第40日 何でもできる神様

 目を開けると果てしない無が広がっていた。


 ――無。何もないこと。有の逆。

 無を一言で形容するのはひどく難しい。神学、物理学、数学、哲学などのそれぞれの分野で定義がなされているくらいだ。けれど、残念ながらぼくにはそんな難しいことはわからない。

 ただ目の前に広がる光景を見て「無」だと思ったのだ。空を見て「青い」と思うのと同じように。そこに深い意図なんてない。


 しかし、無の世界は突如として終わりを迎えた。何もないところから一人の女性が現れたのだ。同時に、背景が白に包まれる。彼女の登場によって、色さえも無い世界に白色が現れたのだ。

 白色とは光の三原色全てを含有したもの。だから、今まで無が広がっていたぼくの視界にも、今は全ての色が存在することができる。現に目の前の彼女はとてもきれいな色を見に纏っていた。

「あら、迷子? 奇妙なお客さんもいるのね」

 艶やかに流れる長い黒髪を撫で、彼女は桃色の唇から言葉を紡いだ。一気に無を有に変えた女性。これだけでもぼくはかなり驚いたのだが、もっと驚いたのが彼女の顔。

 ――目の前の彼女は、幼馴染の彼女にそっくりな顔をしていたのだ。

 なのに彼女はまるで初対面のように話しかける。もしかしたらドッペルゲンガーかもしれない。世界には同じような顔をした人間が二、三人はいるというやつ。


「えと、はじめまして。ここはどこですか……?」

 ぼくがおずおずと言って見せると目の前の彼女はころころと笑った。笑い方まで幼馴染の彼女そっくりでぼくは複雑な気持ちになった。

 彼女が笑うのに合わせて、光沢のある白のワンピースがさらさらと流れる。装飾のない、ゆったりとしたワンピース。どこか神聖な雰囲気があった。

 ぼくの質問に彼女はゆるりと微笑んだ。

「さあて。きみには教えられないわ。教えてもいいけれど、きっときみの精神が崩壊しちゃうもの。他に質問はある?」

 それは怖いな。彼女が優しい人でよかった。

 それよりも話せば話すほど彼女が幼馴染の彼女に見えてくる。話し方、細かい仕草、笑い方、どこを切り取っても幼馴染の彼女そっくりだった。

「じゃあ、あなたは誰ですか」

「わたしは神様よ」

 かみさま。カミサマ。ああ、神様。

 その短い単語が理解できなくて、彼女の澄んだソプラノがぼくの頭をぐるぐると駆け巡った。神様。なんだろう、新手の宗教だろうか。でも彼女の神聖な雰囲気のせいで、その言葉は嘘でも誇張表現でもないんだろうなと思えてくる。何とも不思議だ。

「神様……」

 たぶん、今のぼくはひどく間抜けな面を引っ提げているのだろう。目の前の彼女がふふっと笑ったのだから確実だ。

「驚くのも無理ないわ。でも、本当よ。わたしは何でもできるの」

 そう言うが早いが、彼女はぱちりと指を鳴らした。


 すっ。

 虚空から音もなく四つのスイッチが現れた。


「これはね、四季のスイッチ。どうして世界に四季があると思う? それは地軸の傾きがあるからだって言われているけれど、実はわたしが調節しているのよ」

「はあ」

 あまりにも規模の大きい話をされてぼくは気の抜けた返事をしてしまった。季節を調節している?

「……何その顔、信じていないみたいね。でも考えてみてごらん。地軸の傾きは決まっているのに、どうして毎年決まった日に決まった温度にならないのか不思議に思ったことはない?」

 それは地球を取り囲む大気とか海などの様々な要因ではなかろうか。そうぼくが口を開く前に彼女は続ける。

「今年は冬の入りが遅かったじゃない? それでもって秋が異様に短かったでしょう?」

 ぼくは今年の秋を振り返って確かにそうだなと思った。夏から一気に冬に変わったイメージがある。四季じゃなくて二季だ、なんて言われていたっけ。

「確かに」

「それはね、わたしのせいなの。ぼんやりとしていたら秋のスイッチを押すのを忘れてしまっていて。慌てて冬のスイッチを押したから今年は秋が短かったのよ」

 うっかりしちゃった。そう彼女はぺろりと赤い舌を覗かせた。

「そうだったんだ……すごいね」

 ぼくが半ば呆然として呟くと、彼女は途端に吹き出した。肩を震わせて笑うものだからツボに入ったのかもしれない。

「ふ、ふふっ。嘘よ、嘘。冗談に決まっているじゃない。ね、きみって騙されやすいって言われたことない?」

「いや、ないよ」

 些かむっとしてぼくは答える。

「あはは、ならごめんなさいね。きみの顔を見るとついからかいたくなっちゃって」

 あー久しぶりに笑った笑った、と彼女は目尻に浮かんだ涙を拭った。


「……きみはいつからここにいるの?」

 ぼくが問うとようやく彼女は笑いを引っ込めた。そのまま顎に手を当てて考え込む。幼馴染の彼女と同じ仕草。

「さあて。わたしが生まれた時にはここにいたわ」

「じゃあ、いつまでここにいるの?」

「さあ。わたしは不老不死だから、きっと未来永劫ね」

 未来永劫。彼女はさらりと言って見せるがぼくはその果てしなさに震えた。ぼくには幸か不幸か人生に終焉があって、だからこそぼくは頑張れるのに、目の前の彼女にはそれがないらしい。

「そっか。……ちなみに、神様って何をしているの?」

 先程の季節をいじっているというのも、あながち嘘ではないかもしれない。彼女は白いワンピースを揺らし、白いすらりとした手で頬杖をついた。どこか厳かで神様らしい佇まい。澄んでいるけれど、深みのある声がぼくの耳を優しく撫でる。


「わたしは人間の願いを叶えているわ。時々、意志を持つ他の生物の願いも叶えている。誰かの願いを叶えることが神様のしごとよ」


 得意げに彼女は微笑んで見せる。これが神様。でもぼくには幼馴染の彼女にしか見えなかった。

「素敵な仕事だね。……きみはさ、人間に憧れたことはある?」

 そう言うと彼女は先程の得意げな微笑みを消し、今度は曖昧な笑みを浮かべた。表情だけでは答えがわからなかった。

「終わりがあるのは、羨ましいと思うわ。神様に終わりはないもの」

「じゃあ、どうして神様をやめないの」

 彼女は哀しそうにわらった。

「神様はね、自分の願いを叶えられないのよ。神様の存在意義は、誰かの望みを叶えることなの。私利私欲のために神様が何でも叶えられてしまったら、世界は崩壊すると思わない?」

 ぼくははっとした。確かに。もし神様の願い通りになったとしたら、今頃世界はもっともっと悲惨なことになっているのかもしれない。

「この世界はうまくできているのよ。運命はわたしたち神に何でもできる力を与えたけれど、わたしたちの願いだけは叶えられないようになっている。だから望んでも無駄」

 

 何とも哀しいことだ。人の願いを叶える神様は、自分の願いだけは叶えられないなんて。ただ与えるだけの存在。


「それでもきみといた時間はとても楽しかったわ。きみったら面白いもの。どう? わたしのアシスタントにならない? わたしならきみに不老不死をプレゼントできるわ。きみが望みさえすれば、わたしは何でも叶えられる」


 不老不死。かつてかの始皇帝ですら求めたという不老不死。それがぼくの前にいとも容易くぶら下げられているのだ。でもそうやって与えられると、不老不死だって大して魅力的に思えなかった。

「……いや、遠慮しておくよ。あいにく不老不死には興味がなくて」

 ぼくがそう言うと、彼女はすっと視線を落とした。

「そう。なら、ほかの願いを叶えてあげる。それがわたしの存在意義だから。億万長者になりたい? 健康のまま死にたい? 想い人と結ばれたい? きみの願いを一つ言ってみなさないな。何でもいいから」

「ぼくは……」

 すっと彼女の目を見つめて言う。もう迷いはなかった。


 ――ぼくは、きみの願いを叶えたい。


 そう言葉にした途端、真っ白な光がぼくの意識を溶かした。

 

 ♢


 チチチ、とどこかで鳥が鳴いている。白い朝がやって来たのだ。

「おはよう。いい朝だね」

「うん。おはよう。今日はどこへ行こうか」


 今日も今日とてぼくは終わりある人生を謳歌する。幼馴染の彼女と共に。

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