大きさに引き千切る手首から上だけが、深紅に濡れていた。

 人とはとても思えぬほどの純粋な力だけで間接から捻り千切り、女の軀をばらばらにしてゆく。そして、既に動かなくなったそれの腹部にまずは己の歯を立てる。やはり人からは想像も出来ぬほどの鋭さを持つそれはいとも簡単に皮を切り裂いた。


 内臓は最も栄養価の高いところだ。獣であろうが人間であろうが、『動物』と称される以上そこにはなんら変わりはない。


 薄汚れた路地に鉄くさいものが充満し、深紅が辺りを染め上げる。

 もったいない。男は溢れ出るそれを啜った。

 甘い。やはり人間の……そう、若い娘に限る。男は硬くて女ほど美味くない。ピクシーやエルフは不味くて喰べられたものじゃない。……時々そういった珍味が良いのだという変わった好みを持つものもいたが、男はそういった嗜好の持ち主ではなかった。


 男の喉の渇きを、女の甘い血が癒していく。

 体の中に生暖かい液体が流れ込んでは全身に染み渡ってゆく。満たされるほどに、空腹に支配されていた時よりも思考が冴え始める。

 『食事』をするのも面倒になった、と男はそう思う。獲物を誘き出し、血で汚れないように体に膜を張り、万が一の為に獲物と自分の周りに結界を張って。


 騒ぎになると次の『食事』がしにくくなるから『食事』の回数は限られた。


 一月は喰べなくても平気とはいえ、ひどい時など二、三ヶ月何も口に出来なくなる。それでも、人々の往来で飛び掛りそうになるのを抑え男は耐え抜き場所を選ぶのだ。……とは雖も、空腹のあまり森の中にある小さな集落にいた人間全てを喰い漁った事もあったが。

 もう少し肉付きのいい方が良かったか、と男は徐々にではあるが満たされてゆく胃袋に満足しながらも考える。

 内臓は殆ど姿を消し、残るは苦い臓物だけ。久しぶりの『食事』にうっとりしながら男は先にばらばらにしておいた腕に手を伸ばした。


 ※


 森はあらゆるものを内包している。

 海が生命の母というなら、森はそれを育む兄弟とでも称されるべきなのかもしれない。

 命あるもののあるべき場所は、住居にも要塞にもなる。

 そこでは限りない命の営み――そして、生き死にの理が常に支配する。強ければ生き、弱ければ死ぬ。ただ、それだけ。唯一でありながら絶対のそれ。


「走れ!」


 黒髪の青年が叫んだ。

 ただ一人、背後からこちらへと向かってくる異形のものと対峙すべく立ち止まって抜き身の剣を構え、未だ姿を見せぬ『魔』の気配を、読み取り気を張って。


「アーネスト!」


 ザッと、茂みの中から突然現れた『魔』に、フィーとクレリアを守るかのように走り出していたルアードの声が上がる。

 ――それは、獣の形をした『魔』であった。

 強いて言うのであれば形状は獅子。体躯はアーネストの倍はあり、動物の生態系からは考えられぬ程異常に発達した爪と牙があった。

 それが、そのままこちらへと突進してくる。

 それを真っ直ぐに見つめ、微動だにせず構えたまま、まずは一太刀。

 その一撃で『魔』の、こちらに向けられていた巨大な爪を持つ右腕が血飛沫と共に地に落ちた。

 『魔』の悲鳴が、森の中に反響する。

 人の鮮血とは違う、『魔』から放たれるどす黒い血とその牙を難なく交わし、振り下ろした剣の反動を利用してそのまま大きく振りかぶり相手の頭へと叩き下ろす。

 断末魔。

 体液が地を染める。

 そうして地に伏して動かなくなったそれから目をそらし、振り返ると走らせていた三人の目の前に先刻倒したばかりのものと同じ種類の『魔』が、行く手を阻むかのように現れていた。


「挟み撃ち、か……」


 短く口にして。

 ルアードが放った矢がその『魔』……フォルスの前足を射抜くが動きを止めない。それは地を蹴り、最も己に近い標的――一番前を走っていたルアードに飛び掛る。


「あわわわっ」


 とっさに避けるが、バランスを崩してそのまま倒れこむ。その隙を、フォルスが逃すはずもなく。


「ルアードさん……っ!」


 フィーのか細い悲鳴。クレリアは最早顔を蒼白にしてフィーにしがみついていた。


「ち……っ」


 舌打ちと共に、大きく踏み込んで腕を振り上げたフォルスの額めがけアーネストは腰の短刀を投げつけた。

 命中。

 怯んだ相手と間合いをさらに縮め、長剣で薙ぐ。


「……情けない奴め」


 突き刺さったままの短剣を動かなくなったフォルスから抜き、はーっと大きく息をついて未だ立ち上がろうとしていないルアードに冷ややかな眼差しを送る。


「仕方ないだろー? いつもと違……」

「スゴーイ!」


 違うんだから――と言おうとしたルアードの言葉は、しかしクレリアの歓声によってさえぎられる。


「スゴイスゴイやっぱりカッコイー!」

「……はいはいわかったから、クレリアちゃんがいかにこの俺を完全無視してるかはわかったからバンダナつけてね? もう村の近くまで来てるんだからね?」


 やはりアーネストの方へにじり寄るクレリアにルアードは最早諦めたらしく――ポーズをつけてはいたものの――ぴこぴこと茶色い猫耳がせわしなく動くその頭へバンダナ、もとい薄手のタオルを押し付けた。

 ぶうーと言いながらも、クレリアはとりあえず大人しくそれに従い川に流してしまった帽子の代わりにバンダナを巻く。


「そうそう、そんなカッコでいたら魔物だかなんだかに間違われて村の人に攻撃されるから――」


 そう、言い終わらないうちに。

 日は明けているとはいえ薄暗い森の中で、何かが煌めいた。


「え……?」


 フィーが反応するよりも早く。

 ひゅぱんっ

 乾いた音と共に、明らかにこちらを狙ったそれをアーネストは切り落とした。


「……矢?」


 どすっと土に突き刺さった、真っ二つに切られたそれを見てルアードは呟く。


「あー…俺達を見て村の人たち『魔』だとでも思ったかなー? おーい村人さーん、俺達はただの旅人ですよー?」


 そう言いながら矢の飛んできた方へ歩み始めるが。


「……」


 二度目の攻撃。

 今度はルアードが飛んできた矢をかなりぎりぎりの所で掴んだ。


「……聞こえてないのかねぇ」


 やれやれとルアードが息を付いている間に、アーネストは姿の見えない「敵」へと向かって駆け出していた。

 戦闘体勢に入ってしまった二人をおろおろしながら見ていたフィーであるが、しかしじぃっと土に突き刺さった矢を見るクレリアに気が付いた。


「あの……クレリアさん? その矢がどうかしたんですか……?」

「やーねー呼び捨てでいいってのに。……んんー」


 この状態でありながらも明るく笑う彼女は、ぱたぱたと右手を振りながらずぼっと矢を引き抜いた。泥で汚れているとはいえ、鋭く尖った矢じりは殺傷力の高さを示す。


「……なぁんかどっかで見たような気がするのよねー。この森の感じといい木の茂り具合といい」

「どこかで見た……?」


 そう言っている間にも事態は進んでゆく。

 向かってくる矢をすべて切り落としながらアーネストは「敵」のいるらしい茂みの中へと突っ込んでいっていた。


「わぁ!」

「そうそうこの声もどっかで――」


 切り込んだアーネストに「敵」――というよりは村人が悲鳴をあげたがしかしクレリアはやはり何か考えている。


「おいアーネスト! お前乱暴すぎ……」


 さすがに矢を撃てなかったルアードが慌ててその茂みの中からその村人を引きずり出したアーネストの元に駆け寄る。

 そして。


「……?」


 ぴたりと動きを止めたルアードに、訝しげにフィーは視線をやった。クレリアは――相変わらず難しい顔をして考え込んでいる。

 哀れにも引きずり出され地に伏せられてしまった村人は、一人の青年だった。明るい、黄色がかった長い茶髪を一つにまとめ緑の瞳を持つ彼は、どことなくではあるが……誰かに似ている――と。


「ああっ!」


 突然クレリアが叫んだ。その声にビクッとしたものの、取り押さえられている青年がクレリアの方に目をやり、そうして。


「セイロン!」

「馬鹿姉貴!」


 ほぼ同時に、二人の声が森の中に木霊した。

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