第27日 雨垂れ石を穿つ

 放課後の音楽室は、幼馴染の彼女の庭だった。


 ぼくの小学校には吹奏楽部も軽音部もなかった。だから、放課後の音楽室には先生を含んで誰もいなかったのである。ただぽつねんとピアノが置いてあるのみ。そこに用事を見出すものは誰もいなかった。

 ――幼馴染の彼女とぼくを除いて。


 彼女はよく音楽室へと足を運んだ。家が近かったため、毎日一緒に帰る約束をしていたぼくはもちろん道連れだ。

「先生に許可はとってあるのよ」

 優等生だった彼女は先生からの信頼も厚かった。当時合奏の伴奏を任されていた彼女は、その練習をするという名目で毎日音楽室に足を運んでいた。けれど彼女は雨の降る日しか伴奏の練習をしなかった。


 晴れの日はというと。

「わたし、この曲が一番好きなの」

 そう言って彼女はどこか物哀しい、けれどどこか心落ち着くような曲を弾くのだ。晴れの日にはいつもこの曲が音楽室に流れた。

「この曲はね、雨だれのプレリュード。ショパンがつくった曲」

 穏やかなメロディーから始まるのに、静かな嵐のような激情を震わせるようなメロディーがぼくを貫いていく。ぼくはそんな彼女の音楽のかいなに抱かれるのが好きだった。


 それでも一つの違和感がどうしても拭えなくて、ある日彼女に質問してみた。

「雨だれって――雨の日に弾くのがいいんじゃないの?」

 そう言ったぼくに彼女は呆れたとでもいうような視線を寄こす。

「晴れの日に雨を想い描かせるような演奏がいいのよ」

 なるほど。ぼくはあっさりと論破された。


 それにしても彼女は雨だれのプレリュードを弾きすぎだと思う。ぼくはピアノの楽曲にそこまで詳しくなかったが、この雨だれのプレリュードだけは耳に胼胝ができるほど聴いた。だって晴れた日彼女はいつもそれを弾くのだから。

 好きなのはわかるが、どうしてそこまで執拗に弾くのかがぼくには理解できなかった。それでも彼女の音楽はとても心地よかったのでぼくは止めなかった。忍び寄るような雨だれ。それがぼくの小学生高学年の思い出だった。


 ♢


 その日はひどい大雨だった。窓ガラスを横殴りの雨が打ち付けていて、家の中にいるというのに雨音がうるさく聞こえてきた。適当にお気に入りのJ-POPを聴いていたというのに、すっかり雨音にかき消されてしまった。大音量にして聴くまでもないと思ったぼくは一時停止ボタンを押して音楽を止めた。

 

 雨は止む気配が全くない。むしろ雨脚は段々と強さを増していて、窓が騒がしい。台風でも来たのかというほどの大雨で、心の奥底に眠る少年のぼくが胸を躍らせている。雷が地響きのように大気を震わしていく。幸いぼくは雷を怖いと思ったことがないので、ただ非日常に心を躍らせていた。

 ――それにしてもうるさい。

 ここまで激しい雨は珍しい。雨、雨、雨。もっと忍び寄る雨の方が好きだな。そう思っていた矢先、ぼくの脳裏で雨だれのプレリュードが再生され始めた。同時に彼女がピアノを弾く姿もぼくの脳裏を駆け巡る。それはそれは鮮明に。

 先程まで聴いていたJ-POPなんてもうどこかへ行ってしまった。ぼくの脳はもう雨だれのプレリュードと彼女で支配されている。


 窓を叩きつける雨、ぼくの脳裏で踊る雨だれのプレリュード。


 そういえば、あの時彼女はこう付け加えたのだ。

「――あとね、もう一つ理由があるの。うまくいくかわからないけれど」

 にこにこと悪戯をたくらむような笑みでぼくの瞳を覗き込んだ。

「いつかきみが雨の日に、ふとわたしの演奏を思い出してくれたら嬉しいなあって」


 ――おめでとう、きみの策は成功だ。

 まんまとぼくは彼女のことを思い出してしまって、それが頭から離れないのだ。

 音楽で振り回されて、記憶でも振り回されて。ぼくの完敗だ。


 雨音とピアノの音がぼくをあざ笑うように駆け巡っていた。

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